天草 アルバムをめくるように
ついに天草へ訪れることが叶った。
「天草」という土地に興味を持ったのは、今からおよそ10年も前。大学の講義で、隠れキリシタンについて学んだことがきっかけだった。たしか、隠れキリシタンの歴史そのものの講義というより、日本に影響を及ぼした異文化について時代別に学ぶものだった。隠れキリシタンのパートは、2,3週取り上げられただけで終わった。
その後、多くの作品でキリスト教を題材にしていた小説家・遠藤周作を研究する講義を履修した。扱った作品の中でも『沈黙』は、私に鮮烈な印象を与えた。(本作の舞台は天草ではなく長崎だったが)
祈りとはいったい何なのだろう...。
隠れキリシタンの歴史が残る土地に足を運び、そこに吹く風をこの身体で受け止める。この行為に意味なんてないが、そうしなくてはならない気がしたことだけはたしかだった。
結局、普通に楽しんだのである。
わたしは純粋に天草の風景をすきになった。
市街地には、昭和時代(たぶん)の建築物が多く残っていた。年季を感じるレンガ調の建物や、ところどころ古臭さのあるホテルが、わたしには美しく思えた。
隠れキリシタンが迫害されていた江戸時代からある橋も現存していた。
天草は、たしかにそこに生きていた人々の痕跡を辿るような、アルバムをめくるような心地がする町だ。江戸も昭和も、同時にそこにある。
数年前、原宿駅が新しく建て替えられた。猿田彦珈琲が駅ナカにできていて、えげつない数のお客さんが順番を待っていた。すこし前、仕事か何かのちょっとした待ち時間に利用しようと思ったが、すぐに引き返してしまったのだった。
原宿駅は、わたしの知らない場所になっていた。
東京はもっと知らない場所になっていくんだろうと思う。
人が多すぎるほどなのに、ステンレスのように無機質になっていく生まれ育ったこの土地に対して、ずっと住み続けたいと、これからも果たして思えるだろうかと、さびしくなった。
天草を好きになったその日、展望台にのぼった。市街地を見下ろしながら、事前に買っておいたアップルパイを食べた。