ゴータマの宗教は小乗仏教ではない
ゴータマの宗教を小乗仏教だと思っている人がいまだにおられるようである。しかし、そのような人の理解は迷妄であって勘違いである。今回はそのことについて述べる。
中国に仏教が伝えられていらい、多くの人がゴータマの宗教を小乗仏教だと勘違いしてきたというのは歴史的な事実である。そのことについては、三枝充悳さんが以下のように指摘されていた。
“ なお漢訳仏教圏にあっては、漢訳七論の所属が上述したとおり有部であったために、おそらくは後発の大乗仏教の用語・用例などに同調し迎合して、逆に、初期仏教の資料のたとえば四阿含経までも、一括して「小乗仏教」と呼び慣わすという錯覚を抱き、さらには「阿含経」類は「小乗」の故に「大乗」には及ばないなどの迷妄に溺れつつ、近-現代にいたる。最近になってようやく「初期仏教」〔原始仏教〕と部派仏教とをかなり截然と切り離すようになった。しかしその切断が再びいくつかの諸問題などを招来した。“
(三枝充悳『ブッダとサンガ─〈初期仏教〉の原像─』、法蔵館、1999年、p. 116)
ゴータマの宗教(初期仏教)を伝える資料である四阿含経までも含めて小乗仏教と呼び慣わすという錯覚は、今でもなお根強く残っているようにわたしには見える。そこで、そのような迷妄を、いまいちど批判しておこうと思う。
まず、「小乗」とは何なのか、それを確認するところからはじめよう。岩波の『仏教辞典』を引用しておく。
“自利よりも利他を標榜し強調する菩薩行の仏教徒が自分たちの教えを〈大乗〉(すぐれた乗物)と称し、声聞と縁覚の二乗に対して、声聞と縁覚とは自利を図ることしかしないとして名付けた貶称“
(中村元 他編『岩波 仏教辞典』、岩波書店、1989年、p. 428)
初期仏教の資料である初期経典はゴータマの宗教を伝えているわけであるが、その宗教の中身は「自利を図ることしかしない」ようなものでは決してない。初期経典が伝えるゴータマの宗教は利他の精神にあふれている。よって、ゴータマの宗教は小乗仏教などではない。このことは初期経典を読みさえすれば明らかなのであるが、「阿含経類は小乗の故に大乗には及ばないなどの迷妄に溺れ」る人たちはそもそも阿含経類を読まないので、いまだにそのことに気づくことができないでいる。そこで、今回は、初期経典を現代語訳で引用して、初期経典(が伝えるゴータマの宗教)は小乗仏教などでは決してないという証拠を示しておきたいと思う。
ゴータマの宗教は解脱を目指す宗教である。解脱というのは、要するに、苦からの解放である。そして、ゴータマの宗教は、「自分は苦から解放されたのだからそれで満足である」という形では完結していない。ゴータマは、他の人々も自分と同じように苦から解放されることを強く望んだ。そして、そのような苦からの解放は彼が到達した道の他には達成不可能であるとも信じていたのである。まず、『ダンマパダ』から引用しておこう。
“二七四 これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。
二七五 汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。“
(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波書店、1978年、p. 48)
苦からの解放というのは、もしかしたら少しわかりにくいのかもしれない。ゴータマは、それを「罠(係蹄)から解放される」とたとえているので、それに関する経からも引用しておくことにしよう(相応部経典の4-4と4-5)。ちなみに、「係蹄」の原語(パーリ語)は「pAsa」であり、「a sling, snare, tie, fetter」という意味である(https://dsalsrv04.uchicago.edu/cgi-bin/app/pali_query.py?page=456)。
“「比丘たちよ、わたしは、正しい思惟と正しい努力とによって、最高の解脱にいたり、最高の解脱を体得することができた。比丘たちよ、汝らもまた、正しい思惟と正しい努力とによって、最高の解脱にいたり、最高の解脱を体得することができたのである」〔中略〕
「わたしは人天の世界において
悪魔の係蹄から脱したのだ
わたしは悪魔の縄を解いたのだ
破壊者よ、汝は敗れたのだ」“
(増谷文雄編訳『阿含経典 2』〔ちくま学芸文庫〕、筑摩書房、2012年、pp. 442-443)
“「比丘たちよ、わたしは人天の世界のすべての係蹄から免れた。汝らもまた、人天の世界のあらゆる係蹄から自由になったのだ。
比丘たちよ、いざ遊行せよ。多くの人の利益と幸福のために。世間を憐れみ、人天の利益と幸福と安楽のために。一つの道を二人して行くな。
比丘たちよ、初めも善く、中も善く、終りも善く、理路と表現とをそなえた法を説け。また、まったく円満かつ清浄なる梵行を説け。人々のなかには、汚れすくない者もあるが、法を聞くことを得なかったならば堕ちてゆくだろう。聞けば法を悟る者となるであろう。
比丘たちよ、わたしもまた法を説くために、ウルヴェーラー(優留毘羅)のセーナーニガーマ(将軍村)に行こう」“
(増谷文雄編訳『阿含経典 2』〔ちくま学芸文庫〕、筑摩書房、2012年、p. 444)
ゴータマの宗教は、「多くの人の利益と幸福のために。世間を憐れみ、人天の利益と幸福と安楽のために」「法を説け」という宗教である。そこには、他者は「法を聞くことを得なかったならば堕ちてゆく」ことになるという認識がある。つまり、自分たちが法を説かないことは他者の利益を害するという認識が前提にあるのである。そのことを、ゴータマは「他人の利益と哀憐とのゆえに さとれる者は他を教える」と言っている。相応部経典の4-14を引用しておこう。
“ かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、コーサラ(拘薩羅)の国のエーカサーラー(石主)という婆羅門村にとどまっておられた。
その時、あしきもの魔羅はかように考えた。「いま沙門ゴータマ(瞿曇)は、大勢の在家者たちにとりまかれて法を説いている。わたしは、その人々の眼をくらまさんがために、沙門ゴータマに語りかけてみよう」と。
かくて、あしきもの魔羅は、世尊のもとに到り、偈をもって世尊に語りかけた。
「他の人々を教えることは
汝にふさわしいことではない
汝は、それをあえてして
貪りと怒りにとらわれぬがよい」
〔世尊は仰せられた〕
「他人の利益と哀憐とのゆえに
さとれる者は他を教える
如来は、貪りも怒りも
すでにことごとく解脱した」
その時、あしきもの魔羅は、「世尊はわたしを知っている。世尊はわたしを見抜いているのだ」と、苦しみ萎れて、そこにその姿を没した。“
(増谷文雄編訳『阿含経典 2』〔ちくま学芸文庫〕、筑摩書房、2012年、pp. 455-456)
以上により、ゴータマの宗教は、「他人の利益と哀憐とのゆえに他を教える」宗教であることを示すことができたと思う。この時点で、すでに、ゴータマの宗教は、「自利を図ることしかしない」宗教(=小乗仏教)などではないことが明らかであろう。
ゴータマの宗教においては、「他を教える」という要素がきわめて重視されている。このことは、「他を教える」ことがどのような反発を引き起こすかという問題についてのゴータマの教説を見れば明らかである。まず、「他を教える」ことが反発を引き起こすという問題についてのゴータマの教説を見てみよう。『ダンマパダ』より引用する。
“七七 (他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛せられ、悪人からは疎まれる。“
(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波書店、1978年、p. 21)
ここには、「他人を訓戒すれば、悪人からは疎まれる」という認識がはっきりと表明されている。悪人から疎まれるとどうなるかというと、最悪の場合には、暴力によって仏教の伝道を阻止されるということもありえるのである。この問題についてのゴータマの考えを伝える経があるので引用しておきたい(相応部経典35-88)。この経は、プンナがスナーパランタというところに法を説きにいくことをゴータマに伝えた時に、ゴータマがプンナの伝道についての考えを確認するために質問するという話である。
“「大徳よ、スナーパランタ(輸那鉢羅得迦)というところがございます。わたしは、そこに参りたいと思います」
「プンナよ、スナーパランタの人々は激しやすい。プンナよ、スナーパランタの人々は荒々しい。プンナよ、もし、スナーパランタの人が、そなたを嘲りののしったならば、プンナよ、そなたはどうするか」
「大徳よ、もしスナーパランタの人が、わたしを嘲りののしったならば、それを、わたしは、こう考えましょう。〈まったく、このスナーパランタの人は善良である。まったく、このスナーパランタの人は素晴らしい。彼は、わたしを拳をもって打つにいたらない〉と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝よ、その時には、そのように受け取ります」
「だが、プンナよ、もし、スナーパランタの人が、その拳をもってそなたを打ったならば、プンナよ、そなたはどうするか」
「大徳よ、もしスナーパランタの人が、その拳をもってわたしを打ったならば、それを、わたしは、こう考えましょう。〈まったく、このスナーパランタの人は善良である。まったく、このスナーパランタの人は素晴らしい。彼は、わたしを土塊をもって打つにいたらない〉と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝よ、その時には、そのように受け取ります」
〔中略〕
「だが、プンナよ、もしスナーパランタの人が、刀剣をもってそなたを打ったならば、プンナよ、そなたは、どう考えるであろうか」
「大徳よ、もしスナーパランタの人が、刀剣をもってわたしを打ったならば、それを、わたしは、こう考えましょう。〈まったく、このスナーパランタの人は善良である。まったく、このスナーパランタの人は素晴らしい。彼は、いまだ、鋭き刃をもってわたしの生命を奪うにはいたらない〉と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝よ、その時には、そのように受け取ります」
「だが、プンナよ、もしスナーパランタの人が、鋭き刃をもってそなたの生命を奪うにいたったならば、プンナよ、そなたは、それをどう考えるであろうか」
「大徳よ、もしスナーパランタの人が、鋭き刃をもってわたしの生命を奪ったならば、それを、わたしは、かように考えるでありましょう。〈かの世尊の弟子たちのなかには、その身、その命について、悩み、恥じ、厭うて、みずから刃をとらんとするものさえあるのに、いま、わたしは、求めずしてその刃をうるのである〉と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝よ、その時には、そのように受け取るでありましょう」
「善いかな、善いかな、プンナよ。汝はすでにかくのごとき自己調御を具有せり。汝は、よくスナーパランタの地に住することをうるであろう。プンナよ、いまは、汝の思うままになすがよろしい」“
(増谷文雄編訳『阿含経典 2』〔ちくま学芸文庫〕、筑摩書房、2012年、pp. 70-73)
上の引用中、「かの世尊の弟子たちのなかには、その身、その命について、悩み、恥じ、厭うて、みずから刃をとらんとするものさえあるのに」という部分については、比丘の自殺の事例について知っていないと理解できないであろう。そういう方は、「チャンナ経」(相応部経典35-87、https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn35/sn35c070.htm)を参照されたい。
さて、上の引用によって明らかなように、ゴータマの宗教においては、たとえ暴力によって仏教の伝道を阻止されるようなことがあろうとも、一歩も引くことなく伝道を貫くべきことが主張されているのである。「多くの人の利益と幸福のため」にこれほどまでの覚悟をもってなされたゴータマたちの伝道を指して「自利を図ることしかしない」と評することはとうてい不可能である。よって、「ゴータマの宗教は小乗仏教である」というような言説は迷妄であって勘違いである。
以上で、「ゴータマの宗教は小乗仏教である」という勘違いについての話をおわる。
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