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凡庸なわたしが思うわたしらしさ - アイデンティティと格差を考える
先日、ふとしたきっかけで短いブログ記事を読みました。
その記事では、「ふつう」とはなにか、「常識」とは何かをわれわれ読者に向かって真摯に訴えかけてきます。狭い世界にしばられていると、そこにある社会格差に気づけない。その格差は地位の格差であり、生まれ持った能力の格差であり、持つものと持たざるものを隔てる富の格差です。作者自身がそういったあらゆる格差に対し社会の底辺から必死に立ち向かった姿が雄々しく描かれています。新しい世界に足を踏み入れたときに、誰しもがどこかでいちどは経験する「自分がいかに小さな存在か」といった苦い後味と重なり、共感とともに感動を呼び起こす力強い記事でした。
その余韻は読み終わった後もしばらくわたしの心の隅に生息し、なにか「チクリ」と刺さるものを残しました。それは、放っておけばいつか外れてしまうだろう魚の小骨のようなほんの些細な、でもドロドロとした「何か」。
焦燥感 ーーー それを注意深く言葉にするなら凡庸な自分への焦燥感であったのだと思う。
小さきものが雄々しく挑戦する姿に誰しも心が動かされます。底辺で頑張っている人を見て応援したくなる気持ちが沸き起こり、その先に立ちはだかる格差を批判したくもなります。そして、それはいつしかわたし中に「何事かをなさなければ」という焦りを植え付ける。こういった心の動きは、物語が強烈であればあるほどに、心を激しく揺さぶります。
誤解を恐れずに言えば、数々の強者の成功体験に振り回されるように、報われない弱者が必死に努力する姿にもわたしたちはしばしば振り回されてしまいます。強者でも、抗う弱者でも、そのいずれでもない「何者にもなれない」凡庸な自分をエゴが恐れるのです。
特別とは何だろう?
「上位数%の天才」「上位数%の富豪」など、いわゆる世の中の成功者と言われる人をみると、わたしたちはどうしても憧れを隠せません。そこには、平凡なわたしと違う強力な個性を醸し出す「特別」なアイデンティティがあるように見えるのです。
同時に、下位数%の弱者にも逆の意味で強烈なアイデンティティが生まれます。社会の底辺でもがく姿、より高い壁に立ち向かう姿、こういった姿は高揚感に似た、より強烈なアイデンティティを生むのです。
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実際には、そのような特別なアイデンティティなどと言うものはどこにも存在しません。なぜなら、これらのレベル付は常に他者との比較にすぎないからです。そこには絶対的な軸は存在しません。だから、どの階層にあっても比較はずっと続きます。あなだが例え大富豪になっても自分が凡庸であるという幻想からは抜け出せないでしょう。
それが良いとか悪いとかいうことではなく、あなたはあなた以外の何者にもなれない(なる必要がない)ということを常に心にとどめて置かなければなりません。さもなければ、無限に続く比較・対立の中にあなたの個性は永遠に迷い込んでしまいます。
アイデンティティの罠
便宜的にこのようなグラフを描きましたが、このグラフに何の意味もありません。人はそれぞれだからです。ただ有り様にそこにいるのです。しかし、ただ居るだけのはずが、次第に他者との比較と対立に突き動かされ、「よりよい自分の自己実現のため」と言いながら多くの人が「◯◯より上位」を目指すのです。
それが、ありのままのあなたの姿であるのなら何も言うことはありません。ところが、多くの場合、アイデンティティの模索とはあなたがあなたでない「何者か」になろうとしたときに起きる心の衝動として顕在するのです。
そのような衝動にかられると必然的に、あなたが強烈な「何者か」であるために、定量的な枠組みのなかで争い、より低い者たちを排他的に陥れようとする逆方向のベクトルが暗黙的に表れます。
この左右横方向のベクトル、これが格差の本性です。
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そもそも、上位とはなんでしょう?あなたでない「何者か」などそこには存在しないのです。人間は決して平等ではありません。それは優劣があるということではなく、単にそれぞれだということ以上の意味はありません。
そこに、自分らしさという虚構の「何者か」になろうとして個性を誇示し、アイデンティティを確立しようとするエゴの罠があるのです。
ありのままの「あなた」
世の中の格差をなくそうという具体的な活動は素晴らしいものだし、社会の中でより高みを目指して成長しようと努力することも素晴らしいことです。それを否定しているのではなく、その努力そのものがあなたの本質であるかを問うべきです。
生まれながらに裕福である人は裕福であればよい。その上で、あなたらしさとはなんなのかを表現すればよいのです。誰かを陥れ、より権威を振るうことがあなたらしさですか?裕福の中に共存し共有する行動があなたらしさですか?
これはきれいごとに聞こえるかも知れませんが、生まれながらに貧しい人は貧しくあってよいのです。子供の頃は自分が貧しく凡庸だなどとは思いもしませんでした。あなたらしさとはなんでしょう?いつしか誰かと比較し、比較され、世の中の物差しを自分に認めた瞬間に格差が生まれたのです。
あなはたは何者にもなる必要はありません。
あなたがあなたであるということは「ふつう」であることでも「特別」であることでもありません。「あなた」であることです。
格差のない世界
格差のない社会とは、格差をなくそうという努力ではなく、各々が「ありのまま」でのびのびと居られる環境だと思うのです。あなたは、ただあなたであればよいのです。
何者かになろうとして常に上に向かうベクトルの向きを変え、「イマココ」の足元を指し示すベクトルに向き直すことこそが、ほんとうの意味でわたしたちの妄想が生み出す格差をなくすのです。
あなたはあなた以外の何者かになるために何事かを成す必要などはじめからないのです。もし、それでもあなたが何者かになりたいのなら、ただその時を「待てば」よいのです。待つことを愉しめれば人生は全く変わります。
りなる