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髙田祥聖の、かたむ句!⑩【金曜日記事】

もうすぐ年度末。
決算には株主総会があり、株主総会には「物言う株主」たちがやって来る。物言う株主とは、一定数以上の株式を保有し、投資先の企業の経営に対して提案(口さがなく言えば口出し)をしてくる株主のことである。お金を動かすことで日々の糧を得ている彼らは、投資に対してリターンを求めることに余念がない。

本ブログは、日経ビジネスではない。

昨年末、わたしは神野紗希氏・野口る理氏が代表である俳句雑誌「noi」の誌友になることを決めた。

「noi(ノイ)」はラテン語で「私たちの」という意味をもちます。未知でありながら、懐かしい、新鮮な普遍性を求めて、「私の/私たちの」俳句を、ここで育て、刻んでいきましょう。

X 俳句雑誌「noi」公式アカウント

「noi」は雑誌の誌面や句会などを通して俳句観を共有しながら、それぞれに自身の俳句を追求する作家集団です。
結社でも同人誌でもなく「俳句雑誌」として、参加(所属)する作家を「誌友」と呼び、互いにフラットに俳句を深め合うことを目指します。

X 俳句雑誌「noi」公式アカウント

投句欄には選句がありますが、欄の選者は「先生」「師」としてではなく、一冊の雑誌を世に出す立場として、編集権限で句を選びます。

それぞれの「誌友」を「作家」として照らし出す心で選句にあたります。作品発表の場として、方向性の指針を得る羅針盤として、投句欄を生かしてもらえたら幸いです。

X 俳句雑誌「noi」公式アカウント


「選が存在する時点でやっていることは結社と同じではないか」という旨の質問をされたことがあるが、自分たちをどのように自認し、どのような存在としてありたいかを表明することが重要なのではないかとわたしは思っている。これは結社を貶めているという意味では決してない。

わたしは現在「俳句集団 いつき組」「俳句結社 楽園」にも所属している。
楽園に入会するまえは所属を訊かれた際に「いつき組です」と答えていたのだが、それに対して「いつき組は結社じゃないでしょう」と言われたことが何度かある。あのときのあの質問は「あなたは誰と、どこで俳句を詠んでいるのか」という意味の質問ではなかったのだろうか。

このたび所属欄に「俳句雑誌 noi」が加わるわけなのだが、今更ながら「掛け持ち」ということを意識している。

いやいや、すでに「いつき組」と「楽園」を掛け持ちしているじゃないかという声が聞こえてきそうなのだが、じつを言うとわたしにとっては「掛け持ち」という意識はあまりなかった。

いつき組の多くは、松山市が運営する俳句ポスト、通販生活の俳句生活、南海放送の「一句一遊」というラジオ番組あたりがメインの投句先になる。これらの投句先は基本的にすべて無料(基本的に、と言ったのは南海放送を聞くにはRadikoPremiumに加入する必要があるため。月額385円)。投稿先の性質上、すべてに兼題がある。

自由詠を見てもらいたい場合は、夏井アンドカンパニーが発行している「伊月庵通信」がもっとも手っ取り早い。
季刊誌、一年購読の場合8000円。
投句欄は大きく分けてみっつ。
①色の歳時記(日本の色の名前の詠み込み。七句まで出せて掲載は一句)
②百囀集(雑詠欄。七句まで出せて掲載は一句)
③季語の座(季語兼題。一句出し)
三句掲載うち自由詠一句というのは、たしかに異色かもしれない。

組長から自句に対する指導が欲しいという場合は、朝日出版が運営している「おウチde俳句くらぶ」となる。
年会費8470円。
こちらも自由詠ではなく、テレビ番組「プレバト!」のように写真兼題で二句までの投句が可能。場合によっては、ハシ坊というコーナーで組長からのアドバイスを貰うことができる。

とざっくりではあるが、以上がいつき組の投句事情と言っても差し支えないのではないだろうか。

俳句結社 楽園はというと。
年会費12000円(29歳以下は無料)。

結社誌『楽園』は隔月刊。
雑詠欄である個個集(六句出しで最大五句掲載)と、題詠欄である球体集(十句以内まで)から成る。ちなみに先日発刊された第四巻三号のお題は「シルクロード」。そんなお題、無茶やん。
購読のみは無料でできますので、気になるかたはぜひビジター登録を。

句会に関しては、あくまで目安となるが、連句会が月一回、対面句会が月一回、オンライン句会が月一回。有料ではあるが、ビジターでも参加が可能である。

一部のひとにとっては「そんなん知ってるよ!!」な内容に七百字も使ってしまったが、「いつき組」と「楽園」の活動の違いを伝えることはできたように思う。

さて、ここまでで気付くひとは気付いたであろうか。

購読料、利用料、年会費などをわざわざ書いたのは、上記に書かれている金額をわたしは支払っているということを書きたかったからに他ならない。

総額28855円。

ここにさらに「noi」の活動も加わる。

「俳句雑誌 noi」は年会費が24000円(25歳未満12000円/10代無料)。月刊誌で、題詠二句と雑詠五句。
句会に関しては対面句会、配信句会の両方がある。

28855 + 24000 = 52855

52855円。

くらくらしない、と言えば嘘になる。
上記はあくまで年会費的なものなので、句会の参加費、賞などへの投稿料、句集代などがさらに加算される。
年収のうち、どのくらいを俳句に費やしているのだろうか。ちょっと怖くて計算できない。
とか言いつつ、家計簿をつけているので一発でわかるのだが。

結社によって年会費は異なるし、同人費などもあるから、わたし以上に、俳句に出資あるいは出費しているひとは少なくないようにも思う。

どうして「俳句雑誌 noi」の誌友になろうと思ったか。

両代表の句、人柄が好きだからというのはもちろんあるが、創立メンバーというものを一度体験してみたかったというところが大きい。これは機を逃したならば叶うことはない願望であり、「いつき組」でも「楽園」でも叶えることはできない(わたしは伊月庵通信にもおウチde俳句にも創刊から参加していないので、参加していたらまた違う現在だったのだろうか)。

句座を囲んだことがないひとたち、句座を囲んでみたかったひとたちと句座を囲みたかったというのもある。ありがたいことに、これはすでに実現することができていて、個人的にnoiのメンバーの何名かと句座を囲ませていただく機会を得た。誰と句座を囲むのか、ということは、自分がどこへ行くのか決める際にとても重要な選択なのだと改めて感じている。

「いつき組」「楽園」「noi」

学びという意味ではどの場所でも能動的であるべきだと思うが、運営という意味ではどうだろうか。
わたしは「楽園」と「noi」の運営の一端を見せていただくことができているが、やはりそれぞれに異なるところがあり、良いところは共有できたらいいのではないかと思うときがある。

組織というものがあったほうがいい・属していることに利点があるというのは確かにあり、組織には運営するひとたちの存在が不可欠である。俳句組織の運営は基本的にボランティアであることが多いので、運営者の実作の時間を確保するためにも機械化できるところは機械化し……、と言うのは簡単なのだが、わたしにはそのスキルがないし、外部に委託するにもお金がかかる。

結社の仕組みの核となるのが月刊誌発行。そのためには編集や経営を担う人材が必須ですが、結社誌の実情として、それらの労働への対価を捻出するのは極めて難しいのです。(月刊結社誌の購読料は年間二万円前後。印刷費・送料等を考えるとギリギリの値段設定です。)
よって、結社の運営とは、真っ当な言い方をすればボランティア活動、やや皮肉な言い方をすれば滅私奉公。幹部同人中心に使命感に燃えて生きがいをもって活動している結社もあれば、正業を持ちつつ、結社の仕事を続けることに疲弊していくケースも少なくないのです。

伊月庵通信 2024冬号

各団体はお金の管理や雑誌の編集などをどうやっているのだろうか。個人情報の問題もあるが、交換留学生的に運営側の情報共有などもできたら、お互いにプラスになったりはしないのだろうか。

このようなことを考えるようになったのも、所属を「掛け持ち」を決めたことに起因する。
創作は個人の時間がなくして起こり得ないが、文化の発展の裏には組織があり、それを運営するひとたちが存在している。それを身をもって知ることができたのも、そのなかの一人になれたことも良い経験になると信じている。

指導者が複数いることのデメリットはわかっている。それ以上に、(私淑しているものも含め)複数の師がいてくださることと、それぞれの場でのたくさんの出会いは価値あるものであり、わたし自身が作品というかたちにして価値あるものにしていかなくてはならない。
発表する句数が増えたことで(たかが知れる数ではあるが寡作なわたしはひいひい言っている。いつもか)スケジュール管理の精度が増し、先生に「掛け持ちしたことで作品のクオリティが下がった」と思われたくないために自選の目も厳しくなった。大変なときはもちろんあるが、これは良いことなのだと信じたい。

冒頭でわたしは「物言う株主」の話をしたが、わたしは「物言う会員」になってはいないだろうか。
お金がすべてではないが、すべてがお金ではないとは言えない。いろいろなものが値上がりしている昨今、手取りが増えたと実感しているひとはどのくらいいるのか。わたしは飢えているひとにパンのみに生きるにあらずとは言えないし、言いたくはない。言いたくはないが、「物言う会員」にもなりたくはない。より正確に言うならば「物言うだけの会員」になりたくはない。

集団を運営するうえで、指導者に話を聞いてもらわなければならない場面というのは確かに存在する。そのときにどのように伝えるか、言葉を受けてどのように行動するか。物分かりがいいという意味でなく、どのように代表の理念に寄りそうか。あるいは対峙するか。

師の、あるいは先達の言葉をどれだけ自分の作品の糧とできるのか。
まもなく、新年度が始まる。

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