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断捨離れないひと、この指止まれ

人には大きく分けて2つのタイプが存在します。
捨てられる人と、捨てられない人。
そして私は圧倒的にまったく捨てられない人。

捨てることができない理由は、人によっていろいろだと思います。
もったいないから、物に囲まれていると安心するから、全てのものに愛着があるから、などなど。

私には、ものを捨てないことに、明確な肯定感を抱く瞬間がありました。それは「記憶スイッチをできるだけ失いたくない」という発見です。

もう10年以上前になると思いますが、ドキュメンタリー番組で、老老介護をしている夫婦の姿を見ました。おばあさんが重度の認知症。おじいさんがおばあさんを介護していました。そのおばあさんは自分の夫のことも覚えていません。おじいさんが大事にしているのが、過去の日記。二人のうち、どちらが書いたものだかは忘れてしまったのですが、二人ででかけた思い出をその日記から拾い出して語ると、おばあさんはうれしそうに笑うというのです。そのとき、ああ、記憶のスイッチがあるって大事なんだな、そう思いました。

「断捨離らなくてもいいじゃないか。」
自分にまつわる過去や関わりのある人々からもらったたわいないもの、好きだったもの、とっておいたっていいじゃないか!

長い年月生きていると、記憶は消えたり、ゆがんだりしていきます。
うれしいこと、つらいこと、引き潮、満ち潮のように繰り返しながら、人生が続いていきます。うれしいことがあったのに、つらい記憶が強いとそのことを忘れてしまったりします。逆につらいことも、うれしさで上塗りされていくこともあります。所持品で捨てていいのは、つらいこと、はずかしいことなどにまつわるその時点のネガティブなこととされがちですが、その記憶も、月日がたって物の見方が変わるときもやってきます。その変化を味わうためにも、その時点でいまいち愛せない物たちもとっておくのです。そんなことを言っているとまるで捨てられなくなるのですが。

そして、誰かのことを覚えている、ということも大事ではないかと思います。小さな記憶の断片を残しておくことで、すっかり忘れてしまったあの人を思い出す。そんなことだってあります。

物を保持するとは、自分の人生を、そして自分にまつわる人々の記憶を大事にすること。

だから、私は自信をもって、アンチ断捨離党です!

ですが、一番問題なのは、日々の生活、収納なのですよね。

物が多すぎて生活動線が悪い、物につまづく、使いたい物がすぐ出てこない。いちばん残念なケースはゴミ屋敷になってしまう。だから、上手な収納術と間引き術が必要なのだと思います。そして、清潔感。習慣としては、さまざまな大きさの箱を各種取っておき、とっておくカテゴリごとに入れて積み上げてスペースを無駄なく使うことです。

とはいえ、かくいう私も部屋が窮屈になり、さすがにものを間引きしないと生活に支障があると感じるようになりました。
そのため買ったけど使わなかった掃除機、あまり読まなかった本など、愛着のまるでないものから手放すことにしました。十分に使ったものではなく、ほぼ使ってない、手垢のついてないものほど手放しやすい。しかもたいていその手のものは綺麗でお譲りしやすいですし。

不用品向けのアプリでは自分の不用品を画像に残してお譲りできるため最高です。活用したのは、メルカリとジモティ。お金を稼ごうと欲張らずに、手放すと決めたら気が変わらないうちに出品。さらに本の整理ではValue Booksも愛用しています。送った本が一覧になって自分のアカウントに残るからです。アンチ断捨離党にはすばらしい機能です。

自分のものだけでなく、空き家となった実家のmy母、my父の所持品も、少しずつ減らさないといけません。実家の靴箱を開いたとき、母の靴が20足くらいありました。そのうち9割くらいはとても綺麗な靴。よそゆきの靴、和風の靴、革靴、ブーツなどなど。2足だけ、履き潰したスニーカーがありました。1足だけ残すとしたら、どれを残す? 
夫は「どれ残す?じゃないよ、全部すてちゃえよー」とツッコミます。
ですがやっぱり捨てられないのです。
一番捨てられないのは、一番汚いスニーカー。
今は車椅子のmy母が、毎日元気に外を闊歩していていたときの証なのですから。


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