ドナウ川のほとりで
写真を撮るのは楽しい。特に旅行に行くと、旅先の風景や食べたもの、偶然出会ったおもしろいオブジェなど、わりとなんでも撮ってしまう。だが、そんな私がシャッターを切ることを思わずためらったものがある。ハンガリーの首都ブダペストで、ドナウ川のほとりを歩いているときに見つけた≪死者の靴≫の像である。
ドナウ川沿いの柵もないところに突如現れる靴たち。つま先はすべて川の方を向いている。何も知らない人なら「インスタ映え!」と思わず撮ってしまいそうだ。靴の像なんて珍しいので私も一度はカメラを向けたものの、ファインダー越しになんだか不穏な空気を察知した。まるでその靴の主たちが川に飛び込んだかのように見えたからだ。
そばにはハンガリー語と英語とヘブライ語で次のような説明が書かれていた。
1944-45年、アロー・クロスによってドナウ川に撃ち落された犠牲者たちに捧ぐ。2005年4月設置。
第二次世界大戦末期に反ユダヤ勢力によってブダペストにいたユダヤ人たちは暴行や虐殺を受けた。その虐殺が行われた場所のひとつがここだったようだ。記録によると約2000人がこの堤防で射殺されたという。
なぜ靴の像なのか。当時、靴は高価なものだったため、射殺される直前に犠牲者たちは靴を脱いでよけておくように指示されたからだ。アウシュビッツのような収容所の、シャワー室という名のガス室に入るときも、犠牲者たちは身に着けているものすべてを外すように言われた。これはハンガリー映画『サウルの息子』でも描かれている。ドナウ川の堤防ではさすがに服まで脱ぐようには言われなかったと思いたい。
大人から子供、男性もの、女性もの、様々な靴が並んでいる。みんな揃って川の方を向いて、静かに並んでいる。靴という身近すぎるものがモチーフであるがゆえに、説明も少ないシンプルなモニュメントであるがゆえに、その背景を知ったときに与える衝撃は強い。モニュメントの写真は1枚もフォルダにないのに、ドナウ川のほとりで撮った写真を見るたびに、鉄でできたあの靴たちも目に浮かぶ。