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P#2 母性は自然よりも偉大だ

「リエベン?」

薄暗くほこりくさい車庫でサラの声が響き渡った。

目の前には普段主人たちを乗せて走る客車が保管されている。外で見るより一回りも二回りも大きく見える客車は、薄暗い車庫の中でも圧倒的な存在感だ。屋根やドアの取っ手につけられたモダンな装飾と、重厚感漂う普遍的デザインのボディ部分がなんともアンバランスで、どこか危うげだ。

サラは暗がりの中、もう一度リエベンの名前を呼ぼうとした。すると客車下から、リエベンの顔がぬっと出てくるではないか。サラはヒャッと頼りなくかぼそい声を出して飛び上がり、胸に手を当て、上からリエベンを鋭くにらみつけた。

「バウアーさん、驚かせてすみません。」

使用人の中でみなの指導監督係のサラは、皆からバウアーさんと呼ばれている。リエベンは謝りながらも、サラの驚いた顔を見ていたずらな笑みを浮かべた。
 
リエベンがこの屋敷に来たのは、主人の末娘パムがもうすぐ五歳になるというころだった。

父親とともにこの屋敷にやってきたリエベンは当時十一歳。母親を亡くした後の喪失感と孤独感漂う、不愛想で寂しげな少年だった。

周りの使用人たちが最初こそ気を遣って話しかけたが、リエベンは彼らと目を合わそうともせず孤独を好んだ。まるで太陽を避けて日影を歩き続けるかの如く、人との接触を避けていた。そのうち使用人たちも、そんなリエベンとは距離を置くようになった。

しかし、サラだけは違ったのだ。
 
独身で子どももいないサラにとって、初めて会った時のリエベンの寂しそうな顔は今でも忘れられない。「わたしが何とかしてあげなければならない」という使命感―というのか、母性というのか―を感じたあの時から、もう随分の月日が経っている。

無口な少年だったリエベンが無邪気な青年へと変わっていったのには、サラの影響が大きい。

当初、リエベンに任せられる仕事はほとんどなかった。そこをなんとかと懇願する父親に半ば同情する形で、リエベンを父親の小間使いとして雇うことに主人が同意してくれたのは好運としか言いようがない。

ある日、サラが屋敷の裏庭に出たときのことだ。裏庭は数十メートル整備された芝が広がり、その奥は森へと続いている。サラは、そのちょうど境目当たりで座っているリエベンを見つけた。膝をついて何かに夢中になっている。

よく見るとリエベンの視線の先には一匹の小さなリスがいた。あまりにも動かないものだから、サラは始めそれをリスと認識できなかった。そのリスはリエベンが見えているのかいないのかも定かでないほど、まったく警戒心がないのだ。

リエベンが手を伸ばすと、そのリスはやっとちょこちょこと走り、彼の手から、おそらくどんぐりか何かをさっと取った。その後もリエベンの近くから去ることなく、その場で手にした食べ物を夢中でほおばっている。小さな口の中はすぐにいっぱいになって、ほっぺたが横に広がったリスを見て、リエベンは何やらリスに話しかけては笑っている。

それは初めて見るリエベンの笑顔だった。

リエベンに笑われたのが気に食わなかったのか、リスはそそくさと自分の森に戻っていった。
 
その夜サラは、昼間に見たリエベンの様子を執事のアルベルトに話していた。

大人ばかりの環境で日々過ごすリエベンは、自分より大きな人間に警戒心を抱くリスと同じだ。しかし、同じ目線で、ほんの少し手を差し伸べてやれたのなら、あのリスがそうだったように、リエベンの警戒心を解くことができるかもしれない。

あの屈託のない笑顔を思い出しながら、サラはふと、リエベンに厩舎の掃除を任せてみてはどうかとアルベルトに持ちかけた。これまで使用人の配置や仕事の内容で口を出すことのなかったサラに、アルベルトは驚きを隠せなかったが、ひとまずは自分自身の目でリエベンを見定めてからだとサラの興奮を制するように言った。

この一件以降、サラはまるで子を心配する母のように、毎日リエベンに声をかけるようになった。もちろん、それまでもリエベンに声をかけることはあったが、今回は目標がある。

使用人教育の最高責任者でもある、厳しいアルベルトにリエベンを認めさせる必要があるのだ。

今のリエベンは彼の心にたどり着くまでに何枚もの扉をこじ開ける必要がある。しかし、今日あの笑顔を見て、その近道がわかったのだ。動物―すなわち馬―のいる厩舎で過ごす時間が、その扉の何枚かを開けてくれるかもしれない。そうすれば彼の屋敷での生活も大きく変わり、やがて彼自身も大きく変わるはずだと、サラは確信していたのだった。

そんなサラの確信と愛情は、リエベンという「種」にとって、まるでふかふかの腐葉土であり、また、彼がこれから大きく育つのに必要不可欠な最初の栄養だった。そのふかふかのベッドで、その種はまだ深い眠りから目覚めていなかったが・・・。

3につづく・・・

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