日本のIT産業は、なぜ世界に通用しないのか
かつて「社員にやさしい会社」といわれてきた富士通は、今回5000人のリストラを打ち出した。... 3000人を募ったNECは、これまで何度もリストラを繰り返してきた。2012年には、1万人の人員削減を実施している。... 早期退職しない限り面接が続き…「45歳以上クビ切り」横行中
知り合いから紹介されて、「あるソフトウェア工学者の失敗、日本のITは何故弱いか」という論文を読みました。京都大学の林普博士が書いた文章です。
数学からITの世界に入り、関数型プログラムの自動生成の方法などを研究していた方ですが、最後には「日本のITが世界で通じない理由は、技術的・産業的なものではなく、社会的・文化的なものである」と結論づけている点は素晴らしいと思います。しかし、その違いがどこにあるのか、というもっとも大切な部分に踏み込んでいないため、ちょっと消化不良を起こしてしまいます。
そこで、補足として、私なりのその社会的・文化的な違いを列挙してみたいと思います。
1. 意思決定プロセス
日米の企業を比較した時に、もっとも違いが際立つのが「意思決定のプロセス」です。
ソフトバンクやファーストリテイリングのように、創業者が元気な会社を別にすると、日本のほとんどの大企業は、「サラリーマン経営者(創業者でも大株主でもない、雇われ経営者)」が経営しています。
彼らがとても重視するのは、社内のコンセンサスであり、さらにそのコンセンサスに到るまでのプロセスです。責任の所在が明確になるトップダウンでの決定(=鶴の一声)を極端に嫌い、市場調査や競合製品との比較をベースにした、「データに基づいた意思決定プロセス」を好むのです。
米国の企業でも、市場調査はしますが、それは経営者が決定を降すための材料でしかありません。データから自動的に「すべき決断」が導き出されることはほとんど無く、結局は、経営者が責任をとって「えいやっ!」と決断を下すしかないのです。
優秀な経営者とそうでない経営者の差は、その決断のスピードと説得力の違いとして現れます。不十分なデータしかない中で、素早く意思決定をし、かつ、その決断に基づいて社員全員が一丸となって働くために必要な「説得力」(有名なのは、Steve Jobs の「現実歪曲空間」とまで呼ばれた説得力)を持つ人が素晴らしいリーダーなのです。
日本の、特にサラリーマン経営者が経営する大企業の場合、意思決定までの過程に膨大な時間が費やされます。調査や資料作りもそうですが、大勢の人が出席する長時間の会議が数多く開かれます。多くの場合、経営者の心の中では早い時点で方向性は決まっているのですが、それを全員に納得してもらうための、そして、その決定はトップの独断では無くデータに基づいたものだ、と言う「エビデンス作り」に膨大な時間とエネルギーが費やされるのです。
ちなみに、今でも強烈な印象が残っているのが、菅直人総理による「脱原発」宣言です。福島第一での過酷事故のあと、国のリーダーとして、(欧米であれば当然のごとく)「脱原発で行く」と言うトップダウン型の意思決定をしたのですが、(官僚たちを巻き込んだ)根回しやエビデンス作りを一切せずに行ったため、霞ヶ関の官僚たちからは完全に無視されてしまったし、民主党の中ですらうやむやにされてしまったのです。
「エビデンスありき」で「責任の所在が曖昧」な日本型の意思決定プロセスを採用していると、脱原発(日本政府)や、パソコン事業からの撤退(ソニー)、原発事業の損失の一括償却(東芝)などの「痛みを伴う意思決定」にやたらと時間がかかるようになります。また、まだ世の中に存在しない、ニーズすらはっきりと見えない新製品に投資することが難しくなり、「Windowsパソコン」や「Android ケータイ」のような、ライバルとの横並び製品ばかり作るようになってしまいます。
米国という「追いつき、追い越せ」という明確なターゲットがあった高度成長期には、そんな意思決定プロセスでも十分に世界で通用したのですが、バブル崩壊後は、それではすっかり通用しなくなっているのですが、未だにそんな悪習を続けているのが日本の大企業なのです。
2. プログラマーの立ち位置
ソフトウェアは、今や IT 産業だけでなく、様々な産業で非常に重要な役割を果たしますが、そんな中で、際立つのが、プログラマー(ソフトウェア・エンジニア)の立ち位置の違いです。
(私自身が経験したのですが)米国では、ソフトウェア・エンジニアは、プロスポーツチームのアスリーツのような扱いを受けます。給料やストックオプションなどの待遇が良いのはもちろん、彼らの生産効率を最大限にするための、様々な工夫がされています。
プログラマーの周りには、仕様書を書いたり工程管理をするプログラムマネージャと呼ばれる職の人たちがいますが、彼らの仕事は、プログラマーたちのモチベーションを上げ、生産効率を上げることにあります。プロスポーツチームで言えば、トレーナーやコーチのような役割です。
そんなプログラマーたちの中でも、トップクラスに属する人たちは、クリエイティビティに溢れている上に、時代の流れを読む力があり、仕様書などには頼らず、社会にとって必要なもの、会社に価値をもたらすものを、たった一人で作り出してしまいます。
経営者の役割は、そんなプログラマーたちがクリエイティビティを発揮できる環境を作り、彼らが作り出したソフトウェアの中から、「ダイヤの原石」を見出し、それに必要な人員を周りに付けて製品化し、会社の利益に結びつけることです。
その意思決定プロセスは、ボトムアップ(優秀なプログラマが誰にも頼まれずに作ってしまったダイヤの原石)とトップダウン(「このソフトウェアに社運を賭けよう」という鶴の一声)の組み合わさったものです。
私は、幸運なことにマイクロソフト時代にそんなプロセスに直接関わることが出来ましたが(Windows 95 と Interner Explorer 3.0)、一人一人のエンジニアが大きな影響を与えることができるソフトウェア業界だからこそ可能な、非常に特異な意思決定プロセスだとも言えます。
一方、日本のIT産業は、プライムベンダーと呼ばれる大手IT企業の傘下に子会社、孫会社、という形の系列会社が連なる「ゼネコン」スタイルのビジネスが幅をきかせています。
顧客に近いところにいる(=上流の)エンジニアたちは、ちゃんと理系の大学を卒業しており、それなりの給料をもらっていますが、自分たちではプログラムは書かず、仕様書だけを書いて、あとは下請けに任せるという仕事をしているため、ソフトウェア・エンジニアとしては、世界では全く通用しません。
子会社や孫会社でプログラムを書いているプログラマーは、「士農工商プログラマー」と揶揄されるぐらい地位は低く、低賃金で、劣悪な環境で働かされています。彼らの多くは、理系の大学すら出ておらず、仕様書通りにプログラムを書くため「IT土方」と呼ばれたりもします。
そんな環境では、優秀なソフトウェア・エンジニアは育たないし、上に書いた「ダイヤの原石」のようなソフトウェアは決して生まれて来ません。
つまり、極端な言い方をすれば、
日本では、サラリーマン経営者が、市場調査と長時間の会議で作り上げた「誰が見ても作るべきエビデンスの揃った製品」の仕様書を子会社に丸投げして、それを劣悪な労働環境に置かれたIT土方たちがプログラムに落とし込むという形でソフトウェアが作られている。
米国では、プロスポーツ・チームのアスリーツのような待遇のソフトウェア・エンジニアたちが、経営者の(世の中が何を必要としているか、会社はどこで勝負すべきかなどの)メッセージに耳を傾け、(仕様書などに頼らず)作り出したソフトウェアの中から、「ダイアの原石」と呼べるものを経営者が見出して製品化するという形でソフトウェアが作られているのです。
さらにこの背景には、なくなると言われながら、根強く残っている終身雇用・年功序列・新卒一括採用制、企業の新陳代謝を阻害する政府の大企業優遇政策、貧弱なベンチャー支援環境があり、この状況からの脱却を難しくしています。
そうは言っても、日本でもベンチャー企業やゲーム会社には、米国型の意思決定プロセスの会社もあるし、逆に米国にも IBM や Accenture のような硬い会社もあるので、100%このまま当てはまる訳ではありませんが、冒頭に紹介した論文の「社会的・文化的な違い」を分かりやすく書けば、こういう話になります。
この記事は、メルマガ「週刊 Life is beautiful」からの引用です。毎週火曜日、米国のIT事情やベンチャー市場、および、米国と日本の違いなどについて書いています。
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