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Show must go on - Endless SHOCK - May 2024

 帝国劇場に初めて足を踏み入れたのはレ・ミゼラブルの初演だった。
 あの日から、何度足を運んだかわからない帝国劇場。
 だが、その中でどうしてもチケットが取れなかった演目がある。
 堂本光一が主演する「SHOCK」である。

 BlueskyやXに感想を載せようと思ったが、パフォーマンスに対する好印象とは対照的に、脚本や物語の設定、演出等に対し、シビアな感想を持ったため、短文ではどうしても言葉足らずになりミスリーディングになることからnoteに書き起こすことにした。
 演目に対し、如何なるネガティブな感想も見たくないという方は読まないという選択をお勧めする。
 この感想の主は出演者や演目のファンではない。そのため、バックグラウンドが分かった方がこの感想に至った理由が分かるのではと考えたため、簡単に自己紹介をする。

  • 物心ついたころから舞台好きで、3歳半からの観劇歴は30数年

  • 普段はストレートプレイとミュージカル、歌舞伎等中心に年間80-100公演程度観劇、2008~2019年は海外での観劇がメイン

  • クラシックコンサート、オペラは年間15-30公演程度

  • SMAP×SMAPが始まったころ、SMAPを知らず同級生に馬鹿にされるくらいにはアイドルに興味がなく、ポップスなどを積極的に聴くこともない

  • Smile-up.タレントの主演舞台で観たことがあるのは「The Murder for Two」「ナイツ・テイル」「ニュージーズ」「凍える」「The Music Man」「ジョセフ・アンド・アメージング・テクニカラー・ドリームコート」「ダーウィン・ヤング」「町田君の世界」

  • 宝塚はつかず離れず四半世紀超観ているが、未だにショー(レビュー)を丸ごと一本楽しむことができていない=楽しみ方が分かっていない

  • 役者:堂本光一をきちんと観たのは「ナイツ・テイル」再演。未だに「ナイツ・テイル」に囚われ続けている

 そんなバックグラウンドの私がSHOCKに興味を持ったのは2011年にNHKスペシャルで「SHOCK」が特集されていたものを偶然見たことだった。
 Smile-up.、当時のジャニーズのアイドルが帝劇で同一演目で主演を重ねていることは知っていたがジャニーズ=若い男の子の集団、熱烈なファンが多い程度のイメージしかなく、特に興味がわくこともなかった。
 そんな先入観とイメージを覆したのがこの番組だった。SHOCKがエンターテインメントを本気で突き詰めた作品であるということが分かり、ジャニーズ作品というだけで十把一絡げに観劇の候補から外す=先入観を持つのは良くないと感じたのだ。
 また、私自身、自分の考えや思いを自分自身の言葉で具現化できる人が好きということもあり、堂本光一というひとりの舞台人が紡ぐ言葉に、この人が主演する舞台ならば観てみたいとー番組が終わる頃にはそう思っていた。

 だが、そう簡単にチケットを取れる演目でもなく。干支がひとまわりした昨年、初めて抽選に当選も、仕事で観劇を断念。
 そして、今年ー「ナイツ・テイル」をきっかけに仲良くなった友人のおかげで観劇が叶ったのは5月のSHOCK本編千穐楽だった。
 座席はS席2階センターブロック前方。1階最前列より2階の天井桟敷が好きといって憚らない私にとってベストポジションだった。

 場内に入ると「Endless SHOCK」のロゴが投影された紗幕。
 そして、帝劇の天井が見たことがないほど「いかつい」ことに気が付く。
 以前、芳雄のミューが帝国劇場から生放送されたときにSHOCK仕様の帝劇の姿を観たのだが、フライング用の滑車が想像以上に大きく、また2階近くまであることによる圧迫感に驚く。フライング以外のシーンで邪魔に感じないかと思ったが舞台が始まってしまってからは特に気にならなかった。
 セッティングされた通路に紗幕がかかっており、帝劇の天井が好きな者としてはこれは必要なものなのかと思っていたら、その正体は2幕で理解することとなった。

 友人からは「Overtureが17:57~58には始まるときがあるので早めに着席」と言われていたがほぼ定刻での開演。
 紗幕のタイトルロゴが消えると、スタッフクレジットが流れ出すのだが、この2分程度、観客がずっと拍手をしていることにカルチャーショックを受ける。本編の千穐楽だったので、特別な日でみんなが拍手をしているのかと尋ねると「今年のSHOCKは常に拍手がある状態」との答えが返ってきた。
 宝塚の開演アナウンスに拍手がおきるのに匹敵する驚き…言葉を選ばなければ違和感があり。恐らく宝塚がミュージカルではなく宝塚や歌劇であるのと同様、SHOCKもまたミュージカルやショーではなくSHOCKというカテゴリーに属するものなのだろうなと思った(なお、宝塚のアナウンス時の拍手も私自身は好きではないのでしない派である)。
 ミュージカルだとOvertureで音楽のダイジェストを聴きながら徐々に物語の世界に入っていき、舞台途中でOvertureのメロディが出てくることで、演出や音楽に自分が誘導されていく感覚がある。
 不覚にも拍手に気を取られてOvertureをきちんと聴くことができなかったことで、演出家の企みを受け取れなかった箇所があるのは個人的には残念なポイントだったので、次の機会があるならば、Overtureだけは事前に聴いて観劇をしたいと思う。

 異文化との邂逅は続く。
 「堂本光一」として挨拶をするコウイチ。
 この幕開きのショーは「コウイチ」のショーなのか、それとも役者本人、すなわち「堂本光一」のショーなのか…何とも不思議な気分になった。
 オーナーが劇場についての説明をするので、おそらく「堂本光一」のものだったのであろうと整理している。

 幕開はこれでもかと人海戦術で帝国劇場の空間を埋めていく。
 海外のダンサーやアクロバティックな動きをするプロのダンサーもいるが、Smile-up.の面々がいる群舞は全体的にTVなどで見かけるアイドルのダンスを感じるものー回転軸が細く、スピード感を感じさせるものがメインに見えた。
 所謂ステージダンスとは一線を画すもので、映像で切り取る方が魅力が伝わるダンスは帝劇の大空間でシャビーになりかねないと思ったが、人数を揃えフォーメーションを強化することで素舞台においてさえ成立していた。
 「ファンが観たいものをみせます」という強いメッセージが発せられていたと思う。

 大きなセットも要所要所にあるが、舞台の基本は1号/2号のセリをフル活用したものだ。キャスト、それもパフォーマー(アンサンブル)が圧倒的多い為、帝劇の大きな素舞台を活用するシーンも多い。
 前述のセリも上限5mまでしっかり上がり、舞台機構をこれでもかと魅せつけてくる点、なかなかに珍しい作品だと思う。
 Smile-up.の主演演目を観たことは多くないが、縦空間の活用に腐心している印象が強く、近くで演者を観たいという客層のニーズには応えられているように感じた。
 なお、それがステージの構成上本当に必要なのかと問われたら、疑問に感じるシーンもあることは書き添えておく(劇場の屋上のシーンなど。もっとも、屋上に上がるための階段との兼ね合いでセリを上限まで上げざるを得ないということは理解する)。

 この物語はショー、正確には「コウイチのカンパニーのショー」を楽しむために作られている。
 見せたいものはあくまでもショーであり、物語=ストーリーは副次的なものでしかない。物語が抑々そこまで重視されていないこともあり、ストーリ=脚本はもとより、台詞の練度の低さを感じる。

 それ故、ストーリーや設定は突っ込みどころがどうしても多くなる。
 On Broadwayのプロデューサーがオーナーに名刺を渡し、OnBWに興味はないかと尋ねてる姿に、幕間、友人に「オーナーはコウイチたちのプロデューサーを兼務しているのか」と聞けば「オーナーは劇場のオーナーというだけ」と返ってきて驚いた。
 件のOnBWのプロデューサーも「Offの作品をOnバージョンで上演しないか」ではなく「カンパニーとしてOnに興味はあるか」とのアプローチになっており。日本のカンパニー制度そのもので、些末かもしれないが妙に気になってしまうのだ。知らなければ気に留めることはないのかもしれない。
 そういった意味で、物語の世界にどっぷりはまりたいというタイプの人にはなかなかレコメンドが難しくもある。

 作中気になったのはオマージュに対する考え方だった。
 様々なミュージカルやエンタメに対するオマージュが散りばめられているのは一目瞭然だ。
 公演を打ち上げ、NYの街中に繰り出したシーンはWest Side Story。
 それも何故かシャークス然としたコウイチの背後で踊るチームがジェッツ風の衣装、花婿のさわやかな衣装のショウリはどう見てもジェッツだがその背後にいるのはシャークスだし、振付にも要素が滲む。

 OnBWのショーの音楽は拍の打ち方も楽器構成も否が応でもSing!Sing!Sing!を想起させるし、舞台を観ていればSing!Sing!Sing!の楽曲で踊られてきた数多のショーの振付が頭に浮かぶ。後述するが、1幕2幕共にマイケル・ジャクソンをベースとするシーンもあった。

 オマージュ対象への愛や心意気は強烈に伝わってくる一方。振付や音楽のアレンジは模倣の域を出ていないというのが私の正直な感想だ。OnBWに行く/OnBWに耐えられる革新的なショーとは言えないところが個人的な残念ポイントだった。
 オマージュの中で観たいのは元となる作品の発展的進化である。
 現在のSHOCKは2005年から上演されていると聞いたが、2005年時点で仮に同じ振付・シーン構成であったとしてもold-fashionだと私は感じたと思う。
 SHOCKのベースを作ったのはジャニー喜多川とのこと。アメリカエンタメに影響を受け、そこに強烈な羨望と劣等感をもった戦前生まれの日本人がベースを作った作品であることが否が応でも伝わってくる。優秀なプロデューサーではあったのかもしれないが、クリエーターとしては時代の足枷を嵌められ、そこからは抜け出せない人物だったのだろうとも感じた。

 オマージュにおいては要素を抽出して繋げるのではなく、要素を組み込んで新しいものを作って欲しいのだ。例えば、バレエでは同じ演目でも複数の振付があったりする。全く異なるように見えても基本的なステップの中に他の振付家の要素が活かされているということがよくある。
 私が期待する「発展的進化」というのはそういったものだと思う。MJであるならば彼のステップや振付をもっと大胆にアレンジして欲しいし、West Side Storyならば、ジェッツとシャークスのフォーメーションはそのままにダンスの形を変える、またはその逆などをして欲しいのだ。元となった楽曲やダンスに依拠するのではなく出演者を信じて新たな物を作り出して欲しいのだ。

 これが、出演者の実力不足でそもそも発展的なものを作れないならば仕方がないが、できそうなのに挑戦すらしていないという点を私は残念に思う。

 SHOCKは約20年に渡り、構成が変わっていないと聞いた。
 チケット代が16,000円を超えるようになった今の時代、そのことでチケット代を安価に抑えることができているという側面は理解する。ただ、その中でも、シーン…音楽はそのままであっても振付を時代に応じて変化させることはできたのではないだろうか。
 同じ衣装であったとしても、振付が変わればシーンは変わる。そういった進化があって欲しいと、SHOCK初心者の私は感じた。

 なお、冒頭でオーナーがOff BWからOnBWにいった作品として「DEAR EVAN HANSEN」を挙げたり、劇場街のネオンには時代のアップデートがある一方。NYの街中はコウイチたちのファッションが比較的現代的なのに対して、周囲はWEST SIDE STORYの時代ーどう見てもパンナム航空のスチュワーデスがいるので時代の迷子になっていた(オーナーのセリフは「島田歌穂」として話している可能性も有りそうだが)。
 物語の進行を担う人たち=台詞がある人を浮き立たせるシステムとしては機能しているのかもしれないが、なんとなく居心地が悪いものである。

 SHOCKの照明はミュージカルではお目にかかることのない機材も含まれていた点、興味深かった。他方、その膨大としか表現しようのない照明から放たれる光量は舞台というよりもライブそのもので。
 これまで劇場で観るエンターテイメントにおける眩しいもの筆頭は宝塚のショーだと思っていたが、其れよりも数段眩しく、OnBWのショーが始まった時にはサングラスを持参しなかった自分の見通しの甘さを本気で悔やむほどだった(ステージ自体は糸目で何とか観ることに成功したが快適とは言い難かった)。
 宝塚は電飾の点滅の激しさで眩しさを感じるケースが相応に有るが、SHOCKのそれは地明かりの強さと小さなものに至るまで含めた照明の圧倒的な数の多さに起因していたと思う。

 照明の美しさで特筆すべきは、帝劇の天井に敷き詰められた青・水色・白の小さなランプだ。星空を表現するその照明は劇場ならではの光景で美しいものだった。
 構造物として帝劇の天井はそもそも美しいのでSHOCK以外の演目で採用するのは適さないだろうが(SHOCKはフライング装置のための足場等があるため設置がしやすいということもあるだろう)、30数年帝劇に通って初めて観た景色に、自然と視線が上を向いてしまう。
 なお、1幕と2幕で1回ずつこの照明が用いられるが、2幕はサビの歌詞に合わせ、舞台から客席上空に向けて順番にライトをつけて行けば歌詞と照明の相乗効果で観客が自然と心揺らし物語に引き込ませることができるだけに勿体なさを感じたことは付記する。

 「SHOCKはショーに出演している人たちの演目なのだな」と改めて感じたのは1幕後半、OnBWのショー部分だった。
 ショーの構成そのもの完成度よりも、ショーに主演する者たちを如何によく魅せるかという、顧客層を理解した構成が徹底されていた。

 SHOCKを観たことはなくとも、漠とどういった演目であるかは知っていた。階段落ちやフライングがあること。ヒロインがリカで、オーナーなる人物がいる。
 そして、ライバルと呼ばれるコウイチのバディがいるということだ。

 この舞台の中で、最も驚いたのはライバルという重要な役が脚本の時点で書き込みが甘いということだった。
 ライバルというから、実力の拮抗した役者同士がしのぎを削る物語だと思っていたのだが、実際にはライバルはコウイチへの強烈な劣等感、もっと言うと「コウイチへの憧れの裏返しで劣等感の塊を抱えた、プロ意識希薄な役者」という役どころになってしまっているのだ。脚本通りに演じるだけでは役者にとって魅力を発揮できない役だ。
 このショーは堂本光一という主演ありきの演目ではあるが、コウイチが輝くためには、短くともしっかりとライバルが輝く、ライバルの魅力にフォーカスされるシーンが欲しい。だが、そういったものがほぼ用意されていないと言っても過言ではない。
 SHOCKのようにショーナイズされた舞台においては、ある程度鮮烈な対比があることで物語にメリハリがつくと思っている。例えば、コウイチの軽やかさとスピード感がある殺陣に対しては、相手に重量感を感じさせるような殺陣といった具合だ。牛若丸と弁慶ほどではないにしても、毛色の異なるものが組み合わさることによる魅力が生まれる。これだけショーアップした作品ならば猶更そう感じる。

 ファンはライバルが誰であるかを毎年楽しみにしているのだろう。もちろん人によって持ち味も変わるのだと思う。ライバル役がオリジナリティや想像力で役を広げるにしてもその余地があまりに少なく、アピールできるポイントも少ない。まして、SHOCKでは舞台慣れしていない人がライバルにキャスティングされることもあるわけだ。
 今の脚本とシーン構成においては、ライバルが誰であってもSHOCKというショーのクオリティを一定のレンジに収めることができる。ただ、それ以上を期待することは構造的に難しく。勿体なさを感じた。

 なお、現実的ではないこと承知の上で、LDHなどダンスの毛色が少々異なるライバルなどがいたらまた面白いだろうとも感じた。

 全体を通して「SHOW MUST GO ON」がメインテーマに据えられていたが、生前のコウイチにとっての「SHOW MUST GO ON」とは「決められたパフォーマンスをきっちりとやり切る」なのだなと感じたのが、件の階段落ちのシーンだった。
 ショウリがわざと模造刀を落とし、どうするのかと思いきやテラニシが代わりの剣を舞台上にわざわざ持ってくるというストーリーに。
 SHOW MUST GO ONというならばコウイチが自らの刀を捨て、戦えばいいのではーそう思わずにはいられない。舞台上にセットされている刀を抜きに行くならともかく、わざわざ持って来させる=元からいざという時にそうすることが決まっているということに、1幕における「SHOW MUST GO ON」とは本質的なものというよりは形式的なもののように思えた。

 有名すぎる階段落ちは究極に潔いシーンだった。
 激しい殺陣により緊迫感に満ちた会場にあったのは1号ゼリと階段だけ。シンプルな照明がコウイチとパフォーマンスをしっかりとみせるために存在している。
 余計なものが極限まで排除された空間は美しく、演出による空間コントロールが心地よかった。
 結末が分かっているもの=階段落ちがあると知っているものを観るにあたり、自分の気持ちはどう動くのだろうかということを漠と考えていたが、余計なことを何も考えず物語に没入できたのはクリエーターが見せたいものにしっかりとフォーカスした演出をしたからだと感じた。
 想像以上に段数、斜度ともにあったため、危険度が高いパフォーマンスだと感じた。これを千数百回続けている堂本光一の肉体と集中力のすさまじさに改めて敬服する思いだ。

 なお、終演後、友人と3人、コウイチは頸動脈を切られ、相応の出血量であったのに即死ではなかったのは何故か?直接死因は階段落ちでの骨盤骨折による内出血では?NYで一年植物状態で入院する費用がカバーできるステージ保険とは?など、本筋とは異なるところで盛り上がってしまったのは余談だ。

 私にとってのハイライトは2幕冒頭、MJのThriller模倣シーンに続き始まったシェイクスピアのシーンだった。そもそもがシェイクスピア好きであるし、ナイツ・テイルでの光一さんの芝居が魅力的だったこともSHOCKを観劇したいという気持ちが強化されるきっかけにもなっていた。
 それ故、思いがけず想像以上にしっかりとしたシェイクスピア芝居に破顔せずにはいられなかった。
 光一さんのセリフ回しもよく、バッハ→マーラー5番と楽曲との組み合わせも自然で心が気持ちよく動いていた。博多座でのナイツ・テイルー抑制のきいたセリフ回しのアーサイトが脳裏に浮かんだ。

 だが、その時間が残酷にも途切れたのはベルディのレクイエムが流れ出した瞬間だった。
 SHOCKの音楽構成=オーケストラは低音部が弱い、正確には低音部を重視していないとの印象を受けた。これはポップス的な音楽を全編通じて採用していることに起因するのだろうが、とにかく低音部が響かない、すなわち音の面で下支えがない。
 そのような状況下で流れたレクイエムはあたかもTV番組の再現VTRで流れるBGMのようで。誤解を恐れずに言えば安易な楽曲選択が緊迫した空気を破壊し、シーンを陳腐なものに引き下げてしまったと私は感じた。
 さらに、大仰でわかりやすいヴェルディの楽曲はショウリの内面を曝け出させる妨げになってしまっている。オーケストラの低音の弱さはもちろん、音楽そのものが持つ色が強すぎてショウリの動きの制約にも繋がっている。
 音楽は舞台の世界観を「補強」するものであって「邪魔」をするものであってはならない。シーン構成上、BGMとして小さく流すこともできない楽曲なので、この楽曲選択はSHOCKにおけるmiss choiceだと感じた。
 SHOCKの客層は舞台にあまり明るくない層が多いとは思う。それ故に耳なじみのあるクラシックの楽曲としてレクイエムが使用されたのだろうと推測する。ただ、有名ではないクラシックであったとしても緊迫した空気を感じることはできるだろうという意味で、観客の感性を信頼して欲しいと思う。

 なお、同じ低音という観点で、光一さんの歌声は低重音に魅力があると感じているのだが、SHOCKのキーは全体的に高いように感じた。それはコウイチだけでなく演目全体で感じたことでもある。
 例えば2幕においてもう一度ショーを上演しようというシーンの歌唱などは歌唱者が多いにもかかわらず全員が高いキーを歌っているため、低音の響きを求めたくなることとも無縁ではない。こういったところに光一さんの低音が入ったならと感じるシーンがいくつかあった。
 せっかくの宛書演目、そしてこのショーの為に作曲されたものも多いと推察するので、役者の良さをより引き出すものにできるはずなのだ。

 余談だが、このオーケストラ及び楽曲アレンジによる低音不足問題は時を同じくして日生劇場で上演されていた「この世界の片隅に」においても感じるものであった(こちらは別途感想を書き進めているが、現時点で公開すべきかは悩んでいる)。
 作られた時期も制作の目的、創作過程も異なるながらに日本オリジナルプロダクトに共通する問題点ー私が現時点で立てている仮説は舞台向けに編曲・オーケストレーションができる人材の不足・不在ーに起因するものではないかと考えている。

 後日、昨年SHOCKを観劇した友人と感想戦をしたのだが「SHOCKはキャッチーな音楽が多くて覚えやすい」と言ったことに驚いた。というのも、その友人がミュージカルの楽曲を覚えやすいと話すのをあまり聞いたことがなかったから、そして、ミュージカルは一回聴けばざっくり歌える私は逆にポイントごとに旋律の記憶はあるが、歌詞があまり記憶に残らなかった。
 SHOCKの楽曲群は全体としてポップスになじみのある人の方が感情を掻き立てられるものなのかもしれない。

 そんな中で印象的だったのが、シェイクスピア劇が終わった直後のショウリの歌唱だった。歌詞そのものは芝居歌とまでは言い切れないのだが、彼の感情のぶつけ方なのか、妙に芝居歌としての迫力があり、ショウリの最も印象的なシーンとなった。

 ショウリを演じる佐藤勝利さんは不器用なタイプの役者なのかなと感じた。舞台上で「佐藤勝利」と「ショウリ」をどう存在させるかに苦労しているように見受けられたからだ。ゾーンに嵌っていないとき、役者はある種の居心地の悪さと闘いながら舞台に立たざるを得ないケースがあると思うが、私が観た回は将にそのような回だったように見受けられた。
 そんな中でも、心情を文字通り吐露する歌唱に乗った「苦しい」感情が私には響いたので、闘いを辞めることなく頑張って欲しいと感じた。

 なお、この時の心情吐露の曲が、コウイチがショウリのショーに乱入した後、舞台裏でふたりが再会(と言っていいのだろうか)したところでアンダースコアとして入っていたところにミュージカルの欠片を感じ、笑うシーンではないのに破顔したのは余談である。
 ミュージカルの醍醐味のひとつはリプライズでの転調やアンダースコアで物語の輪郭を浮き立たせるところにあると思っているので、ミュージカルというよりはショーとしての視点を持って観ていたSHOCKに突如飛び込んできたミュージカルの要素を嬉しく思ってしまったのだ。

 現世に未練を残したコウイチがショウリをはじめとするカンパニーの前に現れてからの流れは、ファンタジーのなかでしか許容できないストーリーラインであったが、そこも含めて「SHOCK」=ミュージカルではないと考える必要がある。
 登場人物たちがゴースト(でよいのだろうか)のコウイチを受け入れ、彼が消える前にもう一度ショーを上演しようと一致団結するというストーリーは正直、薄気味悪さを感じるものでもある。コウイチが舞台を完走できなかったことに未練があることも、そこに後悔やトラウマを抱え生き続けなくてはいけない仲間がいることは理解できる。
 ただ、物語そのものはファンタジーではないが故に亡霊となったコウイチをすんなりと受け入れている世界に不気味さを感じてしまうのである。
 それも含めて「SHOCK」というミュージカルやショーとは一線を画すコンテンツなのだと思う。

 なお、コウイチがショーに乱入するくだりはショウリたちのカンパニーからショーから安全を奪い、舞台を滅茶苦茶する行為である。パフォーマンス自体は華やかで楽しいシーンなのだが、目が覚めて久々の感覚に高揚したからといっても。コウイチの行為は舞台に立つ者としてあり得ないと感じてしまう。もっと言えばステージにおけるストイックさを感じる1幕のコウイチと、亡霊となったコウイチの行為が同じ人物のものとは思えず、その変貌に戸惑う。仮にこれがエンターテイナーとしてのコウイチの本質であったなら、1幕でカンパニーが瓦解していくのも理解できるが到底そうは思えず。
 1幕のショーでトラブルでショウリが出られなかった代わりにコウイチが場面を代打したのは「SHOW MUST GO ON」と言えるだろうが、決められたショーに乱入するそれを「SHOW MUST GO ON」を標榜する舞台で許容してはいけないのではないだろうか。
 これも「SHOCK」だからで説明がついてしまうところではあるのだろうが、エンターテイメントを主題とした物語で主人公=コウイチ自らが他人の舞台を破壊するシーンを好意的に描く違和感はどうしてもぬぐえなかった。

 脚本について余計な台詞が多いとの印象があったが、特に強く感じたのもショー乱入後の楽屋シーンだった。
 コウイチが死んでいるということがリカによって暴露されたのち、ショウリが一緒に舞台に立つ仲間たちの名前を順番に呼ぶシーンがある。コウイチの死と向き合えないショウリが仲間をひとりずつ呼びながら、目の前の現実から逃げようとするシーンのテンポがとにかく悪いのだ。
 「なぁ、△△…なぁ●●…」といった具合に順番に名前を呼ぶのだが、これが如何にも芝居然とした台詞になってしまい、リアリティを失わせる原因になっているのだ(そもそもの設定にリアリティはないという点はさておき)。例えば「なぁ、△△…」と言った後、他の人に向かって「なぁ、なぁ…!」と顔を観ながら同意を求めことでショウリの動揺や慟哭は表現できるし、テンポが生まれるので観客の気持ちが途切れることもない。

 宝塚で若手に台詞を言う機会を作るために役を作り脚本が散漫になるというケースをよく見かけるが、SHOCKのそれは若い出演者のマーケティングであるように思われる。
 SHOCKに登場する男性の名前は全て本名からきている。恐らく、来場者に登場人物=若い出演者の名前をインプットすることが主旨となっていて、芝居としての台詞の質を犠牲にしているのだと思う。

 だが、非現実的な物語であればあるほど、そういった小さなリアリティの積み重ねによって、非現実の世界に引き込まれるという経験を重ねてきている故に気になってしまうのである。
 シンプルな物語だからこそ、台詞の練度を求めたくなるのである。

 なお、同じように名前を呼ぶならば、名前を呼ばれたメンバーが芝居の本筋と関係ない=芝居における重要シーンではなく異なる場面、むしろ彼らのダンスなどパフォーマンスと紐づけて名前を呼んだ方がマーケティングは機能すると思う。実際、私が気になった人はいたがそれが誰だかは未だにわかっていない。

 そして。
 最後のショーの準備のために、舞台からコウイチたちが去った瞬間、観客らが一斉に腰を浮かせ座り直したことに何事かと思わず周囲を見渡してしまった。

 その答えは、SHOCKに明るくない私にもすぐにわかった。
 舞台中央に降りてきた長尺の大きな赤い2枚の布ー
 フライングである。

 メインディッシュに向けて姿勢を正した周囲に倣い、ワンテンポ遅れて私も軽く居住まいを正した。

 なんとなく、フライングはショーのラストを飾るものだろうと予想してはいたものの、フライングが最後のショーの冒頭部分というのは想像していなかった。よくよく考えてみれば集中力と体力が求められるシーンだけに冒頭以外にはありえないのだが(1幕にもフライングがあることも驚いた)。

 2幕のショーはハンモックの要領で布を使ったフライング、帝劇の客席天井にあるラダーを使用したもの、傘を使って舞台上を飛ぶ3種類。

 フォトジェニックだなぁと感じたのは布を使用してのフライング。布の開き、光一さんの体幹の確かさからくる安定した姿勢がどこから切り取っても美しい。

 フライングに関与する人間は舞台上にしかいないと思っていたため、ラダーから女性パフォーマー4名が降りてきた時にはびっくりした。フライングのための機構に黒の紗幕が貼られているのはなぜだろうかと思っていたのだが、このパフォーマーたちの動きを隠すためのものだったかと知れば納得である。
 この日、座した席は2階前方のセンターブロックでラダーフライングで目の前に光一さんが降りたつ場所だった。彼がこちらに迫ってきた時、唐突に井上芳雄さんが「光一くんの靴紐がほどけてて」と話していたことを思い出し、思わず足元を見てしまったのは余談だ。
 ラダーフライングは簡単そうにこなしているのだが勢いを殺したパフォーマンス故になかなかにハードなフライングとの印象だった。
 また、近くに降りたつコウイチを観て改めて感じたことは、フライングのための安全装置が衣装と完全に一体化していると思わせるほどタイトだということ。世界観を損ねないためにおそらくかなりきつく安全装置を締め、それを一切感じさせないように精巧に作られた衣装にはプロの仕事を感じずにはいられない。

 ラストの傘を使ったフライングは舞台上で他の俳優陣もいたこともあり、フライングそのものを楽しむというよりもフライングするコウイチが舞台の構成要素のひとつとなっていることを楽しめた。

 なお、これはオープニングのクレジットに対する拍手でも思ったことだが、コウイチがテイクオフするや否や拍手が始まり、フライングの間も鳴りやまず。
 パフォーマンスを観てそのパフォーマンスがよかったから拍手をするという観劇スタイルの私にとっては、不思議な空間だった。宝塚でも歌舞伎でも様々な拍手があり。それを時に楽しみ、時に面食らいもするのだが、SHOCKの拍手もまた、これまでに経験したことのないものだった。
 フライング中の音楽、特に赤い布を使用したときの音楽が綺麗だったので、拍手がない状態でこのフライングを観てみたいとも思った。ショーは観客あってこそ=拍手有ってこそ成立するものだが、コウイチが描いた空間に全神経を集中させ没入してみたいという欲が湧いてくる瞬間でもあった。

 フライングの後もショーは続く。
 和太鼓のパフォーマンスがSHOCKにあることを知らなかったのだが、滝沢歌舞でも和太鼓が使われていたと聞くし、旧ジャニーズ演目は和太鼓を舞台で演奏するとの暗黙ルールでもあるのだろうかというのは素朴な疑問として残った。

 和太鼓はコウイチとショウリだけではなく、しっかりとプロの和太鼓奏者3名が入っていることもあって、空気が綺麗に張り詰める。
 SHOCKは全体を通して、プロフェッショナルの遣い方が上手い演目だと感じた。アクロバティックや太鼓奏者、黒人系パフォーマーが要所要所を締めていくことで舞台全体にメリハリがついていく。脚本の甘さも相まって、台詞のあるメンバー(ポスターメンバー)の芝居だけではどうしても弛緩してしまう構造的問題を、プロフェッショナルによってボルトが締めなおされるようになっている(そうであっても冗長な部分や間延びしている部分はあり、あと20-30分程度短縮した方が作品の質は高まるだろう。それをファンが望むかは別問題だろうが。)。

 ただ、1点。女性陣が着物で日舞を踊るシーンがあるが、多様なダンスが踊れる人がこれだけ揃っていても日舞の経験がないというのはかくも型が決まらないものなのかと衝撃を受けた。
 基礎となる重心の捉え方がジャズダンスやモダンのそれであるが故に、裾捌きは勿論、扇子の手の返し方、首の傾げ方といったものが決まらない。演出が絵としてみせたいものは思い描くことができるのだが型にはまっていないが故に決まらない気持ちの悪さである。
 なお、リカとオーナーの合成繊維の着物のチープさはオペラグラスなしでも分かってしまうクオリティであったし、リカにはきちんとしたカツラも必要だ。勿論、衣装など気にしない圧巻のパフォーマンスというのもあるだろうが、このシーンにおいてはそれは困難であり。また、帝劇のほぼ素舞台を役者の力量で埋めるのはどれだけ優れた役者であってもハードである。
 折角のショーのクライマックスでもあるので、衣装などは制作側がしっかりと用意してしかるべきだ。
 お金はかけるところにしっかりかける。ショーの鉄則であるべきだ。

 SHOCKが他のミュージカルとは大きく違うところにデジタルサイネージの遣い方があると強く感じたのはショーの終盤、夜の海に満月が浮かぶシーンだった。静けさと穏やかさが支配する空間において、バックスクリーンに映し出される背景が歌詞に合わせて変化していく。
 変化そのものは自然で映像単体としても大変綺麗なのだが、演者たちが佇む中、大きく変化するバックスクリーンに視線が誘導されがちだ。
 この感覚はいったい何なのだろうと上演中考えていたが、ミュージックビデオを見ている感覚に近いことに気が付いた。
 これは舞台に求めるものの違いなのだろうが、あの美しい空間には映像の大きな変化は必要なかったのではないだろうか。紅の衣装を纏ったコウイチと白の衣装を纏いコウイチを囲むカンパニーのメンバーが月明かりに照らされた海にたたずむというだけで成立する引き算の美ーそれはとても日本的な美しさでもあるーを観てみたかった。

 もともと、舞台におけるデジタルサイネージについてはあまり好意的なタイプではなかった。だが、昨年末観劇した「ベートーヴェン」において、彩度と照度、解像度を適度に落とし、自然に美しい背景としてのデジタルサイネージ利用したいくつかのシーンを観たこともあり、デジタルサイネージは舞台において魅力的な装置たり得ることについて確信を得た直後の観劇であったので、この点についてはどうしても厳しくなってしまう。
 NYの街中など鮮やかなデジタルサイネージが活きるシーンももちろんある。だからこそ「引き算」したところも観たかった。
 「ベートーヴェン」におけるビルケンシュトック宮殿のバラ園の刻一刻と変わる夕暮れは舞台芸術におけるデジタルサイネージの傑作だと思っているのだが、SHOCKの月光に照らされた夜の海はそれに並び立つものができそうだなぁとの空想をやめられずにいる。

 1幕のショーについてコウイチの「SHOW MUST GO ON」は本質的ではないと書いた。
 そして、2幕。
 死んだ自分について理解したコウイチのショーではコウイチは勿論、出演者全員が「決められたパフォーマンスを決められたように演じることを"継続する"」ことが根底にあると分かり。
 「SHOW MUST GO ON」という言葉が、「SHOCK」というショーのメインテーマであることを台詞ではなくショーとして演じきるという綺麗な形に昇華してみせたところが見事であった。

 最初から最後まで、全力でノンストップの演目。
 芝居でもミュージカルでもショーでもないー「SHOCK」

 新たなジャンルの舞台に出逢えたこと、そして、終幕を前に観劇が叶ったことに感謝だ。

 そして、この舞台はこれまで観たどのような舞台とも観客層が大きく異なるものだった。光一さんのファンを筆頭にアイドルのファンの人が初めて観る舞台がSHOCKであるというケースは多かっただろう。

 堂本光一はアイドルであり、ミュージシャンであり、パフォーマーであり、日本の舞台芸術におけるライブエンタメの騎手のひとりである。
 彼だからこそ作ることのできる作品によって、映像を楽しんでいた人たちが舞台を観ることになるかもしれないし、そこから波及して異なる舞台を観に行くかもしれない。
 「架け橋」という言葉を安易に遣いたくはないが、彼はそういった役割を担ってきたしこれからもそうあり続けるだろう。
 ファンと舞台、そして演劇を繋ぐ作品として、彼は次に何を創造するのだろうか。
 
 「Endless SHOCK」の11月までの舞台の完走を祈念するとともに、次のステップに進むエンターテイナー・堂本光一が新たな帝国劇場でなにを魅せてくれるのかを楽しみにしている。

 一方、私は「SHOCK」というジャンルよりもミュージカルや演劇を好むということも強く感じたので、彼自身が何を「創るのか」ということと同じくらいか、それ以上にー
 小さな箱でシェイクスピアなどの純粋な演劇に彼が挑戦する日を、心待ちにしている。

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