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自分らしさとは -カラミティ

”アメリカ西部開拓時代の伝説のガンマン、平原の女王カラミティ・ジェーンの子ども時代の物語”

東京アニメアワードフェスティバルでオープニング作品に抜擢された作品。レミ・シャイエの『カラミティ』を観た。公開されたら観に行くと決めていたが、『ロング・ウェイ・ノース』のアートブックプレゼントキャンペーンに釣られて、公開日当日に観に行った。

今、おすすめの映画を聞かれたら間髪入れずにこれを推す。そのくらい良い。公開初日にして字幕と吹替それぞれ1回ずつしか上映していないのが残念なくらいだ。もっと多くの人に届いて欲しい。
※追記:上映回数や上映館が増えつつある。嬉しい!

始まった瞬間、引き込まれる映像と音楽

ここ数年いくつか海外のアニメーション映画も日本に入ってくるようになり、いろいろと観てきたがこの『カラミティ』の主線を廃した絵は独特だ。特に風景を描いたシーンなんかは油絵のような印象さえある。観ようと思ったきっかけは何と言ってもこの絵柄であり、カラミティ・ジェーンに関しては全く知らなかった。恥ずかしながら、映画冒頭の草原のシーンでは「お、中央アジアか?」とまで考えてしまったアホさである。だが、すぐに西部開拓時代の北アメリカ大陸だと気づいた。

中央アジアと錯覚してしまった要因として音楽がある。広い草原のシーンと共に流れてくる音楽には、どこか馬頭琴を思わせるような音だと個人的には感じた。この映画はアニメーションだけでなく、音楽にも独自のこだわりをもっているのだと伝わってくる。

カラミティと呼ばれるまで

物語冒頭、主人公はまだカラミティとは呼ばれない。主人公の名はマーサ・ジェーン・キャナリー。父、妹、弟と共に旅団の一員である。この旅団というのがなんとも特殊な集団で、性別によって髪型、服装、団内での役割がはっきりと分けられている。男はズボンを履いて馬に乗り、女はスカートを履き食事を作る。例えば、女がズボンを履き馬に乗るなんてことは決して許されない。

物語序盤、マーサの父親が怪我をして動けなくなったことをきっかけに、マーサは馬の乗り方を覚えようと決意する。自分の家族は自分で守りたいという気持ちからだ。しかし、いくら馬に乗ることや馬車を扱うことが上手でも、マーサは女の子であるというだけで周囲は白い目で見る。髪を短く刈り、ズボンを履いても、旅団の中にいる限りマーサは女の子でしかいられない。

悔しさやもどかしさを抱えて過ごしていたマーサに事件が起こる。この事件をきっかけにマーサは旅団を離れる。一歩外に出てしまえば、マーサのことを知る人はいない。道中で出会った人々に女の子と知られても、髪が短いことやズボンを履いていること、馬を乗り回していることをとがめる人はいない。ところ変われば人もまた変わるのである。

みんなみんな、本当の自分を隠して生きている

マーサは男の子のフリをしていた。旅団に接触してきた男は少佐だか中佐だか位を偽っていた。そうすることで、周りの目が変わるのだ。鉱山を切り盛りする夫人は女性であるというだけで舐められた態度をとる人もいる。もし男性だったらどうだったのかと考えてしまう。

これは現代にも言えると思う。世界では様々な動きはあれど、未だに性別によって態度を変える人や、男/女なのにそんなことをするのはおかしいと考える人もいる。そうしたものにぶつかるたびに、本当の自分を隠して生きる人がいる。性別でなくとも、職業だったり身分だったり、何か仮面を身につけて生きている。そうすることが、社会の存在する上で都合がよかったり、やりやすかったりするのだ。

作品の評価としては“女性の生き方”に重点を置くものが多い気がする。しかし、私は女性に限らず“何らかのレッテルを貼られて社会に生きる人”についてもメッセージ性のある作品だと思う。自分のあり方に苦しみ、何かを成し遂げ、認められる者の物語だと思う。

自分の信念を貫く強さ、信じる心。いろんなものをカラミティから教えてもらい、勇気をもらった。伝説と言われ、実在も疑われるカラミティ・ジェーンだが、私はこのような女性がかつてこの世界に存在したと信じたい。

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