「自分らしく」と「みんなと同じじゃ嫌」の境界線
みんなと同じじゃ嫌だ、自分らしく生きたい
と思ったことはないでしょうか?
「個性を大事にしなさい」、「ありのままのあなたが素敵です」という教育をされてきたのに、社会に出れば同じ方向を向けという同調圧力と対峙させられ、でも多様性がいいよね、大事にしないといけないよねという風潮にも晒される。
どっち!?
どうすればいいの!?
ただ、僕みたいなあまのじゃくは「みんなと同じはしたくない」なんて考えてしまうのです。
「みんなと同じじゃ嫌だ」という気持ちは本当に自分らしく生きている人にはない感覚なのではないかという仮説が湧き上がりました。
集団の中に自分がいるから、集団の中で生きていきたいからこそ「みんなと同じじゃ嫌だ」が出てくるのではないか、と。
「みんなと同じは嫌」はみんなに認められたい証
僕自身、そういう気持ちはありました。
高校時代、みんなと同じが嫌で、あるとき髪を染めて行きました。
当時、茶髪は普通にいたし、金髪もまあまあ市民権を得ていました。
だからと言って校内にそんなに多くいたわけじゃなかったのですが、それでも僕は誰かと同じが嫌で、緑色に染めることにしました。
一旦ブリーチして、それから色を乗せていきました。
家に帰ると、同居していたおばあちゃんに「頭に苔が生えたのか?」と言われました。
でも緑色は(校内では)誰もやったことがなくて、みんなと違うことが僕としては嬉しかったのです。
当然、呼び出しをくらい生徒指導の先生からはたっぷりと絞られたのですが、それを含めてみんなと違うということに喜びを感じていました。
怒られることなんてへっちゃらでした。
それよりも、周囲から「違うなこいつ」と思われたことの方が快感だったのです。
つまり、「みんなと違う」ということを「みんなに認められたい」という表れでした。
「自分らしく」の落とし穴
アナと雪の女王ブームで「ありのまま」がもてはやされるようになりました。
確かにありのままの自分でいられること、それを認めてもらえることはとても素敵なことだと思います。
ただ、勘違いしちゃいけないのは
ありのままの自分=努力しなくてもいい
と思うこと。
ありのままの自分とは、今現状の自分自身のままでいいということではありません。
将来どんな自分になりたいか、どんな自分でありたいかも含めての「ありのまま」なのです。
そのための努力や頑張りは必要不可欠。
そもそも「自分らしさとは何か」を決めておかないといけません。
自分らしさが自分でわからないのに、どんな「ありのままの自分」を認めてほしいというのでしょうか?
自分らしく生きるためには多大な努力が必要です。
自分と向き合って自分について見つめて、考えて、軸を作って、はじめて自分らしさというものが出来上がるのではないでしょうか。
一人では生きられない弱さも自分らしさ
自分らしく生きている人は自分の軸があります。
こうありたい、こうなりたいがあるからブレません。
こういう人は、誰からどう思われても自分は自分だという強さがあります。
「みんな」がどうかとか眼中にありません。
でも、かつての僕のように「みんなと同じじゃ嫌だ」と思ってしまう人はみんなのことが気になって仕方がないってこと。
みんなという集団の中での自分のポジションを確立したいがために「みんなと違う」を作り出します。
一人でいられる強さがあるのもいい。
でもみんなと違うと思う弱さがあってもいいのではないでしょうか。
それ自体も自分らしさの一つとして認めてしまいさえすれば、決してダメなことじゃない。
みんなという相手があるから相対的に違いを生み出して輝くことだってできるはず。
みんなと同じじゃ嫌だって思ったら、みんなの中にいたいんだなって認めてその集団の中の自分というアイデンティティを作ればいい。
誰しもが孤高の存在になんてなる必要はない。
大学生くらいの時の自分にそう言ってあげたかったな。