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明日の夜明けに、昨日の夜がくる

つよい便意に目が覚めた。

目が覚めたというよりは、意識だけが現実に戻ったようだ。

「時間は逆に流れているのだ」

なにやらわからない言葉が頭に響く。

時計を見ると朝の4時を少しまわったところだ。流石に目が開かずに枕に頭を埋めようとするが、どうにも収まらない。

しかたない。。。

わたしは重い体を起こし、半分目をつむりながら勝手の知った間取りを手探りでトイレに向かう。

ところが便など出ようはずもない。排出するはずの便など未だなく、便意だけが意識に逆流しているからだ。

「時は逆に流れている」

また、声が聞こえる。

少し外の風にあたりたくなった。

外はまだ薄暗く夜とも夜明けともつかないまどろみの中。まるでまだ半分眠っているわたしの意識ようだ。DAWNという言葉がお似合いだ。

ふと、昨晩みた映画のシーンが頭をよぎった "Tomorrow at DAWN. Three lessons." 明日の夜明け前に3つ教えることがある。

そうだ、わたしは時間を逆行して今このDAWNを昨晩すでに見ていたのだ。

「逆に流れている」

また、頭に言葉が響く。

わたしは深く落ち着いていた。けれども意識は活発に何かを訴えていた。

少し目をつむってこの暁を全身に感じよう。すると体全面を大きく包み込むようにゆったりと東から風が流れ込んできた。

「カギ」

 それがシークレットのカギなのだ。意識は訴え続ける。

時は未来から過去へ流れ、カギは未来から今に偏在している。

上流から下流へ絶え間なく揺蕩う虹色の大河の真ん中に、たった一本の佇む葦がみえる。

葦はイマココに根を張っている。

大河に佇む葦からみれば、水面は常に上流から下流に向かって流れていく。

大河に漂う葉からみれば、遠く見える風景は、下流から上流のほうへと登っているように見える。

大地に根ざす葦から見るのか、大河に漂う葉からみるのか、自らの拠り所によって体感される景色は全く違ったものになる。わたしの意識も同じなのだ。意識の拠り所によって、時間が過去から未来に向かって流れているように錯覚する。そう、全ては逆なのだ。

「カギは偏在している」

兆しは常に過去に偏在している。未来からみると明らかな兆しも、過去からしか眺望できない意識から見ると、ただの偶然にしか見えない隠されたカギなんだ。

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大河もまた大地の表面に流れる空間の相対なのだ。

わたしがイマココにはる大地の根に醒めているならば、葦の意識と大河の流れと相対的な意識の錯覚の境界に意識的になれるだろう。

その大いなる逆流のトリックに、母なる大地はいつも秘密のカギを忍ばせる。夜明けの兆しとともに。

りなる



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