眼前に広がるは灰色の世界
先日知人と話していた際、どういった時に怒りを感じるかについて話す場面がありました
その方は、仕事にて自分に全く非がない状況でトラブルが生じた時、怒りとまではいかないがイライラとした気持ちを覚えると仰ってました
私はこの意見を聞いた時「この世の中で自分に全く非がない状況ってあるのだろうか?」と疑問を抱き、その場でずっと考え込んでしまいました
今回はそんな疑問を基に執筆した記事になります
自分に非がない状況ってあるの?
導入の内容と重複しますが、自分に全く非がない状況ってあるのでしょうか
例えば以下のような場面ではどうでしょうか
例. 商品の誤発注
企業Aと企業Bは長年取引をしている
いつものように企業Aは企業Bの商品を1,000個発注する
しかし、企業Aの担当者は発注単位が10個になっていることに気付かず発注してしまい、10,000個(=1,000×10個)の商品を発注してしまった
いざ商品が納品されその数量を見た時、企業Aは誤発注していたことに気付く
企業Aの言い分
いつも定期的に1,000個発注しているのだから、10,000個のオーダーが来た時点で入力ミスを疑ってくれても良いじゃないか
企業Bの言い分
入力ミスをしたのは御社であり、入力後の確認画面でも了承ボタンを押下しているはず
よって、こちらには一切の非はない
こういった話を聞いた時、皆さんはどう思いますか?
企業Aの立場ないし企業Bの立場ならば、どういった考えがよぎりますか?
結論、私は今回のケースどちらの言い分も理屈は正しいと思います
しかし、それが考え方・行動として正しいかは疑問であります
というのも両者の理屈とも正しいならば、自分の理屈を相手に投げつけているこの状況は相手の理屈の正しさに目を向けていないからです
いわば理屈のドッジボール状態です
このように、世の中は白黒明確にならない灰色の出来事で溢れていると私は思います
そしてその濃淡は案件によりけり、或いは同じ案件でも見る人の目によっても違うのだと思います
自責と他責
白黒が明確にならなくても、何が白で何が黒かを認識することは出来ます
それが自責と他責です
先の例にて企業Aの立場であれば、言うまでもないかもしれませんが自責と他責は以下になります
自責:入力ミスをしたこと
他責:誤発注を疑って確認すべきという考え
その場で白黒はっきりしなくても、少なくとも企業Aは上述のような白黒の要素を認識することは出来るはずです
自責と他責・自分と相手、この2×2の組み合わせからは以下考えが生まれます
a. 自責を自分に求める
b. 自責を相手に求める
c. 他責を自分に求める
d. 他責を相手に求める
分かりづらいので、先程の例を基に企業Aの立場で整理すると
a. 企業Aは企業Aのミスを企業Aの中で認識しようとする
b. 企業Aは企業Aのミスを企業Bに認識してもらうよう求める
c. 企業Aは企業Bのミスを企業Aの中で認識しようとする
d. 企業Aは企業Bのミスを企業Bに認識してもらうよう求める
この中で最悪なのは「d. 他責を相手に求める」だと私は思います
白黒はっきりしない中、自分が相手から責任を求められたとしたらどうでしょうか
少なくとも私は今後その人を信用することはありません
表面上は態度に出したりしませんが、心を開くことはまずないでしょう
唐突ですが、皆さんは『薩摩の教え 男の順序』というものをご存じでしょうか
ニュアンスでしか覚えておらず恐縮ですが、何かを成し遂げた時にどういった順序で評価されるかというものだったと思います
(私が知った情報は上述の内容ですが、調べると「6. 何もせず批判し、足を引っ張る者」という項目もあるようです)
何故引き合いに出したかというと、自責と他責・自分と相手による4つの組み合わせがこの教えとリンクしていると感じたためになります
特に「d. 他責を相手に求める」は「5. 何もせず批判する者」に通ずる部分があるように思います
せめて、「c. 他責を自分に求める」≒「4. 何もしていない者」に止めたいところです
他責にフォーカスしてもそれは理屈のぶつけ合いにしか発展しないため、他責・自責を明確にしたうえで自責にフォーカスし、これから自分がどうしていくかを考えることが有意義であると私は考えます
ただし、自分が潰れてしまう程、過度に自責に囚われる必要はありません
あくまで事象に対する捉え方の話であり、突き詰めて考えていくと自分にも落ち度はどこかにある故、それを見つけて認識しておくことは大事なのではないかという話でした
自責の果てに辿り着くのはどこか
世の中様々な人がいます
100人中100人があなたは悪くないというような内容でも、1%の過ちを拾ってきて、それを指摘するような人もいます
そんな時、周囲の人はその状況を見てどう思うでしょうか
1%の指摘をするような人を助けてあげたいと考える人はいるのでしょうか
私はそう考える人が多数派だとは到底思えません
では、これが10%、50%、90%と過ちの度合いが増えていったときはどうでしょうか
結論、大枠は変わらないと思います
過ちを指摘する人に対し同情することはあっても、その行い自体を支持する人は少ないのではないでしょうか
つまるところ、どっちの非がより多くの割合を占めるのかは関係なく、他責を相手に求めた時点で自分に対して負けなのです
場合によっては、そこに頼もしさを感じるケースもあるかもしれませんが、それは前提として自分が助けてもらったとき等、指摘する側が他者の利益のために動く(あるいは結果そうなった)ような、自己保身が透けて見えないケースに限定されると私は考えます
そう考えると、灰色の濃淡にかかわらず何が白で何が黒かを認識して、自分は何をすべきか考え実行する、或いは何をすべきだったかを考え次に活かすことが重要になってくるのではないでしょうか
恐らく、この考えを基に行動すると相手はある種の安心感を抱くと思います
それは、自分が責められなかったこと、どちらが悪いとかではなく自分が出来ることを模索してくれていることに対する安心です
そうした背景から、自責を自分に求めるという思想と行動が他者との真実の信頼に繋がっていくのだと私は信じています
最後に
灰色の中から自分の過ちを探し出し、それを受け入れるないし曝け出すのは勇気のいることだと思います
何故なら曝け出したことで、それに乗じて指摘する人が現れるかもしれないためです
しかし、そうやって生きることをあなたが選ぶならば、私は応援したいですし、その決断と行動には美しさすらあると私は思います
そして、その果てにあなたと誰かが真実の信頼で結びついている姿を私は切に願います
ここまでご覧いただきありがとうございました