環境による主語の捉え方について
こんばんは。
突然ですが、実は私は『主語』の在り方について、ずっと違和感というか、ある思いを持っています。それは何かと言いますと、日本語本来の主語の捉え方と、私の使い方には何か隔たりがあるような気がするのです。
そう思う事のひとつに、私の父は若い頃に外資系企業で働いていたので120%の日本人なのですが、思考は日本人と外人が半々です。というのが私含め家族の意見です。そのような親に育てられたので、自分では別段気にも留めていなかったのですが、特にこのことばの言い方についてずっと何かが違うと感じています。
『私ではありません。』
英語だと『I don't do that.』みたいな感じでしょうか。
日本語って、捉え方によって意味合いが変わってくるような気がするのです。先の《私ではありません。》という言い方は、場面や言い方によっては言い訳がましいように取られてしまうのではないかと思うのです。この言葉を言う時、ある時から気が付いたのですが、私は頭の中で主語の「I」をいつも思い浮かべていたのです。
英語だと必ず何をするにも動作には主語がつきます。
◇彼は、「それをしたのはわたしではありません」と私に言った。
◇彼女は彼女の傘を見つけた。
直訳するとこんな感じです。
日本語だったら「ちがうよ」とか軽い感じで終える会話が、「それはわたしじゃありません」みたいに直訳っぽく言ってしまうと、えらくいやなひとに思えてしまうのではないかと、後から反省することがあるのです。でもこれは幼い頃から染みついている思考なので、なかなか簡単には取れません。
会話のニュアンスというのはとても繊細なので、誤解を招かないように自由自在な表現ができるようになりたいというのが今の願いです。