46万回のありがとう 1115 通院を捨てる。
ありがとうを唱え
毎朝トイレ・玄関の掃除をし
ご先祖さまに感謝しながら神棚の水を替え
捨て活に励んだら
自分のこと、自分の体をよく観察できるようになった。
前回の診察で
まさかの重症レベルで緊急処置された
ワタシの気管支喘息ちゃん。
おかげで信じられないぐらい
呼吸が楽になり
これまで歳のせいだと思っていた
階段登りも実は全て気管支の炎症により
空気の通り道が狭くなっていたからだと知った。
その診察から2週間。
再診察で先生に会う。
相変わらず早口だ。
待っている人の数が多いから
とにかく「さば」かねばならないんだろう。
ものすごい早口で説明される。
検査の結果、
喘息のアレルギー要因を特定できないという。
先生は
ワタシの思考が完全に咀嚼する前に
「インフルエンザ注射受けた方がいい。
受けて帰りますか?」
という。
あまりに早口なので
普段は注射などはなるべくしない派のワタシが
つい、はい、と言ってしまった。
なんだかものすごくモヤモヤで
自分の意思で決定できなかったことに
一夜経っても納得いっていない。
先生は原因が特定できないと言ったけど
でも今朝のワタシにはそれがわかった。
原因は一つ。
こういう日常の小さなストレスです。
もはやインフルエンザどうこうの問題ではなく
意思決定の時間を与えられずに
うんと言ってしまったことへの後悔。
薬と合わせてやっぱり今回も1万円以上。
命に変えられるものはないから
むしろ安いのかもしれないけれど
シングルマザーで庶民のワタシには
やっぱり毎回はきつい。
その時ワタシの頭の中で繰り広げられた会話。
それがなかなか面白かった。
全部逆だよ。
お金を払った後真っ先に出た言葉が
「あー、また食費で調整しなきゃじゃん。」
だった。
でも。ちょっと待て。
もう1人の冷静なワタシがその声に
ストップをかける。
健康であるために一番基本となるのは
食べること、だよ。
なのに食費削って通院だと?
それって逆でしょうよ。
まず食べ物からちゃんと栄養とってでしょうよ!
と。
ごもっとも。
ワタシはこの声を
オネエタマ(お姐様)と名付けた。
先日も、
本来は『健康だから仕事ができる』、
というベクトルであるべきなのに
真逆だという話を書いた。
なんだか現代の私達の生活って
全てが逆なんじゃないか。
ワタシの場合、本当は
自然豊かなところで暮らしたいのに
わざわざ高い家賃を払い
家賃を払うために
今の仕事も嫌々続けている。
あるいは今の仕事を続けるために
住みたくもない都会で
高い家賃を払って生活をしている。
そして、医療費を払うために
働いている。
家賃のための仕事なのか。
仕事のための家賃なのか。
仕事のための健康なのか。
仕事のために生きているのか。
ワタシは田舎の方が性に合う。
家賃が抑えられれば
今の仕事を続ける必要がない。
仕事のために健康でいたい、は違う。
思考・行動の一日一捨て
そんな風に考えていったら
ふと、物の一日一捨てではなく
思考や行動の一日一捨てをしてみようと思った。
これやって(考えて)みてください。
あなたはどんな行動を捨てられるか?
ものを捨てるよりも
かなりハードルが上がる。
しかし、ワタシは諦めない。
諦めないぞ。
できなくても
まずは「してみよう」と思うことから始める。
今日の一日一捨ては
「通院を捨てる」だ。
いや、完全に通院しなくなることはできないが
「ただなんとなく」で
通院を続けるのは止めようと思う。
納得できない診察だったら
別のところに行ってみる、ということだ。
実際、先日の婦人科診察では
とても不快な思いをして
そこに時間もお金も出すことが
悔しいを通り越して虚しくなった。
こんな想いをしてまでなぜこの人に
自分の体を託さねばならないのだろうと。
今までのワタシならなあなあで
通院を続けているところだろう。
ベルトコンベアーに載った商品みたく
患者を見る人には大切な自分を任せられない。
健康になって通院をしなくなることが
一番の目標だが、その前に
自分の意思をちゃんと持った通院をしてみようと思う。
感謝と捨て活を続けたら
とにかく自分を大切にしてこなかったことに
まず気がついた。
もう人の言いなりになるのは嫌だ、
そんな風に感じるようになっている。
そして、人のことを羨むことが
ほとんどなくなったのが不思議だ。
ありがとうカウンターはいよいよ45万回を超えた。
残りあと1万回。どんな結末になるのだろう。
読んでくださる方にありがとう。
スキくださる方にありがとう。
画像提供ありがとう。
ありがとうは言われた側にも徳が積まれていくそうです。