【6-7】忙殺された1日と魂の防衛線、あるいは実践の停滞について
【6】忙殺された1日と魂の防衛線
今日は、忙殺を極めた一日だった。朝から幹部定例、週末の全社キックオフの表彰選考会、営業からの案件相談、今日〆切のコンサル資料の作成などなど。
忙殺とは、「心が殺され亡くなる」ということだ。こうして人はバーンアウトしていくんだろうと思う。テクノロジーによって余暇が増えるといって話もあるけれど、ぼくはあまり信用してない。社会に出てもう20年になるけれど、テクノロジーは進化しても、ちっとも仕事量は減っていないし、余暇を増やすことなどできてない。テクノロジーは確かに仕事を減らしてくれる、でも、愚かな人類は新しい仕事をつくりだす。しかも、そのつくりだされた仕事は弱者を救済するものでもなく、強者をさらに富めるものにするような仕事ばかりである。
だから、大事なことは、今日のような心を亡くす日をできるだけ少なくすることだ。仕事とか環境によって、自分の心を痛めつけてはならない。そのためには、絶対に守るべき休息や趣味、学習などの時間を決めたうえで仕事に取り組むことだ。仕事の時間を削ることになるので、勇気のいることだ。でも、怖いからといって、自分を犠牲にしていいことにはならない。勇気ある者だけが、自分の身をまもり、魂を守ることができるのだ。
2025/01/08 20:53 茅ヶ崎 自宅の書斎にて
【7】実践の停滞
今日も今日とて忙殺された1日であった。午前中は社内のマネージャーに向けたワークショップの実施。午後は営業部長、メンバーとのミーティングがあったりで、気づいたらこんな時間である。自分の時間を本気で守らないと、やりたいことなどやれずに終わっていくのが人生なんだろうか。そんなことを考えている。
実践は何気に継続している。ここ最近は筋トレと瞑想だ。昨日は腹筋、今日は背筋ということで、ほぼ全身が筋肉痛という仕事始めの1週間になりそうだ。瞑想は、朝に1回、寝る前に1回おこなうようにしているが、すぐに集中がきれてしまって、深まっていく感覚を体験できていない。今週、土曜日に事業部への方針発表が控えており、大人数で話すということもあって、心がけば立っているのかもしれない。呼吸に意識を向けて、10まで数えるというシンプルな瞑想だが、気づいたら、思考に乗っ取られている。思考と同一化している自分に気づく。同一化した自分に気づいて、また、呼吸に意識を向ける。その繰り返しだ。思考を対象化し、感情を対象化し、身体を対象化し、すべての目撃者としてのI amness<私性>にくつろぐ。そうした経験を取り戻したいものだ。この数年のブランクが集中力のなさ増長させてしまったな、と思う。それと合わせて、夢分析も滞っている。ここ2日間は、リアルに憶えている夢がない。だから、夢分析もできていない。実践の停滞を感じる。ただ、まだ新年明けて早々である。地道な継続が花開くのを楽しみにしている。
2025/01/09 19:28 茅ヶ崎 自宅の書斎にて