自己分析2/1000 ~1000問に答えることで、何を得たいのか?~
7/14中にこの投稿をしたかったふじもnです(笑)。小学生時代の夏休み、最終日に一行日記を泣きながら必死に埋めていた(思い出を創作していた)苦い記憶を思い出しますね......。
前回:
ということで2問目「1000問に答えることで、何を得たいのか?」
結論はずばり「わたしの整理・再構築」です。
自分を表現・分析にあたって、やはり自分の人格=内面を考えることになると思います。ということで、1000問を答えた暁には「私が既に認識していて長所・短所だと思うところ」「私が今までの経験の中で気付かなかった私の特徴」「自分はどのような人間だったか」「今の自分はどんな人間・性格か」「自分はどんな人間になりたいか」という観点において新しい発見を得たいです。
そう考えるようになった背景には最近、心の中でずっとモヤモヤしていることがあります。イソップ寓話の「卑怯なコウモリ」という話はご存じでしょうか?
物語のさわりを書きます。―昔、獣の一族と鳥の一族が戦争をしていてその様子を見ていたコウモリは戦況に応じて「私は毛が生えているので獣の仲間です。」と言ったり、「私は羽があるので鳥の仲間です。」と言ったりして自分の立場をコロコロ変えていました。そして獣と鳥の戦争が和解に終わった後、双方にいい顔をしたコウモリはどちらからも仲間外れにされてしまいました。―
最近の私の振る舞いがどうもこのコウモリのような気がしてモヤモヤしています。そしてその原因もある程度つかんでいます。
教員からエンジニアへの転職が成功し、私自身すごく満足しています。また日々、たくさん勉強することばかりでとても充実していると感じています。しかし、教育系のイベントやエンジニアの勉強会に参加する際、私はつい「教育関係者ではないので詳しくは分かりかねますが......」と言って私見を述べたり、あるいは「ずっと教育一本槍できたので無学なものですが......」と前置きしたりしてしまいます。
双方にいい顔をしているわけではないのですが、このような前置きは折角質問や意見を聞いてくださった相手にも失礼な態度ですし、いつまでも信頼関係が築けない悪手だと思います。またこのような発言を繰り返すうちに中途半端な自分が嫌になって、自分のことを強く罰するように無理を重ねて、結局体を壊したりするなど、いつも頓挫せざるを得なくなってしまいます。
この現象を抽象化して考えたときに、一番根本の原因は自信のなさだと気づきました。自分の価値観の軸が実はあまりないこと、無意識のうちに他人の評価や承認を気にしていること、問題を見つけたり分析したりすることは好きだが解決策まではあまり浮かんでこないこと、完璧主義であること......。また前述の4点のせいで成功体験を感じにくかったり、積む前に環境を変えてしまったりするところや、自分の「できること」「できたこと」「できていること」をいまいち把握できていないところがあると考えました。
また自分の生まれつきの性格として負けず嫌い、野心家、こだわり(~べきである、~なければならないといった固定観念)が強くて頭でっかちになりがち、心配性なところなども相まって自信がない・つかないの悪循環に陥っていると気づきました。
そこでまず「noteを毎日書く」という小さな成功体験を積むこと(今のところできていませんが......笑)と、自分の過去の成功体験を掘り起こして今の自分のキャパシティとアビリティを発見することをアクションとして起こそうと考えました。つまり、毎日noteを書き、かつ、自己分析1000問に取り組むという結論に至りました。
次からはいよいよ自分の過去を紐解く質問になりますので「~だ。~である。」文体に変えようと思います。理由は気恥ずかしさを紛らわすためです(笑)。今の私からは想像もつかないような話がたくさん出てくると思いますが、どうか若気の至りということで(生)暖かい目で見守ってくださると幸いです(笑)。
ではまた明日。今度こそ、絶対の絶対の絶対にまた明日(戒め)。