見出し画像

文庫本の病

 時々無性に文庫本が読みたくなる。あれを読みたいこれを読みたいではなく、「文庫本が読みたい」。
 そうなった時は、単行本ではダメだ。どんなに滑らかな表紙をしていようとも、好みの色味の紙であっても、待ちに待った写真たっぷりの手帳デコ本であっても、楽しみにしていた作家の新刊であっても、ダメ。
 とにかくあれでなくてはいけない。手にちょうど気持ちよく収まるサイズ感で、主張の少ない統一されたフォルムで、手軽な雰囲気のあれでなくては。ああ文庫が読みたい、絶対文庫がいい…!と思って止まらなくなる。もはや文庫本の病。中毒症状だ。
 この病にかかるタイミングはまだちゃんと分析してはいないけれど、今回は何となく自分の幼い頃のことについて思いを巡らせたせいだと思っている。たぶん私にとって、文庫本に漂う郷愁が必要になる時があるのだ。文庫本は、憧れと想い出が詰まっている。
 
 小学生の時、初めて古本屋で買った角川文庫は銀色夏生の『君のそばで会おう』だった。水色の表紙が爽やかで、中に書かれた言葉たちはとても秘密めいて見えた。急に大人になったように感じて、そこに書かれた詩を真似して鍵付きのノートにたくさん詩を書いたっけ。子どもにとっては、文庫本は大人の本であり、憧れの存在だった。
 
 それから学生のあいだは、お金が無いから本と言えば文庫本だった。どうしても新作を読みたい作家だけは図書館で予約をし、それ以外は文庫本で読む。文庫の新刊コーナーが私の新刊コーナーであり、雑誌『ダ・ヴィンチ』の文庫本発売情報ページを隅々までチェックして欲しい本にラインを引き、どれを買うか熟考していた。
 あの頃は1冊1冊が勝負だったから、購入した本はそれこそ骨までしゃぶりつくさんばかりに読んでいた。大学生の頃は食欲が無ければ嬉々として昼ご飯代を文庫本に変えていた。全ての本はいつか文庫本になると思い込んでいたあの頃、文庫本はいつも私のそばにあり、通学も部活の合宿も初めてのデートも全部文庫本は持っていた。文庫本には、憧れと思い出が詰まっている。

 就活する頃にはエッセイの類を読むようになり、ようやく文庫本にならない本の存在を知っていく(遅い)。私にとっての本はそれまで、イコール物語だったから。
 最初の就職先は書店だったので、社割という言い訳を使って本を買いまくった。(勤めていた店舗の一番のお得意様だったのではなかろうか…)
 転職して図書館員になってからは、いろいろな街の個人書店をたくさん巡った。古本屋も新刊書店も行くし、古本市の類もよく行った。その時はそれが当たり前で何とも思っていなかったけれど、今思えば読んで、読んで、読みまくっていた。

 社会人になって単行本を買うことを厭わなくなったけれど、それでも文庫本はずっと特別だ。どうにも疲れ果てて何か一冊でも本を手にしてから帰りたい時、足が向くのは文庫本売り場であることが多い。そこで何となく気になった一冊を連れ帰る。整然と並んだ文庫本の棚はそれだけでホッとするのだ。

 文庫本の病にかかっている今、買う予定だった単行本と一緒に何故か数冊の文庫本がレジに持っていかれる、なんてことは日常茶飯事。パラパラとめくって、にまにまにま。
 今日は枕元に文庫本を置いて寝ようかな。


【今日のお供】
『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン)
 …単行本を持っているのに、新しい新潮文庫版は川内倫子さんの写真入りじゃないか!とそのまま購入してきた。川内倫子さん大好きなのです。写真集たくさん持っていますが、『りんこ日記』を本屋で見つけた時の衝撃は忘れられない。携帯電話で撮られた写真と短い言葉で綴られた日記は余白の眩しいほどの白さも髪質も本の重さも全てが好き。もう無くなってしまった、とある町の青山ブックセンターで買ったカバーが気に入っていてまだ外せないんだ。

いいなと思ったら応援しよう!