どのくらい作り(れ)ますか考。その1。【金曜日記事】 

 内野義悠 

前回はこの場を借りて、日頃考えていた俳句のテーマのひとつである「飛ぶか、飛ばぬか」について語らせてもらいました。

おかげさまでぼわっとしていた考えが何となくまとまるきっかけとなったところもあったので、ぼくの回のこのコーナーは、この先も「いつも何気なく考えていること」を書いていく場にしたいと思います。

作句論というほどたいそうなものではないし、それを書けるほどの俳句や論文の技量もありませんが、同じような考えや悩みを持っている句友さんが一人でも共感してくれたら嬉しいです。

ということで今回は、「どれくらい作り(れ)ますか考」です。

何を隠そうこの原稿を書いているまさに今も、数時間後に句集読書会を控え、そのための準備に焦っている真っ最中なのですが、今年のぼくの三月は最初からずっとこんな感じでした。バッタバタです。

ひとえに自分のキャパの限界見極め下手が全ての原因なのですが、その結果として今月ここまでに作れた俳句は十数句。月の三分の二を経過した現時点でこの数字は、自分としてはかなり不作です。この中から多少なりとも「残す」つもりになる句を挙げるとしたら、それこそ数えるほど。

改善策を思案しつつ、このような状況のなかでよく考えるのが、「初学の頃はもっと作れてたんだけどなぁ…。というか、自分の周りの人めちゃくちゃ作りまくる人ばかりで焦るわぁ…。」ということです。

まず前提として、「月に○百句作ったから偉い!」という話では決してないし、俳句に於いて数字だけを見て努力値を測るというのも浅はかな話だとは思うのですが、それにしても俳句を始めた当時を振り返れば、毎月二百句前後を同人になるまでの二年間くらいは作り続けていた記憶があるので、やはりこの大幅な寡作化ぶりからは大きな影響も及ぼされているはずです。

ちなみに現在のぼくの最低限納得できるレベルでメモに残る毎月平均作句数は、四十~五十句くらいでしょうか。初学の頃との比較参考までに。

ではなぜ俳句歴を重ねるにつれてこのような変化が起きたのかを考察すると、

1.単純に作句に割く時間が減った。

2.一句完成までにかける時間が増えた。(主に推敲)

3.自句に求めるレベルが無意識の内に上がったため、作ってはいても脳内取り捨てではじかれて、最低水準到達句として残る句が減った。

このあたりが要因なのかなと思います。

1についてはまぁ自己責任と言うことで論外なのですが、2と3は少しずつでもレベルアップしていく過程で必然的に生じる代償(というほど悪いことですらない気もしますが。)として、避けては通れない道なのではないでしょうか。

つまりひと言で言うと、「自句に厳しくなってきた」ということですね。

俳句を学び始めた最初期のぼくは、キャンバスがあまりにも真っ白で、さらに句の良し悪しの基準も分かっていなかったのでなんでも自由に描き放題。どんどん句が生まれるうれしさから、日常的に句を作りたくなる好循環が生まれて、結果的に句数も増えていたのだと思います。そんな状態の人間に「多作多捨」というパワーワードが添加されたら、それはもう止まらなくなります。

それがだんだんと俳句のルールみたいなものを知っていき、過去の自作を振り返り、優れた句友たちの作品に触れる機会が増えるほどに、「あれ?自分は本当にこんな感じでいいのかな?」という疑問を抱くようになったわけです。

この疑問を抱いた瞬間がおそらく最初の分岐点なわけで、このあたりから簡単には自句を愛せなくなってくるわけです。

が、前回に引き続きまたしても知らない間にめちゃくちゃ長くなってきたので、急遽「その1」をタイトルに足して、今回は一旦ここまでにします!毎度毎度まとまらずごめんなさい!

また来月よろしくお願いします!

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