僕のafter.311 《2》革靴で歩いた20km、5時間
ある程度余震が収まったので、皆オフィスへと戻ることになった。地震によって散らかったオフィスはなんとも言えない静けさだった。黙々と皆、自分のデスクの周りを片付け始める。
誰かがオフィスのテレビをつけた。僕がふとテレビを見ると、お台場が燃えていた。正確にはお台場にある石油の貯蔵タンクらしいが、それが炎上していると報道されていた。東北の情報はこの時点ではまだそれほどなかった。
皆が片付けをしている間、役員が集まりこの後どうするかミーティングしていた。そして、今日は金曜日ということもあり、帰れる人は帰る、帰れない人は会社に泊まるようにということになった。帰ると言ってももちろん電車は動いていない。いつ再開するかも未定だった。会社に残って何もできない不安な夜を過ごすくらいなら歩いてでも帰ろう。そう考えて、僕はとにかく帰ることにした。僕が住んでいた埼玉県の戸田市までは直線距離で約20キロメートル。タクシーを使っても30分以上かかる距離だ。道なりはタクシーで帰っていたことを思い出せばある程度わかる。雑司ヶ谷まで帰る同僚と連れ添って、千駄ヶ谷を後にした。彼の地元は福島県の喜多方市だった。
僕らは明治通りを池袋方面に向けて歩いた。3月なのに外は異常に寒かった。明治通りは人と車であふれていた。バスも走っていたが、車内はギュウギュウ詰めになっている挙句、歩いた方が早いんじゃないかと思うほどのノロノロ運転。池袋に入る手前で雑司ヶ谷の同僚とは別れ、僕はぎゅうぎゅう詰めのバスと並走しながら池袋を目指した。歩道も人があふれているせいか、歩くスピードも心なしか遅く、会社を出てから池袋に到着するまで2時間近くかかってしまった。
池袋からは国道17号線で埼玉をめざした。道路には同じように徒歩で帰宅する人たちが大勢いたが、僕は孤独だった。歩いていると時々大きく揺れ、不安をあおられる。何度かけても誰にかけても繋がらない電話。スマホの電池にも限りがあるため、無駄に使うことはできない。地図を確認し、時折実家に電話をかけるくらいで、ただひたすら、黙々と自宅のある「北戸田駅」をめざした。なぜ革靴を履いてきてしまったのだろう。歩きづらいし、もう足が痛い。付け根からつま先まで全部痛い。20キロメートルくらい歩けるだろうと、調子に乗って出てきたのは失敗だったかもしれない。何度も心が折れそうになったが、「途中で歩くのをやめる」という選択肢はなかったため、仕方なく歩き続けた。そして、23時過ぎにようやく自宅に到着することができた。実に5時間以上も歩き続けたことになる。
自宅のマンション内はほとんど無事だった。買ったばかりの40型テレビも倒れていなかったし、食器が全て飛び出して割れているということもなかった。そこでようやく安堵した。疲れた。自分、頑張った。腹減った。体力も限界だったし、こんなことくらいしか考えられなかった。テレビをつけるまでは。