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学生時代にソフトで3億円稼いだ話

noteのCEOの加藤さんと昔話をしていたら、色々と懐かしいことを思い出したので原稿にしてみました。30年以上前のパソコンの黎明期の話ですが、時間のある時にでも読んでいただけたら幸いです。

加藤:中島さんは、Microsoft本社でWindows95のアーキテクトをしたことで知られていますが、Wikipedia によると、それよりもずっと前の大学生のときにCANDYというソフトを作って「3億円ものロイヤリティを稼ぎ、マンションを3つも購入した」となっていますが、今回はその話を是非ともお聞きしたいと思います。

中島:はい。でも、Wikipediaには若干誇張があって、マンションを購入したのは学生時代じゃなくて、就職してからだし、1つしか買っていません。

加藤:3億円稼いだというのは本当ですか?

中島:トータルでどのくらいのロイアリティをもらったのか計算したことはありませんが、その頃は年間数千万円の収入があったので、トータルだとそのくらいになったのかも知れません。

加藤:すごいですね。CANDYってどんなソフトだったんですか?

中島:パソコン用のCADです。設計の時の図面を書くソフトです。

加藤:どうしてパソコン用のCADを作ることになったんですか?

中島:当時(1980年ごろ)、アスキー出版というパソコン雑誌の出版社に学生アルバイトとして出入りをしていました。ある日、私の上司だった古川さん(古川享氏)が、米国のマイクロソフトからマウスを持って来て、「アスキーは、これからこのデバイスを日本に輸入して販売することになった」と見せてくれたのです。

加藤:その頃は、まだマウスは普及していなかったのですね。

中島:はい。そして、「新しいデバイスを売るにはソフトが必要だ、誰か作ってくれないか?」と言うので、すぐに「ハイ」と手をあげて作ったのがCANDYだったのです。

加藤:そうは言っても、その頃はパソコン用のCADは世界中どこにも存在しなかったし、なんでそんなものを作ろうと思ったのですか?

中島:私の父が建築家だったので、数千万円もするワークステーションで動いているCADソフトは見たことがあり、それがヒントになりました。また、偶然にもその頃、「直線を素早く描くルーチン」作りに燃えていたため、それが活用できる、と閃いたのです。

加藤:「直線を素早く描くルーチン」って何ですか?

中島:その頃は、ちょうどNECのPC-9800が発売されたばかりでした。日本で初めて、本格的なグラフィックスの表示機能を持つパソコンだったのですが、当時はGPUもなく、CPUもとても遅かったので、まともなグラフィックス・ソフトが動いていなかったんです。

中島:そこで私としては、とにかく直線を素早く画面に描くことが出来なければ何も始まらないと、その開発を趣味で懸命にやっていたのです。

加藤:趣味で、ですか。難しかったのですか?

中島:はい。当時のCPUはとても遅かったので、直線を描くルーチン(ひとかたまりのプログラムのこと)は、アセンブラ(マシン語)で書きました。最適化するには、命令ごとのクロック数を計算しながらプログラムを作らなければならなかったので、とても手間がかかりました。

加藤:職人芸ですね。

中島:はい。その通りです。今だにプログラミングは職人芸だと思っていますが、当時のアセンブラでのプログラミングは、その極みでした。

加藤:CANDYの開発にはどのくらい時間がかかったんですか?

中島:全部では6ヶ月ぐらいです。一番難しかったのは、CADが当時のパソコンでも十分に使える速さで動くことを証明するプロトタイプの開発で、2週間ほど家にこもって作りました。一度集中すると、文字通り「寝食を忘れて仕事をする」タイプなので、ものすごく生産性が上がるんです。

中島:最初はなかなか思ったスピードで動いてくれなくて。でも、途中でCADの場合には水平な線と垂直な線の描画が多いことに気がついて、その二つの特殊なケースに特化した別のルーチンを用意して、ようやくサクサクと動くようになりました。

加藤:そのプロトタイプを古川さんに見せたんですね。

中島:はい。マウスを借りてから2週間後にアスキーにプロトタイプを持って行ったら、とても喜んでくれて「是非とも商品化しよう!」という話になりました。

加藤:それはそうでしょうね。世界初のパソコン用CADですものね。

中島:私も「これは売れそうだ」と思い、「これからは(バイトとしての)時給はいりません。ロイヤリティ契約にしてください」と交渉したんです。

加藤:当時、大学生だったのに、そんな交渉が出来たんですか?

中島:はい。高校生の頃からソフトウェア・エンジニアとして稼いでいたので、ソフトウェアがお金になることは十分承知していたし、良い経験も悪い経験もしていたからです。

加藤:良い経験とは?

中島:高校生の時に、MS-DOSの移植で2週間で50万円稼いだりとか。

加藤:高校生で50万円も稼いだんですか。その話も別の時に聞かせてください。悪い経験の方は?

中島:私が作ったGAME80コンパイラというソフトを、1ページ3000円の原稿料をもらって月刊アスキーに載せてもらったのですが、後に、それを別の人が他の機種に移植したものをアスキーが販売し、その人だけがロイヤリティをもらったとうい事件がありました。

加藤:中島さんには一銭も入らなかったのですか?

中島:はい。当時は、ソフトウェアの著作権も明確に定義されていなかったので、雑誌に公開したものは、自動的にオープンソース扱いされていたんです。でも、それが良い経験になって、CANDYの時にはちゃんと交渉できたんです。

加藤:高校生の時からそんな経験をしていたんですか。今の高校生に聞かせてあげたいですね。

中島:当時、私の友人の多くは喫茶店のウェイターとか家庭教師のアルバイトで稼いでいましたが、私はソフトウェア・エンジニアという「職人」として稼いでいたので、経験の質は大きく違ったと思います。

加藤:ちなみにCANDYは一人で作ったんですか?

中島:はい。笹渕さんという人が担当になってくれて、会うたびに「すごいね!」とか「こんなことが出来たらいいな」と励ましたり、アイデアをくれたりしましたが、プログラミングそのものは、私一人で作りました。

加藤:一人で作るのは大変だったでしょうね。どの辺りに苦労しました?

中島:一番苦労したのは、プリンタとプロッタのサポートです。CANDYはMS-DOS上に作ったのですが、MS-DOSはWindowsのようにプリンタを仮想化していないので、全部自分で作らなければならなかったのです。

加藤:プリンタの仮想化って何ですか?

中島:デバイスごとの違いをOSで吸収して、プログラマーが違いを気にせず使えるようにすることです。最近のOSには、全てそんな機能が付いていますが、MS-DOSの時代はそんなものがなかったのです。

加藤:大変ですね。

中島:プリンタとプロッタで40機種ぐらいをサポートしたんですが、それぞれのデバイスのマニュアルを丁寧に読み、機種ごとに異なるデバイスドライバーを作って、テストしてということを繰り返すのに膨大な時間がかかりました。

加藤:それを全部一人で6ヶ月でやったんですね。

中島:はい。でも、一人で作ると、全て自分で決めることが出来るので、生産効率はものすごく高くなるんです。10人とかで作っていたら、逆に1年以上かかったと思います。

加藤:中島さんは、その時、早稲田の学生ですよね。

中島:はい。早稲田の理工学部です。当時はコンピュータの学科はまだなくて、電子通信学科でした。

加藤:学業との両立は難しくなかったですか?

中島:勉強の方は、効率重視で要領良くやっていました。後から米国の大学で勉強して分かりましたが、日本の大学は「ぬるま湯」です。また、大学院に入ってからはハードウェアを作っていたので、その設計にCANDYを使っていました。これがその時、CANDYで作ったプリント基板の設計図です。

加藤:CANDYを発売した後はどうでした?

中島:市場の反応はとても良くて、グラフィック部門では常にトップ、業務用アプリ全体でも常に上位にいる状態でした。

加藤:それでロイヤリティががっぽりと入って来たんですね。

中島:はい。でもなんだか自分のものじゃあないような気がして、手を付ける気になれませんでした。

加藤:全然使わなかったのですか?

中島:全然ってことはないです。それまでもバイトで月10万ぐらいは稼いでいたので、それまでと同じように月に10万ぐらい使う生活を続けただけです。

加藤:自動車を買おうとか思わなかったのですか?

中島:はい。車とか好きでもないし、そもそも物欲がないんです。なので、私の周りの人は、アスキー関係者以外は、私がそんなに稼いでいることには気づいていなかったと思います。友人とか、親とか、彼女とか。

加藤:彼女にも話さなかったのですか?

中島:はい。その頃の彼女は、今の嫁さんなんですが、デートはいつも割り勘でした。後でバレた時にすごく怒られました(笑)。

加藤:それは怒りますね。ちなみに、中島さんは大学院を卒業した後、アスキーに就職したり、自分で会社を立ち上げたりせずに、NTTに就職したんですね。その辺りの話も、今度、ぜひ聞かせてください。

中島:もちろんです。では、今日はここまでということで。

加藤:ありがとうございました。


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