髙田祥聖の、かたむ句!⑤【金曜日記事】
愛されずして沖遠く泳ぐなり/藤田湘子
鶴守も白鳥守も朝のなか/夏井いつき
先日、リブラ同人の山本たくみ、内野義悠の二名が第8回円錐新鋭作品賞に入賞した。
そこに自分の名前がないことが、悔しかった。
選者である山田耕司氏のポストを拝見して、二人が受賞者であることを知った。すぐにリブラのLINEグループで「おめでとう」とは言えなかった。いちばん最初にぎょちゃんが「おめでとう」と言って、それに続くようにお祝いを言った。なんて言ったかは、正直覚えていない。とても短い、喉から絞り出したようなお祝いの言葉。本心でなかったわけでは決してない。
円錐新鋭俳句賞が発表になる少し前。四月十三日の土曜日、リブラ句会。
ぎょちゃんが終電を逃し、わたしが終電を逃し、句友たちと朝まで飲んで歌った。
翌朝、それぞれが帰途につく日曜日の中央線の電車のなかで、ぎょちゃんと俳句四季新人賞について話した。
「俳句四季新人賞さ、たぶんもう受賞者決まってるよね」
「そうだね、そろそろ発表の時期だもんね」
ぎょちゃんから泡のようにこぼれる言葉が、とても美しかった。
まだ夜の翳りが残る電車内。どうすれば息ができるのだろう。
ぎょちゃんにも、わたしにも、俳句四季編集部から連絡は来ていなかった。
ぎょちゃんからなんて質問されたんだっけ。
二ヶ月も前のことだから、……ちがう、まだ二ヶ月しか経っていないのにもうこんなにおぼろになっちゃうんだ。
こう答えたことだけは覚えている。
「もし、受賞できていたとしても。受賞できていなかったとしても。受賞できなかったとしても、もしそうならいまはそのときじゃないんだと思う」
朝にふさわしい、とても淋しい覚悟だった。
さくら花びらびつしり張って冷やす火傷/夏井いつき
さて、困った。そろそろ夏井いつきを組長とする「いつき組」について書きたいなと思っていたのに、冒頭にある藤田湘子の句が頭から離れないのである。
藤田湘子(1926-2005)は水原秋櫻子に師事。俳誌『鷹』を創刊したが、秋櫻子に認められず『馬酔木』から離脱している。
「愛されずして」というあまりに大胆な上五(上七か)はなかなか言えるものではない。俳句という意味だけでなく、もっと感情的な意味で。たぶんもう愛されていないという現実は体感的にわかっているはずなのに、言葉にすると途端にギロチンの刃が落とされてしまう。
下五の断定の「なり」も痛ましく、それでも「愛されずして」と現実を受け入れたからこその決意がある。もう陸を振り向かない。遠く、遠く泳いでいくのだ。
湘子ほどの深刻さはないにせよ、「師から自分は愛されていないのでないか」と感じたことがあるひとはどのくらいいるのだろうか。「自分よりもあいつのほうが愛されているのではないだろうか」と思ったことのあるひとは。
わたしはある。
わたしには先生と呼べるひとが複数人いるが、所属しているという意味で、「いつき組」にも、「楽園」にも、わたしよりも、師と詩の波長のようなものが共鳴しやすいのだろうという人は存在する。もちろん、それだけではないのだけれど、愛される理由よりも愛されない理由のほうがいくらでも挙げられるような気がしてしまう。
これは先生の指導に不満があるということではない。
もしかしたら、ここはわたしの居場所ではなくて、もっとわたしのことをわかってくれるひとがどこかにいるのかもしれない。
そうした類の無いものねだりである。
自分にとってのいちばんの理解者が、いちばんの指導者であるというわけでもないことも理解している。選ばれるほうのひとたちが途轍もない努力をしていることも。
ようするに、モチベーションの問題なのだ。
俵万智の第三歌集『チョコレート革命』にはこんな歌がある。
共感を禁じ得ない。
選ばれたい。勝ちたい。愛されたい。
なんかもう「ほろよい」とか飲んでもいいだろうか。あんまり強いお酒は得意ではない。この原稿を書いている、いま午前五時だけれど。
結局、ウィルキンソンを飲む。炭酸水ではいちばん好きかもしれない。学生時代から飲んでいるので、まあまあ長い付き合いである。もう泣かない。炭酸水は裏切らない。
「そんなこと言って、おまえめちゃめちゃ先生から愛されてんじゃん!!」という声が聞こえるような気がする………。自覚はある。いや、まあそうなのですが、愛されているのは俺のキャラクターであって、俺の俳句じゃないと思うんですよ。これほんとに。いや、目をかけていただいてほんとうにありがたいと思っております。はい。
消化できない思いを抱えながらも、組織に籍を置いているのは、一人で学べることには限界があるから。それから、組織の理念に共感しているというところが大きい。いつき組では「裾野」。楽園では「俳諧自由」。そのどちらもこれからの俳句にとって必要なものだと思うから。
そんなに愛されたいのか、勝ちたいのかと改めて訊かれると、ふむむ……と唸ってしまうところもある。結局のところ、いちばん大切なのは「誰かに選ばれること」ではなく、自分自身が納得しているかどうかなのだとも思う。
わたしがわたしの作品を好きであること。
わたしが「わたしの作品」だと胸を張って言えること。
選ばれるために作品を創りたいわけではない。
わたしがわたし自身を「選びたい」のだ。
青き踏めマスクを鳩として放て/夏井いつき
最近、ふと夏井組長の言う「楽しくないと俳句じゃないぜ」の意味を理解することができた、体に落とし込むことができたのではないかと思うことがあった。
この言葉は、いままさに俳句を詠むことが辛いひとに向けた言葉ではないのか、と。
組長がサインとともに書くことの多い(いまはどうなのだろうか。一時期「俳句は愛だ!」だったこともある)このフレーズは、目にする場所がイベント会場であることがほとんどなので、「楽しくないと俳句じゃないぜ!」「イエーイ!」みたいなノリになってしまいがちなのであるが、よくよく読んでみるとこれは俳句が楽しくないひとに向けての発言という一面を持っていることがわかる。つまりこれは、前提として、俳句には辛いときがあると言っていることに他ならない。
なにをそんな当たり前のことをと思われるかもしれないが、組長から直接指導を受ける機会が皆無に等しいいつき組組員にとっては要石のような言葉なのである。対面句会やオンライン句会がある結社と異なり、いつき組の大半は漂流者なのだ。
どうして急にそんなことを思ったのか。どうしてだろう。自分でもわからない。
今回は「選ばれない」ということについて書きたかった。「選ばれる」ことよりも、「選ばれない」ことのほうが圧倒的に多いから。
結局のところ、良い作品を生み出し続けるしかない。俳句に限らず、物事のほとんどは長期戦である。
選ばれなかったことのあるひとへ。まだ選ばれたことがないひとへ。
わたしがお守りのようにしている夏目漱石の言葉をここに記しておく。
これは漱石が若かりし頃の久米正雄・芥川龍之介へと宛てた手紙からの抜粋である。
はぐろとんぼ羽ひらく羽とじるひらく/夏井いつき
今回の原稿は、エッセイのつもりというかほぼエッセイで、かなり自分に寄せて書いている。というのも、これがリブラでのわたしの役割だと思うからだ。
メンバーのなかでいちばん赤裸々が似合うのはわたしだと思うし、ほんとうに仲良しであるわたしたちのなかでさえ競争があるということを読者のかたたちに知っていてほしい。わたしたちのリアルを知っていてほしい。
馴れ合いではない緊張感がわたしたちを成長させてくれている。これは他の俳句同人には、あまり見られないものだと思う。同年代の男子五人だから生まれる感情。学生時代にそうした切磋琢磨を経験してこなかった身としては、すこしだけ甘酸っぱい。わたしは学生でなくもういい齢をした大人だから、この感情もこの関係性も変わっていくことを知っている。
少し湿っぽくなってしまったか。
窓の外。空はすっかり夏の顔をしている。
さて、そろそろ沖遠く泳ぎに行こうか。
【御礼と宣伝】
あっという間にリブラ句会も五回目を迎えることになりました!! いえーい、ぱちぱちぱち。
参加してくださる皆さま、会場である俳句バル鱗様にこころよりお礼申し上げます!! 来たる六月八日の第五回はありがたいことに満席!! ありがとうございます!!
リブラ句会、十二月までのスケジュールはすでに確定しております。ご参加希望のかたはXのリブラ公式アカウントまで。みなさまのご参加、こころよりお待ちしております。
今回もお読みくださり、ありがとうございました!!
みんな、ありがとう。だいすきです。