髙田祥聖の、かたむ句!⑦【金曜日記事】

襖しめて空蝉を吹きくらすかな/飯島晴子

俳句甲子園も終わり、本記事をお読みいただいているかたの何人かは「夏休み、終わっちゃった……」症候群のひとであろうか。お疲れ様です。おれも「夏休み、終わっちゃった……」症候群のひとです。
一緒に飲みましょう。

わたしの住んでいる地域の学校は九月二日からが新学期。子どもたちは元気に秋を走り回り、未練なく夏の名残を抜け出していく。

どの部屋に行つても暇や夏休

西村麒麟

夏休の句と言えば掲句を思い出すが、社会人になってからはなかなか長期休暇を取りにくくなり、夏休という季語は思い出のなかだけのものになってしまった。
それも寂しいなあと思い、今年は自分なりの課題図書を設けることにした。
夏休といえば宿題。宿題といえば読書感想文。
我ながら、なかなかに安直である。

課題図書には栗沢まり作『15歳、ぬけがら』を選んだ。
理由は、ふたつ。ひとつは児童文学なので短時間で読めそうだから(実際、読み終えるのに三時間ほどであった)。もうひとつは、作者の栗沢まりさんが句友であるから。彼女は村瀬ふみやという俳号で、第57回北海道俳句協会賞を受賞しているすごいひとなのである。

本書は次のようなあらすじである。

母子家庭で育つ中学三年生の麻美は、「いちばんボロい」といわれる市営住宅に住んでいる。家はゴミ屋敷。この春から心療内科に通う母は、一日中、なにもしないでただ寝ているだけ。食事は給食が頼りなのに、そんな現状を先生は知りもしない。
夏休みに入って、夜の仲間が、万引き、出会い系と非行に手を染めていくなか、麻美は同じ住宅に住む同級生がきっかけで、学習支援塾『まなび~』に出会う。『まなび~』が与えてくれたのは、おいしいごはんと、頼りになる大人だった。

『15歳、ぬけがら』あらすじより抜粋


わたしが子どものころ、児童文学で「ゴミ屋敷」「心療内科」「万引き」「出会い系」などが描かれることはなかった。それらは確かに存在していたはずなのに。「ゴミ屋敷」という名前をまだ与えられていなかったから、描かれなかったのか。それとも、児童文学の題材として相応しくないからと排除されていたのか。そんなことを考えつつ本書を読み進めていたのだが、物語の中盤でふと俳句を思い起こさせる記述があった。

「いいじゃん、ぬけがら」
ムッとした声が、あたしの口から飛び出した。
「ぬけがら、最高。あたしは、強いぬけがらになるんだ」
周りが静かになってる。言ったあたしも心臓バクバクだ。
あたしがぬけがらになる? しかも、強いぬけがら?
変だろ、それ。変だよね。けど。でも。
なんか、あたし、顔が熱くなってる。これって、恥ずかしいのとはちがう種類の感覚だ。
「ええと、麻美さん。ぬけがらっていう言葉は」
大学生はゆっくり話しはじめた。まるで幼稚園児に教えるみたいに、ひと言ひと言、はっきりと。
「ふつう、そういうふうには使わないんじゃないかなぁ。『魂のぬけがら』とか、『ぬけがらみたいになるな』とかね。ああはなりたくない、という、マイナスの意味で使うんだよ」
それくらい知ってる。
「だから、ぬけがらになることを目標とするのは、どうなんだろうね。ましてや、『強いぬけがら』だなんて、そもそも意味がわからないよ」
意味がわからないのは、あたしも同じだ。けど、意味はわからないけど、意味はある、ような気がする。説明しろって言われてもよくわかんないけど。まあ、わかっても、どうせうまく伝えられないし、説明するつもりはないけどさ。

栗沢まり『15歳、ぬけがら』


主人公の麻美は「ごはんを食べられる場所」として学習支援塾「まなび~」に行くようになり、信頼できる大人の塾長と出会う。上記の場面は、塾長が拾ってきた蝉の殻を無下にされて、怒りを感じた麻美が「自分は強いぬけがらになる」と宣言する、物語の核となる場面である。
が、わたしはというと、物語よりも、ポエジーのわからなさはこういうことなのだ!と目から鱗が落ちる思いでこの場面を読んでいた。

麻美のいう「強いぬけがら」を、まなび~で指導している大学生は理解できない。ぬけがらとは壊れやすい弱いものであり、強いぬけがらは存在し得ないからである。

俳句では、現実とは異なる把握(新しい把握)をしてポエジーを生み出す手法が存在する。ある程度、俳句を(俳句でなくとも何かしらの文学作品を)嗜んできた読者は「強いぬけがら」が麻美の心理的目標だと理解できるであろう。
これは数学の公式を知っているかいないかに似ている。
こうした手法でポエジーを生み出すことができるという知識を得て、その手法を使用している作品と出会う あるいは自分自身がその手法の作品を創ってみることで、ポエジーは血となり肉となっていく。


それはすこし無理空蝉に入るのは/正木ゆう子

ポエジーの話をするとき、必ずと言っていいほど議論になるのは「読者にどこまで寄り添うか」だと思う。

上記の場面で、麻美は「意味がわからないのは、あたしも同じだ。けど、意味はわからないけど、意味はある、ような気がする。説明しろって言われてもよくわかんないけど。まあ、わかっても、どうせうまく伝えられないし、説明するつもりはないけどさ」と思う。
彼女は感覚的に「強いぬけがら」は矛盾をはらんだ存在であることを理解しつつ、自身の象徴として存在し得るとわかっている。
(麻美が俳句を詠んでいるわけではないという事実を棚上げしつつ)創作に置いて「どうせうまく伝えられない」は諦めであるが、「説明するつもりはない」は詩的断定というかたちとなってうまくいく場合がある。
「あなたたちの世界とは異なる法則かもしれませんが、わたしの世界では当たり前のことなんですよ」。こうした言いきりは、ときに強い説得力を持って読者の心に届く。

一句引かせていただく。

じゃんけんで負けて蛍に生まれたの

池田澄子

池田澄子氏の代表作と言っても過言ではないこちらの句。この句の作中主体は「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」と言う。
「生まれたの」という下五は「(わたしはじゃんけんで負けて)蛍に生まれたの」というふうにも、「(あなたはじゃんけんで負けて)蛍に生まれてきてしまったの?」というふうにも読める。やわらかな口語が、蛍という季語と響き合って物寂しい世界観を創り出す。
わたしは数えきれないくらいじゃんけんに負けたことがあるが、来世は蛍として生まれるのだろうか。そう思わせるところに、作品の詩の核がある。
「じゃんけんで負けて蛍に生まれたのかもしれない」という推測では、推測のままに終わってしまい、読者の心に届くことなく沈んでしまう。

では、断定すればいいのかと言うと決してそうとも限らない。

紙コップ一歩間違へれば蛍

髙田祥聖

拙句である。
池田澄子氏の句に続いて、拙句を引くことは畏れ多いを通り越して恥ずかしい以外の何物でもないが、羞恥の先に成長があると信じて引くこととする。

この句は、職場のウォーターサーバーに備え付けられている紙コップを手にしたときに生まれた。「この紙コップは一歩間違えれば蛍だったのかもしれない……!!」と、水に触れて「Water!!」となったヘレン・ケラーさながらにビビビ!!と来たのである。
いまこうして字に起こしてみると、まったく意味がわからない。
が、そのときのわたしは世界の核心に触れたような気持ちになった。
恐いもの知らずなことに、わたしは所属する俳句結社「楽園」の句会にこの句を出句し、堀田季何主宰からコメントをいただいた。そのときのコメントがこちらである。

どう捉えればいいんだろう。一歩間違えれば蛍ように、すごい狙いなんだけど。恋の蛍なのか、魂の象徴としての蛍なのか。一歩間違えれば蛍を捕まえちゃうのか。捉えきれないところがありました。

堀田季何主宰のコメント

季何先生!! わたしのサリバン先生!!
わたしはいままさにWater!!な気持ちです!!

……落ちつこう。 

主宰のコメントの通りである。
この蛍が実物なのか、象徴なのか。
紙コップと蛍にどのような関係性があるのか(あるいはないのか)。
「一歩間違えれば」という措辞も慣用句的で、読者の理解を助ける作用はない。
描写が不足しているのか。十七音では収まりきらない世界なのか。伝えるにしても、わたし自身、自分の感覚への理解が十分でなかったことは明らかである。
「わからない」ではなく、「どうわからないか」を教えてくださる主宰。ありがたい限りである。


握りつぶすならその蝉殻を下さい/大木あまり

課題図書の話に戻ろう。
『15歳、ぬけがら』の主人公である麻美は、家庭の経済的困窮により、十分に食事を与えられていない欠食児童である(厳密に言うと、麻美の母親はシングルマザーかつ働けない状況であり……と様々な問題が絡み合っている)。
日本にはどのくらいの欠食児童がいるのかと調べてみたが、「欠食児童 割合」「欠食児童 何人」などと検索しても具体的な数値は出てこなかった。対して、孤食児童(家族がおらず一人で食事をしている、家族がいるにも関わらず一人で食事をしている児童)についての議論は、具体的な数値・データを提示して行われていた。
このことは何を示すのか。
現代の日本では、欠食児童よりも孤食児童のほうが多いのか。それとも、孤食よりも欠食のほうが見えにくいということなのだろうか。

八月二十三日。
金曜ロードショーで、スタジオジブリのアニメ映画「となりのトトロ」が放映された。「となりのトトロ」は、サツキとメイの姉妹と、トトロという不思議な生きものの出会いと冒険を描いたファンタジー映画である。
放映後、「主人公の一人であるサツキはヤングケアラーである」というポストがXのタイムラインに流れてきた。
サツキは小学校に通う十二歳の少女。入院中の母親に代わり、朝食を作り、父と妹の分のお弁当を作り、洗濯をし、妹の世話をし……、とよく働きよく気が付く「いい子」である。
わたしはサツキに対して「いい子」という認識しか持っていなかったが、たしかに彼女は「ヤングケアラー」の定義に当てはまる。
「ヤングケアラー」という言葉が生まれてなければ、「いい子」と認識されるだけだった子どもがどれほどいたのだろうか。

今年の三月、わたしがお世話になっている投句先のひとつである愛媛新聞の青嵐俳談で天選をいただいた。選者の神野紗希氏の選評とともに紹介させてほしい。

ヤングケアラー誰がためのさくら餅

髙田祥聖

大人が担うべき家族の介護などのケアを引き受けるヤングケアラーの子どもたち。実態が見えず支援が届かない現状が続く。十代の子が桜餅を提げて帰る姿は一見微笑ましいが、ケアを強いられ苦境にある子かもしれない。誰がための桜餅、誰がための人生か。

2024.03.15 青嵐俳談 神野紗希

天選をいただけたことも嬉しかったが、それ以上に選評がありがたかった。

子どもが子どもでいられるうちは、子どもでいられる権利を。
子どもが子どもでいられるうちは、子どもでいられる社会を。

社会詠や「ヤングケアラー」のような強い言葉のある句は、俳句としての寿命が短いと言われたことがある。どうしてわざわざそれを俳句で描きたいのかと訊かれたこともある。
わたしは、描かないではいられないのだ。
たとえそれが俳句という十七音の器では、溢れてしまうものだったとしても。
拙句はたしかに社会詠と呼ばれるものであるが、わたしが現在を生きているという現代詠でもある。

リブラ合宿の夜、自身の俳句の腕を磨いていくプレイヤー性(選手性)について話した。
リブラのなかでも、俳句を俳句として研ぎ澄ましていこうとするメンバーもいれば、俳句でなにができるかを考えて創作をするメンバーもいる。どちらが良い悪いという議論では決してない。
わたしは今回の記事のような話をして、みんなは頷きながら聞いてくれていた。蝉の声がいつの間にか雨音に変わっていた。

わたしはプレイヤー(Player、選手)であるまえに、プレイヤー(Prayer、祈り)でありたい。俳句によって、言葉によって、明日が少しでもいいものになればいい。誰かが少しでも生きやすくなればいい。
俳句にはその力があると、言葉にはその力があると信じたいのだ。

これを以て、わたしの答えになるだろうか。

こんなことを考えながら、また少し夏の名残が遠くなる。


【御礼と宣伝】

第八回リブラ句会!!
今回はぎょちゃんによるチャーハン句会でしたが、おかげさまで満員御礼!! ご参加くださった皆さま、鱗さま ありがとうございます!!

第九回リブラ句会は9/12 19時からを予定しております。参加のお申し込みはXのリブラ公式アカウントまで。
みなさまのご参加を心よりお待ちしております。


今回もお読みいただき、ありがとうございました!!
みんなありがとう、だいすきです。

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