「RAGTIMEの時代」に終焉を
その歌を耳にしたのは中学生の時だった。
世の言うところの「普通」の中学生とは「ちょっと違っていた」私には教室に居場所がなかった。自分らしさを失ってまで人の輪に入っていこうという気概も器用さもなかった。
人の中にいるときほど孤独を感じていた暗黒期ー自分のまま生きるために、何と戦っているのか、自分自身でさえわからなかった時代。
学校に向かう足取りが重くて仕方なかったとき。
一歩前に振り出す手助けをしてくれた曲のひとつだった。
四半世紀を経て「ラグタイム」を観劇する機会に漸くまみえ。
芝居の流れの中でこの曲を耳にした今。
私は改めて絶望の深淵を覗くことになった。
「ラグタイム」がどのような物語であるかは知っていた。
歌詞の意味も、また芝居のクライマックスで歌われる楽曲であることも知っていた。
それ故にさまざまなルーツを持つ歌手たちが歌っていることも。
だが、芝居においてどのような役割を担う曲なのかを知らなかった。
当時、この曲の真の意味を知らずにいられた幸せに感謝をした。
そして、自身の暗黒期を抜けたのちにおいても、この曲を詞の通りにしか受け取って来なかった自分を今更ながら恥じている。
RAGTIME
「ラグタイム」という言葉を知らずとも。
スコット・ジョプリンのアルバム「RAGTIME」には誰しもが一度は耳にした音楽が並んでいるのではないだろうか。
ミュージカル「ラグタイム」はスコット・ジョプリンがその魅力を振りまいていた20世紀初ー今から120年前の物語である。
ラグの軽やかなシンコペーションが生み出す音は気分をウキウキさせてくれる。足取りが軽くなる音楽にステップを踏んでしまうぐらいには「なんとなく幸せ」を感じてしまう音楽である。
この「幸せな音楽」は人種を問わず愛されたし、100余年を経て今の時代にも残っている。
奏でたのは時の黒人たちだ。
物語は芸術家であるユダヤ人・ターテ(石丸幹二)が登場し、登場人物の切り絵を作るところからスタートする。
切り絵のシルエットに色が付き、登場人物のビジュアルが幕に映し出される。白人、黒人、ユダヤ人ー
そして、イラストの中から人が現れる。
白い衣装に身を包んだ白人、原色を纏った黒人、濃いグレーに染められたユダヤ人だ。
「ラグタイム」上演の報を聞いたとき、3つの人種をどのように表現するかは最大の興味の対象であり、同時に心配事でもあった。
本作に関しては扮装ビジュアルの公開は、演出プランの明示に直結しており、大きな安心材料となった。
人種の違いは衣装で表現するとの明確なメッセージが掲げられていたからである。
石丸・井上・安蘭をトライアングルに、実在の人物、すなわちイヴリン・フーディーニ・ワシントン(綺咲・舘形・NESMITH)を逆トライアングルに配し。緩やかに組まれた3つのレイヤーは上から黒人チーム、ユダヤチーム、白人チームにとなっており、そこにも配慮が滲む。
ビジュアルに対する心配がなかったとはいえ、動く彼らに何を感じるだろうかと思っていたが、幕に投影されたビジュアルから「抜け出して」きた彼らに、何ら違和感を覚えることはなかったし、自然に3つのソサエティを受け入れ、物語の世界に入ることができた。
差別を扱った作品において、ストーリーの構成上必要な差別以外のいかなる差別も見たくはなかった。結果、異なる人種から発せられるメッセージは多くのシーンでクリアに受け取ることができた。
また、オープニング「RAGTIME」の主旋律にあわせ、其々が異なるリズムを刻む振付でも、ソサエティの違いが表現されていた点も魅力だった。
この舞台が藤田俊太郎演出であるということを強く感じたのが、メインとなる3層構造の舞台セットだった。劇場の縦空間を使う藤田演出の主たる舞台セットはいつものように大きく、そしてシンプル。
武骨な鉄の3階建てのセットは変幻自在で、各階は緩やかに3つのセクションに分かれている。過度な装飾を施すことがなく、観客をどこにでも連れていくことが可能になる仕様だ。
藤田演出はときに示唆するものが多すぎて、過剰さを覚えることもあるが「ラグタイム」には群像劇としての情報量、それも必須伝達材料がそもそも多く。一定の情報示唆が有用となる演目であったのではないだろうか。
物語冒頭において登場人物が入れ代わり立ち代わり自己紹介をするという行為は演劇においては禁じ手のひとつだと思っているのだが、一人ひとりが俯瞰的立場、すなわち「他者の立場から自己紹介」をするというのは、登場人物がアメリカに存在する「価値観」ひとつひとつを表現している本作においては違和感も、また不快感も覚えなかったというのは興味深い事象だった。
フィクションのメンバーは名前がある黒人チームでさえ他己紹介的であったが、実在の人物は、フィクションメンバーに人物背景やサイドストーリーを語らせたことである程度のセリフを役として言わせることに成功した。そのことが、他己紹介色を僅かに薄めさせたのも実に巧妙であった。
初観劇の後、Broadway版のスクリプトを読んだが、圧倒的な脚本の構成力に再度脱帽するに至った。
オープニングの各フォーメーションは興味深く、特に3階建てのセットに全登場人物が並ぶ景色は示唆的であった。
各人種を各階に配する=縦方向・上下にすることで生まれる差別を排し、人種内でポジショニングをしている。センターの最も上、あえていうならヒエラルキーの最上部に白人のアイコンたるイヴリン・ネズビットが立ち。同じく黒人とユダヤ人のアイコンが舞台フラット面前方に立つことでポスターにみられるトライアングル構造が異なる形で再現されている。社会構造の最上段にいるモルガンとフォードをあえてピラミッドの頂点に持ってこないところのバランス感覚もいい。
また、アメリカ社会の中心に存在する白人グループをセンターに、ユダヤ人グループを下手、上手に黒人グループを配するという構図も。同じ移民であっても、東海岸にとどまった黒人に対し、中~西部を目指したユダヤ人というのがこの1ショットで明示されており、お気に入りのポイントである。
オープニングは「RAGTIME」の主題=主旋律のリピートによって構成されているが、この楽曲の秀逸さを真に理解したのは観劇から帰ってきて、楽譜を開いたときだった。
ピアノを基調としたハ長調の白人、ブルースラグの黒人にはイ長調、移民としてやってきたユダヤ人には変ロ長調ー
ユダヤ人であるにもかかわらず、白人社会に生きるフーディーニには白人のハ長調に数え切れないほどの臨時記号が与えられ。
黒人のパワーをビジネスに活かした白人のJ.P.モルガンとフォードはイ長調にチューバの音がマーチ的に響くのが印象的。
資本主義の否定から主張を始めるユダヤ人アナーキストのエマ・ゴールドマンにはヘ長調。移民のユダヤ人が変ロ長調であることを考えるとこのあたりのさじ加減も巧妙だ。
異質感が強い白人女優のイブリン・ネズビットにはニ長調でエマの語りを遮らせ。そんなイブリンを再度エマが遮り、移民の不安と時代の揺らぎをユダヤ人パートと同じト短調(変ロ長調)で伝える。総踊りでもそのト短調が続くことで不安定な空気が伝播する。
そして9分に及ぶこの序曲は嬰ハ長調で締めくくられる。
激しいテンポ変化があるわけではない、主旋律の繰り返しで構成された序曲が9分にわたるというのはちょっとした衝撃だ。繊細な転調と構成楽器の違いだけで、壮大なイントロダクションをやってのけたのだ。
ミュージカル「ラグタイム」において印象的な楽曲は様々あるが、主旋律を、それもほぼ長調の繰り返しだけでやってのけたこの楽曲に対しては「凄まじい」との感想しかなく。
ミュージカルの醍醐味は転調して繰り返し同じ楽曲が登場する、それも歌唱のあるリプライズにあると思っている。だが、このミュージカルにおいては「RAGTIME」という序曲それ自体が究極のリプライズとなっており、要所要所を締めていくところが実に小気味いい。
物語はアメリカに住まう素人探検家のファーザー(川口竜也)が北極を目指し、ラトビアからボロボロのラグシップに乗りアメリカにやってくるターテが洋上ですれ違うところから始まる。
2人とマザー(安蘭けい)が歌う「Journey On」はクラシカルなメロディが基調となっていた。あえて言うなら「欧風」なその曲は物語の中において最も華やかな楽曲のひとつというに相応しいオーケストレーションがつけられており、ふたりの父親(ターテはイディッシュ語で父を意味する)がそれぞれに抱く期待が伝わってくる。
ターテ父子がアメリカに上陸するシーンから始まる「A Shtetl iz Amereke」にはユダヤ人の生き方がよく現れている。
「Journy On」から続く「欧風」のメロディ。
自由の女神を目にしたとき。命からがらの航海の終わりに安堵しただろう。アメリカの玄関・エリス島に降り立ち、イミグレーションの列に不安を覚えただろうー
短調的な調べから長調的な表現に移ろうところに所在無げな彼らが街に飛び出すまでの姿が見える。
自由の女神像を訪れた際、エマ・ラザラスの「The New Colossus」を読み。そこで覚えた不安と希望ーそして、女神像の外に出て、改めて見たマンハッタンになんだか無性に泣きたくなったことを思い出した。
そして、ターテは娘にアメリカという国を、そこにおける希望を歌いだす。欧風のメロディのベースにはシンコペーション、歌詞には過剰さを覚えるほどの韻が踏まれている。
「♪アメリカ」
移民たちがその国名を改めて口にし、街頭に「飛び出した」ユダヤ人たちは、ラグのメロディを歌いだす。
ユダヤ人の「居場所を作る」「溶け込む」能力には形容しがたいパワーがあると思っていたが、彼らがソサエティに溶け込んでいく能力の高さと、当時のアメリカ社会におけるプレゼンスがこの1曲から感じられる。
なお、それだけのパワーを持ったユダヤ系移民が集団化しているときに「A Shtetl iz Amereke」、すなわちイディッシュ語で連帯を示すところにも民族の特徴が見え、本作の好きなポイントとなった。
「A Shtetl iz Amereke」の企みは「Success」の面白さへと続いていく。
ユダヤ人らがアメリカに寄せる期待は資本主義社会における成功、ただそれだけである。
ターテも娘の為にその成功を熱烈に望んでいる。
「空腹のときは歌え。傷ついた時は笑え。」
ユダヤ人の逞しさの根源たる言葉のひとつだ。
ミュージカルでは「屋根の上のヴァイオリン弾き」のテヴィエがこの言葉を体現した人物であるが、彼は将に「ラグタイム」の時代のニューヨークへやってくる(原作においては、イスラエルに帰還する)。
ロシアに住まうウクライナ系ユダヤ人のテヴィエが、ターテと同じ船に乗りニューヨークの地を踏んでいたのかもしれないーそんなことを考えると不覚にもわくわくしてしまう。
話を戻そう。移民たちが奏でるラグタイムには身ひとつでアメリカ社会に飛び込んできた者たちのハングリーさと、新天地で何としても生き抜いていこうとする気概が垣間見える。
そんなユダヤ系移民が見上げる成功者たる白人のジョン・モルガンは時代の流行たるラグのリズムを「似合いもしない」のに刻んでいる。
モルガンのメロディを引き継ぎながらもラグのシンコペーションを断ち切り「欧風」=自らのルーツを示すのはユダヤ人のフーディーニ(舘形比呂一)。
さらに、ラグのメロディが流れる中、決して歌うとなく硬質なセリフを紡ぐのもフーディーニと同じユダヤ人のエマ・ゴールドマン(土井ケイト)である。
20世紀初頭のアメリカが大英帝国を颯爽と抜き去っていったのは経済成長による国家の勢いがあったからに他ならない。それを牽引したのは新時代のビッグカンパニーを作り、先行者利益を享受したジョン・モルガンやヘンリー・フォードといったビジネスマンたちである。
その時代の空気を真っ向から否定するのがユダヤ人アイコンのふたりであるという点に脚本家の思惑が透ける。
演劇の世界でユダヤ人を想像するとき、最初に思い浮かぶのは「ヴェニスの商人」のシャイロックという人は多いのではないだろうか。
「まっとうな人間は金貸しなんて汚い商売はしない」との考えは古からあるし、金貸しを悪とする戯曲も山とある。その「汚い」商売を歴史上支配階級はユダヤ人に押し付けてきたにも関わらず、である。「ヴェニスの商人」はユダヤ人が金に汚いという漠としたイメージを植え付けている代表的な作品とも言えるだろう。
だが、金を扱ってきた、もしくは自身が扱っていなくとも身近にそういった商売を見てきたり、差別されてきたユダヤ人だからこそ、金の本質、資本主義の熱気の危うさも理解しているのだという皮肉がこの戯曲からはぴりぴりと伝わってくる。
資本主義の街角で「とびっきりの切り絵、たった5セント」と声を声を嗄らせていたターテ。稼ぎを得ることはできず、それでも成功をと叫ぶターテに同胞・フーディーニはひとつの「金言」を与える。
「もし罠に堕ちたら思い出せ」
「鎖を切るのは自分」
この言葉をターテが理解するのはずっと先、この物語の遥か先でのことになる。
成功への執着と誓いを新たに舞台奥の暗闇に消えていくターテと入れ替わりに現れるのはコールハウス・ウォーカー・Jr(井上芳雄)を中心とするハーレムチームの黒人たちだ。
アップライトピアノに集まる黒人たちの衣装は彩色豊かであるが青い照明が聊かの落ち着きを与える。天井から吊るされた舞台高半分ほどのポール状の照明は霞んだビビッドカラーで時にその色を変える。青の照明の中で美しくも不気味に光るそれは黒人社会に対する見えない抑圧そのもののようだ。
ユダヤ人に感じる異質感は濃いグレーの衣装、すなわち「彼らの存在そのもの」からくるものだが、黒人たちに感じるそれは明るい音楽を歌い踊る彼らを照らす照明、すなわち「空気感」からくるものだ。
「黒人たちは苦難を忘れて踊っていました。これは彼らだけの音楽でした」
黒人たちの歌い踊る「The Gettin’ Ready Rag」にはブルースやジャズの香りがあり。場面が展開されているときにはその香りを楽しんでいた。
だが、程なく青の照明とコールハウスの衣装に込められたメッセージに気がついてしまい。そして、2回目の観劇においては、黒人たちが勢いよく踊るほど。彼らが楽しく歌いうほどに。切なさが募って仕方がなかった。
また、エイマン・フォリーの振付は物語における緩急、そして黒人チームのグルーブ感、楽曲のリズムを活かすことがよく計算されており。この曲に演者が放つパワーを全て集約させるように企まれていた。
振付で体格カバーをすると簡単に言うが、椅子の使い方やその距離感など、絶妙であった。同じくエイマンが振付をした「ガイズ&ドールズ」では舞台機構の制約で「Sit Down, You're Rockin' The Boat」がセリの内側の狭い空間で展開されることになったことがとても残念だったのだが、ほぼ素舞台、派手なアクションなしに展開された「The Gettin’ Ready Rag」は落ち着きはらった青の空間を一瞬でヒートアップさせ、抜群の緩急が付いた。
ユダヤ人のマインドが「空腹のときは歌え。傷ついた時は笑え」であるならば。黒人のそれは「苦難のときにおいても共に歌い、共に笑っていよう」なのかもしれない。「歌う」という行為は同じであるが、彼らのアプローチは異なるバックグラウンドを持つが故にまるで違うように思われた。
コールハウスはピアノひとつで身を立て、安定した楽団での地位を手に入れる。恋人のサラ(遥海)が何も告げずに立ち去った理由を知らない彼は、彼女が彼との息子を産んでいることも知らない。ただただ、彼女を再度自分の元にとの思いだけで、不義理を働いたサラを迎えに行く準備をする。
その最大の「買い物」が最新モデル、フォードT型だ。
当時、爆発的に売れたT型フォードはアメリカの中産階級に車を齎し、アメリカはさらなる発展を遂げる。T型フォードは庶民に手の届くものではあったが、人種によって就ける職がある程度固定されていたこの時代に。彼の音楽家としての成功が人並み以上のものであったことは想像に難くない。
ニューヨークでは成功者モルガンと成功を望むターテを対比させ。ハーレムではプロダクト生産者であり提供者たるフォード(畠中洋)と消費者となるコールハウスを相対させる脚本が実に憎い。
「Henry Ford」序の蒸気の音は、このミュージカルの中で最もわくわくさせられた音だったかもしれない。
工場の音にも蒸気機関の音にも聴こえるその音はーあらゆる意味で「スピード」を追求し始めた時代の始まりを強く感じさせるものだったからだ。
成長に迷いがない社会の、曇りなき勢いとでも表現すればいいだろうかーそんな時代を象徴する音だ。
また、スタッカートで構成されたこの曲はまるでカントリーソングのようだった。フォード自身がラグタイムを歌わなかったことで、モルガンとの違いが明確になった。
たたき上げのフォードと生まれつきのエリートであるモルガン。ふたりは共に新時代の騎手ではあったがそのマインドはあまりに違う。
「誰が作ったのかも、誰が買ったのかも気にしない」
その言葉の通り、フォードは反ユダヤ的思想を持ちながらユダヤ系移民を単純化された生産ラインの労働力として雇っていたし、誰に対しても車を提供し、求められた国に工場を建てていた。
彼はモルガンのようなエリートではない。農業を生業とする両親のもとに生を受けたフォードの出自を考えれば。物質的豊かさが生活の質の向上に直結することを身をもって理解していたであろう彼が消費者優先主義を推進したのは自然のことのように思われる。そこに、アメリカの標準かそれ以上の給与を手にしたコールハウスが消費者としてやってくる。
フォードについては、車の変遷であったり、フォーディズム、反ユダヤという程度の知識しかなく。今回の演目を機に若かりし頃の彼を調べるに至った。若い彼の姿が自分が断片的に知っている彼の姿にしっかりとつながり。
人は経験の中でしか学べないということを実感している。
アメリカの経済格差が大きく広がったこの時代の悲劇はユダヤ人移民のターテに襲いかかる。
駅員に「ボストンの先なんてない」と言われたターテがたどり着いたのはボストンの遥か先、当時の代表的なヨーロッパ系移民都市マサチューセッツのローレンスだ。彼は織物工場で劣悪な環境の中、週64時間、6ドルのためにボロボロになって働いており、そこではストライキが起きていた。作者はこの時代より少し後の「パンと薔薇のストライキ」をモチーフにこのストーリーを入れ込んだのだろう。
彼らが直面する貧困は当時落ち目の繊維産業に従事していたが故のものではなく、実は構造的なものであったが渦中のターテたちはそのことを理解していない。また、残念なことにアナーキストであるエマ・ゴールドマンも富の搾取をする富裕層と貧困層という二軸で世の中を見ていた。当時の価値観やモノの見方では構造的貧困の概念はそもそも存在しえなかったのだろう。
だが、その構造を本質的に見抜いていたフォードの自動車工場は違っていた。フォードが工夫とアイディアで新規開拓したマーケットは結果的に多くの雇用を生み出し、会社は発展した。
フォードの工場で溌剌と働く人たちを観た後に、ボロボロのターテを見る切なさー何より彼らは時を同じくしてヨーロッパからやってきた移民である。アメリカの中で散り散りになり。
向かった方角、降り立った町でその後の人生が大きく変化してしまうというあまりにシンプルな運命の分岐に頭を抱えてしまうのだ。
そして、政治行為には参加しないと豪語していた芸術家の彼が、デモに参加せざるを得ないところまで追い込まれる姿にー
「芸術は精神的豊かさを享受し文化的生活を営むに必要なものではあるが、生きるために本当に必要不可欠なものか」
というコロナ禍が芸術に突き付けた問が頭に浮かんだ。
ドミトリー・オルロフがソビエト崩壊と21世紀アメリカについて記した著書のなかで示した「崩壊への5段階」というものがある。
「パンと薔薇」其れ即ち「最低限の生活と豊かに生きるための尊厳」
ローレンスにはパンも薔薇もなかった。
5段階のどこにも当てはまらないフォードの工場と、崩壊の最終ステージ「文化の崩壊」に入っているローレンス。
文化的な生活を守るために戦争から逃げてきた東欧からの移民が、戦禍のないアメリカで文化喪失の危機にある。人間が「己を殺すことなく普通の生活を送る」ということは、かくも難しいことかと暗澹たる思いに襲われる。
「クーンソングで知っているものはあるか」
ニューロシェルのマザーのもとにいる恋人・サラを訪ねてくるコールハウスに、グランドファーザー(畠中洋/2役)が放ったひとことだ。
黒人に対する「無自覚の無知」という恥をさらすのであれば。
その相手として、コールハウスほど適任な者はおそらくいないだろう。
クーンソングやミンストレルショーといったものに嫌悪感を覚える人は少なくないはずだ。だが、当時アメリカ国内で、クーンソングを作ったことのない作曲家などほとんど存在しなかった。
残念なことに前述のスコット・ジョプリンだって黒人でありながらクーンソングに曲を提供しているし、アメリカの第2国家とも言えるGood Bless Americaを作曲したアーヴィング・バーリンだって同様だ。もっとも、彼らはその収入により生かされ、「パンと薔薇」を手にすることが叶ったという事実もあり。彼らをただただ非難することはあまりに安易であろう。
コールハウスはクーンソングについて「黒人を馬鹿にするために作った」「白人が顔を黒塗りにして歌う」と言ったが、そんな生易しいものではない。白人がシンコペーションを用いて作った「似て非なるもの」メロディに載せられた歌詞はー黒人を馬鹿にし、揶揄し、「下等な者」として見做すために書かれたものであった。
さらに、歌に登場する黒人の、主に男性は「無知、怠け者、酒とギャンブルを愛する好色家。結婚を避け同棲をするだらしない者」として描かれた。
大衆が求める。需要があるから供給する。人気が出る。
そして、曲が作られる。
クーンソングという差別産業においても資本主義の大原則は健在だ。
ヤンガーブラザー(東啓介)がコールハウスのピアノとの出会いを「澄んだ音色が花の香りのように広がり」「メロディは花束のよう」と回顧したが、彼がそう感じるのは偽のラグタイム=クーンソングに触れる機会があったからであろう。
「私生児を産ませた後で求愛するっていうのもどうかと思うが」というセリフがファーザーの口からさらりと出てくるほどには、クーンソングがアメリカ社会に根付かせた黒人のイメージは強烈で、その影響は今なお続いている。
「わからない 歌えない 馴染めない ニューミュージック」
北極探検から帰国したファーザーはラグミュージックのシンコペーションのリズムを刻みながら歌う。ラグのリズムを無意識に歌えるくらいにはラグタイム、いやクーンソングは白人のファーザーにとって身近な存在であり、彼が生まれた時から厳然とあった黒人に対する正体なき差別感情に直結するものなのだ。
ファーザーは、わかりたくもなければ、馴染みたくもないのだ。
音楽で「自分と家族を」侵食してくるコールハウスという異物を。コールハウスやサラがどういう人間であるかではなく、「ラグタイム」に象徴される黒人ーいや、非白人である者たちが生活圏に存在することに対する言われなき拒否反応があるのだ。
白人たちは理解している。アメリカという「寄せ集めの国家」の土台となる人たちが必要だということを。明確な上下を設けることでヒエラルキーを作り、土台を強固にすることでしか社会基盤は作れない。その明確な上下設定に差別が生み出された。
当然、彼らが「下」の者たちに心を寄せることなどなかった。必要なものは、労働力であり、消費者であった。
ファーザーがシンコペーションを刻む姿は悲哀に満ちている。
北極探検を完遂することなく帰国すると、マザーは黒人の娘とその赤子を引き取り、子供の父親は毎週末やってきて息子のリトルボーイにピアノでラグミュージックを教えている。
彼が不在にしたたった5か月の間に。当時のアメリカの上流階級の多くが抱いていた価値観が、家庭というプライベート空間において覆されてしまったのだ。彼にとって居心地のいい家がない。そのことが彼にとっての悲劇なのだ。
価値観の相違とは共通言語の喪失を意味する。彼の人生の暗転が容易に推察できてしまった。
そして、コーラスにニューロシェルの白人たちが加わったことで、コールハウスの登場で大きく変わってしまったホームタウンの姿までもが鮮明になり。5か月前から時が止まったままのファーザーの衝撃が伝わってくる。
ローレンスにおける「文化の崩壊」は人間として生きることができない=社会そのものの崩壊であったが、黒人を蔑み差別するために作られたクーンソングもまた同様に「文化の崩壊」であるのかもしれない。
金銭的・経済的に豊かな者たちは圧倒的弱者の文化を踏みにじることを自らの文化にしてしまったのだ(もちろんすべての白人がそうではない)。
そして、クーンソングに対する「なじみ」が白人社会にあったからこそ。
差別的要素が取り払われた、作曲者自らが望んで作った「ラグタイム」という本物の音楽がアメリカ社会に容易に受け入れられ、広がったという点は大いなる皮肉でしかない。
他人に踏みにじられたことによってシンコペーションの魅力が伝わり、ラグタイムが市民権を得たということなのだ。
この事実に自分がいかに対峙すべきかがわからずにいる。
「これは差別(もしくはイジメ)ではない。素敵だったから”いじった(からかった)”だけ」
100年前のアメリカの話だからというわけではない、今の時代においても相似する事象は日常のあちらこちらに散見されるからである。
花束を持ったコールハウスは毎週日曜日、ニューロシェルに通い、遂にサラの赦しを得る。
素舞台に青空、(結果的に)未来のために手に入れた新型フォード。
コールハウスが「過去にやらかした」火遊びの数々に同情の余地は欠片ほどにもないが。半年近く…もしくはそれ以上の時をかけて彼女を待ったコールハウスとサラの和解。
そして、ふたりと子供の未来を歌う「Wheels of a Dream」の清々しさは黒人が主体となるシーンの中で唯一空間に広がりを持たせたステージングとなっている。
美しく空間を抜けていく柔らかい音に加わる陽の輝きは希望しかなく。
黒人主体のシーンで物理的にも光が溢れる唯一のシーンで、コールハウスとサラの衣装の鮮やかさがひどく眩い。
明確にハイライトされた希望が確実に絶望に変わることを理解しながらも、この幸せが続くことを願わずにいられないシーンであった。
そして、幸せは続かない。
アイルランド系アメリカ人の消防団長がコールハウスに対する侮辱的行為をはたらく。コールハウスの新型フォードがボロボロにされたのは「黒人」が自分たちのテリトリーに侵入してきたーそれも、法的に拘束するものは何もないにもかかわらずーというだけ。それ以上の理由はなかった。
アイルランド系アメリカ人は黒人と同じく、アメリカ社会に存在するカーストの下層に属する。後発移民である彼らが宗教的な問題等から社会において差別の対象にあり、「真っ当な職」に就くことができず、消防団や警察といった危険な職を引き受けざるを得ない状況があった。
社会秩序を維持するために彼らが得た公権力というパワー、そして、社会において虐げられているからこその鬱憤がー肌の色が違う黒人に向かうという構造は、物語から120年経過した今日のアメリカにも厳然と引き継がれている。
その間にアイルランド系アメリカ人のJ.F.ケネディが大統領となり、スコッツ=アイリッシュとアイルランド系の境目が曖昧になる程の時が経ち。
黒人にとってのガラスの天井がアフリカ系のバラク・オバマによって突き破られた。
オバマは黒人に対する優遇策をとったわけではないーむしろそういった印象を与えないため慎重な政策を採ったことで、黒人の方が落胆していたとの印象だがー黒人大統領誕生により、黒人に対する政治的配慮が実質なくなり。黒人大統領というアイコンが潜在的な新たなる差別主義者を眠りから覚ますことにもなっている。
トランプがアメリカを分断したというが、彼は分断というアイコンの1ピースに過ぎない(聊か大き過ぎる1ピースであることに違いはないが)し、彼が存在しなくとも、彼と同義のことを叫ぶ者は出てきただろう。声高に分断を叫ぶトランプに投票した人たちの根底にある差別主義的マインドが今日のアメリカの姿を「選択」したのだ。
トランプという人間を、その行動を私は全く支持していないが、トランプは人々の内にあるものを言葉巧みに引き出した狡猾なる扇動者でしかない。ゼロから分断を作り出した創造主ではなく、小さな芽を大きくした育成者という点は明確にしておく必要があるだろう。
社会から黒人に対する理由なき暴力は未だなくなってはいないし、彼らが無実の罪を着せられることも白人等に比してまだまだ多い。
どれほどの分断が生まれたのだとしても。今後、差別の解消にどれだけの時間を要するかがわからなくとも。
オバマが大統領となったことはアメリカのみならず世界にとっても大きな一歩、「正常化」に向けたターニングポイントであることに変わりはないし、ここからまた地道に進んでいくしかないのである。
アイルランド系アメリカ人、そして社会において何が行われてきたかについては長くなるので割愛するが、差別が差別を生む構造は今も変わらない。
そして、アイルランド系アメリカ人が黒人を差別してきたように。
コロナ禍で再び強烈にフィーチャーされてしまっている黄禍論に基づくアジア人差別も近年苛烈になっている。白人は勿論、マイノリティである黒人からアジア人に対する差別主義に基づいた事件も多く聞く。
人間というのは歴史から学ぶことができない生き物であるらしい。
日本版「ラグタイム」のなかで、どうしても残念だった点がある。
車を破壊されたコールハウスが消防団の蛮行を訴えるため関係各所に出向いてはたらい回しにされるシーン「Justice」である。
警察、役所、白人弁護士ー
様々な理由・難癖をつけられ、消防団長に正当な裁きを受けさせられるものが存在しない。
たらい回しされる中で「差別などさせない」とのコールハウスの意思はより強固なものへと変化していくのだが、同胞の黒人弁護士にさえも、依頼を断られる。
この物語全般に言えることだが、日本語訳詞がかなりビジーである。
構造的に聞き取りづらいセリフ・歌詞がいくつもあった。特にセンシティブで繊細さが求められる差別関連の訳詞には細心の注意が払われたことはわかる。ただ、言葉数に対し音楽が短すぎるが故に何を言っているのかがわからないという現象がこと「Justice」においては顕著であった。
3回の観劇の内、前述の黒人弁護士のセリフについては1回目では何もキャッチできず。残りの2回で辛うじて聞き取れたのが「我らが同胞の●●の為に公正な裁きは望んでいるが、ただの破壊行為にそんなに時間はかけられない。(聞き取れないように話す)」だった。
役人がにべもなく追い払ったり事務員らが捲し立てるシーンは全てをキャッチできなくても問題はさほど大きくないだろう。だが、この黒人弁護士のセリフは短くしてもかまわないのではっきりと伝えて欲しかったのだ。
というのも、このシーンは①マザーやファーザーたちコールハウスに関係する白人、②たらい回しにする役所や弁護士の白人、③ハーレムの黒人、④黒人弁護士と圧倒的に登場人物が多い。それが幕前の狭いスペースに集まっているため、視線の移動も極めてビジーになる。
結果、コールハウスにとって絶望的なセリフを言っている男性が黒人弁護士だということに気が付いていない人、もしくは黒人であることは理解していてもセリフが聞き取りづらく、彼が弁護士であることを理解できていない人というのが周囲に相応にいたからである。
茶色のスーツの弁護士が黒人であることは明確ではある。だが、舞台上にエレメンツが多すぎるがゆえに瞬間的に黒人と認識できないのだ。だからこそ「同胞」=黒人という言葉はクリアに聞こえて欲しいのだが訳詞がビジーすぎてこれまた聞こえない。
英語では"I want justice for our people so bad I can taste it. But I won't waste my time on a mere case of vandalism when I have real injustices to take to the courts!"というこのセリフ。たった5小節で語るには英語ですらぎりぎりなものを。母音だらけの日本語で対応するのは構造的に難があるのだ。
黒人弁護士自身の大義、そこに基づく仕事のプライオリティや、時間に追われていることを示すために早いテンポで台詞を言わせたいという意図は重々理解できる。ただ。
「同胞の為にも公正な裁きは望んでいるが、たかが破壊行為にかける時間などない(もしくは「そんな不正行為より他に訴えるべきことがある」)」であったならば。
ポイントがクリアに伝わることで、観客が得られるこの差別の根深さへの解像度が一気に引きあがると思われるからだ。
なお、初日直後の観劇で何もキャッチできなかったというのは役者の所為ではないということは明記しておく。この日の席は今までの日生劇場公演で音が悪いと感じたことが一度もない場所であったにもかかわらず「Justice」以外でも聞こえないセリフや歌詞があまりに多かった。これまでセリフを聞き取れなかったことが一度もなかった出演者でさえキャッチできない箇所がいくつかあった。
観客を入れた上で音響の調整に時間がかかることは一定程度理解するが、調整クオリティとしてはあまりに低すぎたと言わざるを得ない。他の完成度が高かっただけに余計に悪目立ちしていた。
クオリティが担保できないならば開幕後3公演程度は調整期間としてプレビューの扱いにして頂きたい(なお、後半に観劇した際には音響の問題は解消されていた)。
コールハウスは問題が解決されるまでは結婚できないとサラに告げる。
コールハウスの音楽同様か、彼の言葉は周囲によく響く。
結婚が延期となったことを慰めるマザーの声が聞こえないほど、サラは周囲の声が聞こえていなかった。だが、ショックで呆然としていたのは一瞬で、自分が何をすべきか、何が出来るのか、その道筋を探ろうとする過程が描かれている。
サラは情熱的。頑固。そして、猪突猛進的なところがある。
サラとコールハウスの目の前には「自分たち黒人を差別させない」という願いと「問題を解決し、結婚する」という2つのwantsがある。コールハウスにとってこのwantsは同義であるのに対し、サラにとっては結婚の願いを叶える手段が「問題の解決」となっている。それが「コールハウスが望むことだから」である。
彼女やコールハウス、黒人たちのことを考えるときに。
どうしても気になることがあった。それは当時のアメリカにおける黒人教育の状況だった。
サラがこの後起こす行動が、無知ゆえの短絡的行為か、既知の者が早急なる幸せの実現を求めたかでサラという人物像は180度変わるからである。
当時の黒人教育についてのレポートを読んだところ、北部における黒人教育は高等教育とは言い難いが想像していたよりは機会は存在したことが伺えた。そのプラットフォームを利用できたか否かは社会制度そのものよりも各家庭、すなわち両親によるものが多かったのだ。
サラがその教育機会の恩恵をどれほど享受していたかを最終的に知ることはかなわなかったが「Wheels of a Deream」から彼女はとても素直で言葉を額面通りに受け取るところがあるように思えた。特に社会的事象については深く考えるタイプではないのではないかとも。ただ、彼女は無知というわけでもなかった。
そして、彼女には自制心があり。感情をストレートに言葉にし、伝える力もあった。
自身の世界が広がりきる前の彼女が、共和党副大統領候補への直訴という即効性は有るもののハイリスクな行動を選択したというのは状況を鑑みれば致し方なかったのかもしれない。
なお、教育に関連したレポートにおいて興味深かったのは民主党と共和党が黒人の基本的人権を剥奪していく過程、そして彼らを虐げながらも選挙で票を得るために黒人にすり寄ったり離れたりを繰り返す姿であった。
ケースによってはwin-winの関係を築くために相互が利用し合えばいいということもできるのだが、圧倒的弱者たる黒人に期待を持たせては「なぁなぁ」にするという強者の政治は、当時アメリカの支配層であった者たちの自信と圧倒的権力を感じた。
なお、その姿勢に現在のアメリカ外交の本質のようなものを見出だしてしまったというのは余談である。
他方、スタディの中では救いもあった。1909年にNational Urban League(全米都市同盟)、1911年にNational Association for the Advancement of Colored People(全米有色人種地位向上協議会、NAACP)といった黒人の生活や権利を守るための組織が白人の手で立ち上げられていったというものである(この「白人の手で」というのがまたひとつの問題ではあるのだが)。
NAACPについては法廷での差別撤廃闘争にも注力していた。コールハウスのようなケースが多くある中で、手を差し伸べる組織ができていったのだ。
差別はなくならずとも、少なくともひとりで闘わなくてはならない状況が解消されたというのは「ラグタイム」を観た後においては救いに見えてしまう。同時にその組織が今も活動していることに愕然ともする。
サラが副大統領候補に向けて歌う「President」には様々な要素が詰まっている。情熱的だが落ち着いたメロディで綴る楽曲には彼女のまっすぐな気性に合致しているし、聞いて欲しいという思いも滲む。
それが歌詞の最終版「結婚しないというの 子供がいるのに」と「子供」というキーワードを口にした瞬間に彼女から弾けるものがあり。副大統領候補への直訴に繋がっていく。
「この女、銃を持ってるぞ」
副大統領候補を守ろうとしたモルガンのひとことが彼女を死へと追いやった。彼女が銃など持っていなかったことに気が付いた彼は「確かに見えたんだ」と言い残し、その場を立ち去った。
良くも悪くもサラの独壇場であるこのシーンは演出が難しいと感じた出来事がある。それは2幕におけるコールハウスの凶行の舞台がモルガン・ライブラリーでありモルガンが「あの野蛮人を縛り首にしろ」を叫んでいたのはなぜかと尋ねられたことで気が付いた。
観客の視線を意図的に誘導できないシーンであるし、どうしたって目はサラを追ってしまうためだ。
ミュージカル「ラグタイム」の中で、一番そのポジションを理解するのに難しい人物がジョン・モルガンである。
小説においてモルガンは「生の輪廻」の研究に巨額の金を投じる変人として描かれている。その他の登場人物についても、それぞれに脚色がなされているが(フーディーニだけは比較的史実のままなのがまた面白いのだが)、虚実織り交ぜられた文章には少々下品さはあるものの、あまりに突飛すぎるエピソードが多々織り込まれていることもあり、フィクションとして受け入れることができる。
ミュージカル化にあたり、歴史上の人物は数が絞られた。
その中でモルガンにあてがわれた役割が資本主義の旗手、そして武器を持たぬ黒人女性を間接的に殺すという役割であった。
時代の、また物語を支える資本主義のアイコンとして見たとき。
原作に登場する人物の中でこのポジションを担えるのはモルガンしかいないだろう。
だが、このシーンにおいて求められるのは「黒人女性が白人社会に殺される」という描写であり。例えば顔を隠した上流階級ではない白人、若しくは特別護衛官複数名が口々にサラが不審者であると言葉を浴びせた方が不条理さや如何ともしがたい社会の断絶が見えるはずなのだ。
もし、資本主義やそれにまつわる競争等が彼女を殺したのであるならば、それはモルガンが担うべき役割であっただろう。例えば、ニューヨークの街頭で疲弊したターテを殺す者がいたならば。それはモルガン以外にあり得なかっただろう。
だが、サラを殺したのは白人社会の中にある差別意識と先入観であり。
それをモルガンに担わせたという点がどうしても理解できずにいる。
また、付言するならばマッキンリー暗殺(1901年)後の大統領は共和党のフランクリン・ルーズベルト。彼の進歩主義に基づく改革のひとつが財閥解体、すなわちルーズベルトはモルガンにとっての敵である。
元々、モルガンはじめ東部大都市の富裕層は共和党支持者であるが、この件に関して彼らが苦々しい思いでいたことは周知の事実である。
アメリカ国外の学生が義務教育で学ぶ事実が捻じ曲げられていることに対する強烈な違和感はどうしてもぬぐうことができない。
この物語の著者、小説家のE.L.ドクトロゥ自身は歴史的事実と出来事は区別すべきとの立場を取っている。よって小説の作中で奇抜な行動をする実在の人物の行動はフィクションと取ることができる。
だが、このミュージカルの中でモルガン以外はおおむね伝聞されている事実に基づいた描写がなされているのだ。徹底的なフィクションの世界であれば許容されるであろうモルガンの表現も、モルガン以外の実在する人物のフィクション度が低いミュージカル版「ラグタイム」においてはやはり違和感を覚える。
このミュージカルが虚構であることは「当然」理解している。
だが、人種差別をテーマにした作品において、反ユダヤを標榜していたフォードを比較的フラットな人物として描き、白人のモルガンに政治的重要人物を守るためとの大義名分を与えつつ黒人を殺す役割を担わせた。
実際のモルガンがどういった人物であったのかー差別的な人物だったのか気性が激しかったのかなどーは不明だ。時代設定がもっと曖昧であったならば気にも留めなかったのかもしれない。
だが、リアリティとフィクションを積み上げた虚実あいまいな世界で実在の、それも特定の人物に罪を負わせることは。印象操作であり、実は差別なのではないだろうかと。差別がテーマの作品でそういった要素が含まれることを残念に感じてしまったのだ。
Broadway版脚本を記したテレンス・マクナリーが如何なる意図をもってこの筋を選んだのかを知りたいが、残念なことに彼はコロナでこの世を去ってしまっている。
サラの亡骸に駆けより声を絞り出すコールハウス。サラの亡骸が強い白い光に照らし出される。
青の照明の中に抑圧を示す円柱状のライトが降りてくる。赤と白が交互に配された円柱は、観客の脳裏に瞬時にアメリカ国旗を描いたー
絶望的な気持ちになった。
直前、消防団長の傍若無人な行為に対し、B.T.ワシントンは言っていたではないか。
「忍耐を示さねばなりません」「自制心」「寛容の気持ち」
とー
「赤」大胆さと勇気、「白」純真さと潔白、「青」警戒と忍耐と正義ー
アメリカ国旗の三色が示すものである。
物語の最初からー
それどころか、ビジュアルが発表になった時から、なにひとつ隠さずに目の前にあったのだ。
サラの赤一色でなければピンクでもない、赤と灰色がかった白のドレス。
コールハウスへの「純真」な愛、時の権力者に物怖じせず直訴する「大胆」さと「勇気」。そして、死によって証明された「潔白」。
ワシントンのくすみかがった青のスーツ。
彼が積み上げてきた歴史、すなわち「忍耐」により積み上げてきた彼が社会的地位を得て、一部の白人たちに届くようになった「正義」の声。
コールハウスのネイビーのシャツと靴下。そして、2幕で着用するコートの裏地。
初めて消防団長と対峙したときに見せた「忍耐」と「警戒」心、そして家族を得て変わった彼が貫こうとしたひとりの人間としての「正義」。
マスタードカラーにネイビーという補色=混ぜると灰色になるコールハウスに灰色のシャツを纏うワシントン。
白人のマザー一家がフランスからの移民であり、それ故に彼らのソックスや小物に灰色が配されているのと同様に。
コールハウスやワシントンに「与えられた」灰色は、彼ら黒人も「元をたどれば移民である」との意味が込められていると解釈していた。
だが、それだけではなかったのだ。
黒人たちが青の照明の元に置かれていたのは、ハーレムの狭い路地やアングラといった物理的な暗さではなく。社会が「忍耐」を強要していたという事実。
そして、不条理に殺されたサラの亡骸を前にしてなお、嗚咽するコールハウスが「忍耐」を「求められている」という理不尽さでもある。
そして、1幕の幕切れー
上手にはマザー一家、下手にはターテ。
そして、舞台奥2階建てのセットの上からは時代のアイコン、すなわち、イヴリン、フーディーニ、ワシントンがサラの葬儀を見つめている。
事件とは無関係の第三者がレクイエム「Till We Reach That Day」に加わったことでその時代の空気が場面に追加された。
サラへの祈りを捧げる黒人たちの強い悲しみが支配するだけの空間としなかったのは、アイコンという時代の第三者の目を介することで観客を傍観者に仕立て上げ、無力感を覚えさせるための構造であり。この脚本内で幾度目かの脱帽をすることっとなった。
特にアメリカで上演する際には、あの3人のアイコンの誰かには必ず自分を重ねることができるのだろう。日本版においては宝塚出身の綺咲愛里、THE CONVOYの舘形比呂一、EXILE NESMITHというミュージカルのセグメントには嵌りきらない3人が立つことで舞台上における異質感を生み出し、その3名を起点にすることで観客を傍観者の立場に引き込むとの表現が秀逸であった。
日本版演出最大の特徴はターテの「切り絵」、基「Movie Book」が舞台効果として登場するところにある。
そして、物語のオープニング、1幕ラスト、2幕冒頭ー
最初に舞台に登場し、1幕幕切れでも最後までスポットライトを浴びるのはターテである。3時間の舞台をターテの視点からみた「物語」としたことの是非については私の中でまだ整理がついていない。
ターテの映画、すなわち回顧録的なものになることで、観客の目は明確に「黒人差別」に誘導された。いや、され過ぎてはいないだろうか。ターテたちユダヤ人が受けてきた差別や不当な扱いが物語の中で薄まったようにも感じられたのだ。
また、前述のように観客を傍観者とする仕組みがそもそもの脚本に組み込まれているにもかかわらず、それがさらに「映画の中の出来事」とすることで二重のオブラートに包まれてしまったのではないかとの懸念である。
群像劇的ミュージカルである「ラグタイム」。
日本で群像劇のミュージカルといえば「レ・ミゼラブル」が代表的だろうが、そもそも多くはない。多方面に意識が向かう「ラグタイム」のストーリーはストプレ的要素が強い群像劇に分類され、ミュージカルの観客に対する親切心であろうと推察はできる。
また、「ラグタイム」という音楽がこの世に存在したからこそ、ミュージカルにするプロダクト足りえたし、逆説的ではあるがストプレにした方がユダヤや有色人種に対する差別を淡々と伝えられただろうとも思っている。
一方、舞台化に際し、ミュージカルというフォーマットを採用したのはラグのリズムによってこの物語を万人に受け入れやすくするとの意図が間違いなくあることを鑑みれば、ストーリー中の差別に「強弱」を付けた方がaudience friendlyであるという考え方もあるだろう。
そんな仮定を頭の中であれこれ立てては検証し続けている。
1幕は群像的な中で差別を描いたが、「Entr’ Acte」から始まる2幕はコールハウスの劇場型復讐劇を中心にストーリーが展開されていく。
あれだけの楽曲を1幕に盛り込みながら「Entr’ Acte」は「RAGTIME」、そして「Justice」だけのリプライズだけで本編に戻る潔さが心地よい。
「家族を変えてた 馴染めないニューミュージック」
2幕に崩壊していくのはコールハウスばかりではない。
サラの死をきっかけに彼が復讐に手を染める過程はファーザーとマザーの価値観の相違を明確にし、ふたりの関係性を大きく変えていく。
ファーザーの口からはマザーを否定する言葉や、無意識に、またときに意識的な差別的な発言が飛び出す。ファーザーの本質的な部分が見えるたびにマザーの心が離れていく。彼女の心が遠く離れて初めて、ファーザーは彼なりに歩み寄る努力をするも、その努力の過程においてすら彼はなかなか自分を変えることができない。
彼はマザーの心を取り戻したいだけであり、そのために致し方なく「最低限」変わろうとしているだけだからだ。
人間の描写として、実にリアルである。
マザーとファーザーの価値観の相違は随所にみられるが、子供の教育に関する描写に象徴的なものを感じる。
1幕、ターテは娘がいなくならないようにと彼女に動物のように紐をつけていた。そのことに疑問を持ったリトルボーイにマザーは理由を伝える。
一方のファーザーは子供の疑問に答えることはしないし、考えるヒントを与えることもない。質問に答える代わりに子供を野球に連れ出し、そこでも「これは自分の知る野球ではない」と懐古主義的な"ぼやき"をただただ繰り返すのみだ。
変化への柔軟性の問題ではない。
子供と如何に相対するかといったという表面的なものではなく、物事に対峙する姿勢、スタンスの違いが見えるのだ。
この物語においてユダヤ人と黒人が直接交わることはない。物語は常に白人を起点に展開されるがその要となるのがマザーだ。1幕ではコールハウスとひとりの人として対峙し、その彼女が2幕でターテの価値観に触れる。
そして、その息子・リトルボーイは時代の一般的な思考を持つ父とフラットな母の元で黒人ともユダヤ人とも交わっていく。
リトルボーイが新しい刺激に対峙したときの反応は子供の素直なもので。先入観とは経験の中ーそれは親の固定観念も含めてーで作り上げられていくものであるということをまざまざと見せつける。
子供は親が思うほどに子供ではない。物事を言語化できる能力が大人に劣るだけ、経験が少ないというだけで、自分の経験の中で一生懸命判断をしている。私に子供はないが、大人として子供と対峙するときにどうあるべきかということを改めて考える。
なお、実在の人物とコールハウス、サラを除き、唯一名前が登場するリトルボーイ。その名はエドガーだ。
彼の名が初めて呼ばれたのは野球場ではしゃいだリトルボーイをファーザーが叱責したときだった。「繁栄の槍」「富裕な槍持ち」を意味するこの名前にファーザーが込めた願いが見える。国威掲揚の旗手であるファーザーが息子に与えたその名に、アメリカーそれは無意識に白人社会ーの繁栄とその守り人たれとの願いが見える。
エドガーがその名の通りに生きたのかー
その後の人生をどのように生き、次の世代に何を伝えたのかをついつい考えてしまうのは、黒人差別がこの物語の時代からさして変化していないという現実があるからだ。
生まれたときから新しい価値観に触れる機会がある者たちが世の中を変えていけるのだろう。だが、リトルボーイがお墓の住人となった今日においても変わることのない差別に言葉を失う自分がいる。
「娘にお姫様のような服を着せてやりたい一心でカメラをまわしているだけの男です」
ターテが「アシュケナージ男爵」と名乗っても、その名前にマザーが顔色を変えることはない。アシュケナージ、すなわち東欧系ユダヤ人と名乗っていても、だ。彼女の心を打つのは「人としての言葉」だけである。
物語の中で人と対峙するうえでの指針を体現し続けているマザーへの印象は終始一貫しており、「noblesse oblige」という言葉が彼女のイメージにしっくりとくる。彼女には浮世離れした空気感があるにもかかわらず、聖女のように偶像化された存在でもなかった。
ファーザーが長い航海で家を留守にした間、彼の「役に立たない書置き」には書かれていない問題と対峙する中で自ら考え行動するようになる。彼女を大きく変わっていくその変化が彼女の歌唱にはっきりと表れる。
1幕冒頭、ファーザーが航海に出るのを見送るマザーが歌った「Goodbye, My Love」、そしてサラやコールハウスとの出会いを経て歌う2幕終盤の「Back to Before」である。
主旋律をピアノに任せ、4分音符~8分音符が連続する細かなト短調のメロディに身をゆだねて歌う「Goodby My Love」。
これに対し、「Back to Before」は付点2部音符のゆったりとした音に、マザーが細かなメロディラインを歌う。2番に入ってからは歌いながらリズムをしっかりと刻むようになり、コーラスが入ってからはト短調→ロ長調→イ長調と激しく転調を繰り返し、歌い上げるスコアだ。
2曲の拍子は変わらない。だが楽譜でも、2番冒頭からリズムを抑揚で刻むようになるところで、言葉の乗せ方の拍が大きく変わってくる。日本語の訳詞がビジーすぎるが故の偶発的なものであろうが、楽器が奏でる旋律に対し、歌の拍子が異なるように聴こえてくるのだ。
マザーの世界にサラとコールハウスが現れ。彼らやターテからどのような影響を受けたかがわかる。それ故に、精神的距離が離れてしまったがファーザーに対し「元には戻れない」というセリフに説得力も生まれる。
メロディのハンドリングを楽曲(ピアノ)ではなくマザーにさせるという手法で彼女の内面の変化と精神的自立がこんなにも胸に迫るものになるとは思わず。楽曲は雄弁であるということを久々に認識した2曲となった。
余談。歌が苦手な人がミュージカルに出演することについてしばしば議論となるが。楽譜に記された音、記号にはそれぞれに明確な役割がある。
歌が苦手な方がミュージカルに出演することをNOとは言わない。
ただ、音に託された意図を歌で表現しきれないのであれば。楽譜が伝えようとするメッセージと同等のものを何らかの形で表現しきって欲しいとー
この楽曲に出会いそう思ったということは付記しておく。
マザーが白人の良心であるならば。
彼女の弟・ヤンガーブラザーは白人の、いや人種を問わず多くの人間を代表する存在だ。思っていること、言いたいことは山のようにあるにもかかわらず、声をあげることができない。傍観者ではいられないとの思いはあるものの、実際に行動を起こすだけのエネルギーを持ち合わせてはいない。
大なり小なりの逃げ道を無意識に探して、問題を遠巻きに見てはいる。ただ、心だけはよせているーそんな存在だ。
「どうしてサラの葬式では同じことを言ってくれなかったんだ」
ファーザーがコールハウスを意図的にニガーと呼び、侮蔑したとき。ヤンガーブラザーは初めて声を荒げ、正論をファーザーにぶつけた。
「言えなかった」
何も言わない、何も言えない彼は己の許容範囲という名のバケツから水が溢れてからしか言葉にすることができない、社会の空気そのものである。
彼が口にできることはいくらでもあったのに。何か起きてからしから、それも決定的なことが起きない限り人は行動を起こせない生き物なのだろう。
彼を見ていると子供の頃、母から繰り返し言われた言葉が思い出されて仕方がなかった。
「頭で何を考えていようと。行動しないのなら思っていない、考えていないのと同じこと」
彼が本当に言いたかったことはその場には存在しないエマによって全て代弁され「観客」に伝えられた。ファーザーが閉口するほどの思いを持っていたのに。その思いこそコールハウスにぶつけるべきだったものを。当事者を目の前にしては彼は何も言えなかったのだ。
彼がコールハウスに言えた言葉は「火薬知識持っている」のひとことだけだった。彼はーなんと臆病な人間なのだろう。
心の底で正義を実現したいと思ってはいる市民の1人。だが、そこに真正面からは立ち向かえない臆病者である。
「負けたんだ、コールハウス」
「僕はそうは思わない」
社会的には何もかもを持っていると思われている「白人のお坊ちゃん」ヤンガーブラザーは実は何も持っていない。
彼は高等教育を受けたであろうに。その視座はあまりに狭く単純だ。世の中を多面的に見ることが全くできていない。教わったことを額面通りに受け取る坊ちゃんは、まぎれもなく「素直ないい子」だが成熟した大人とは言い難い。
だからこそ、イブリンという偶像が万人に振りまく笑顔に心奪われる。
コールハウスのピアノの音色を「花の香りが広が」るようと表現し、エマの演説に「心の空に花びら見えた」と歌う彼はまるで夢想家だ。
目の前で最悪の事態が起きたときに、対峙することを試みようとすらしない。憧れと理想を描くだけ、それを自分の狭い世界で出会った人に託すだけなのである。
コールハウスの死ののち、ヤンガーブラザーはメキシコへ渡り、サパタの仲間になったとのエピソードに。せめて彼が彼自身の力で自分は幸せであると感じられますようにと願わずにはいられなかった。
当時の南部アメリカの黒人の置かれていた状況は北部よりも凄惨なものであった。彼がコールハウスのことで心を痛めたのであれば、国内でするべきことも、できることもあったはずだ。だが、彼はアメリカを去った。結果的に黒人の問題を捨て去ったのだ。
彼の自信のなさは結果的にコールハウスを破滅へと導いた。
自らが持つすべてのものに目をつぶり、火薬の知識ならば人の役に立てるとraison d'êtreを定義する姿には人としての自信のなさ、そして人に必要とされたいという渇望すら垣間見え。
ひどく哀れ…いや、哀しい人に見えたのだ。
白人の家族ーマザーとファーザー、ヤンガーブラザーの3人ーは誰の心の中にでもある感情を具現化した存在であった。
3名の言葉、行動はそれぞれに理解ができるものであり、人としての在り方を訴えかけてくる存在であった。
なお、今回、周囲から聞こえてくる感想で、特徴的だと思ったのは「もっとも共感した登場人物はファーザー」というものだった。
「共感」という言葉が日本的だと感じると同時に、日本人にとっていかに人種問題というものが自身からかけ離れたところにある話題なのかということを実感するに至った。
先行して曲を知ってる作品を観劇するとき。
そして、その中に思い入れが強い曲があるときーそのシーンが始まった瞬間に感情が千々に乱れるということがごくまれに起きる。
それが本作においては「Make Them Hear You」だった。
初めて聴いたときからずっと強く心惹かれていた。
ミュージカルの中だけではなく、黒人やヒスパニック、数多の歌手たちによってカバーされ、その歌唱を聴くたびに彼ら各々のバックグラウンドに思いを馳せることとなっていた。
今回、物語の中で初めてこの曲を聴き、あらゆる感情に襲われ、激しく搔き乱された。歌のメッセージそのものに、心の叫びと歌唱の境目を極限まで排した歌唱に圧倒されたところまでは自分でも咀嚼ができた。
だが、同時に襲ってきたそれ以外の感情をどうにも処理することができなかった。
黒人が社会的地位を持っていなかったに等しいこの時代。
「社会的平等の要求ではなく、勤勉に働き富を蓄えよ」と説き、それを実現していったブッカー.T.ワシントンを白人社会が受け入れたことはnotableな事象だと思う。その彼が歌った「Look What You've Done」の延長線、その系譜上にある歌がコールハウスの「Make Them Hear You」だった。
コールハウスはワシントンに対し、尊敬と敬愛の念を抱いていた。残虐行為に走る彼を止められたのもワシントンしかいなかっただろう。
彼の説得を受け入れたコールハウスが歌う歌として「Make Them Hear You」は申し分がない歌であることは理解している。
だが「Look What You've Done」は旧来の音楽、クラシックではないがマジョリティの好む、いわば「白人の音楽」「白人に響く音楽」であった。
コールハウスが「自分たちの声を聞かせてやろう」と歌った、黒人コミュニティにとっての物語のクライマックスたる「Make Them Hear You」は。
ラグタイムでもなければ「The Gettin’ Ready Rag」といった、黒人の音楽ルーツを想起させるものですらなかった。
彼の話を世に響かせるために、黒人英語を封印するのに近いようなものを感じてしまったのだ。
英語版脚本を読んでもコールハウスの英語には元々黒人的な癖がない。また、出自は奴隷であったとしても、帽子をわずかに上げて会釈をする今の彼のbehaviorに、生まれを感じさせるものもない。
コールハウスの感情が爆発したときに見せる全身を使ったストレートな表現を見ていると、私の周りにいる黒人の同僚や友人、これまでに出会ってきた黒人ルーツの人々が感情を表現するときに見せるストレートな動作が思い出される。
だが、そういったところでしか彼が黒人であることを感じることはない。それ以外(舞台においては服の色=現実世界にける肌の色)において、彼が黒人であるということを認識する瞬間はなかったし、彼は極めて善良なアメリカ社会の構成員であったということしか感じることはできなかった。
コールハウスを「落ち度のない人間」として描くというのはかなり意図的なものであったはずだ。原作の小説が発表された際にもコールハウスという人間の「リアリティのなさ」に対する描写については議論があった。
いずれにせよ、いや、少なくとも、差別を受ける対象としてのコールハウスは欠点のない人物であった。落ち度がない人間として描写することで、不条理さを際立たせたのであろう。
そして、サラが命を懸けて訴えた「President」も「Look What You've Done」「Make Them Hear You」と同じ系譜に連なる音楽であり。言葉や内容、その練度に差こそあれ、黒人たちは襟を正してメッセージを発し続けていたことにも気が付かされる。
私は未だ整理しきれずにいる。
私が絶望したものの正体に。
おそらく。
彼の「当たり前の主張」が、「ラグタイム」などの黒人由来の音楽では世に響かないということが、哀しかったのだ。
サラを失い、自分の音楽を失ったコールハウスが、ラグタイムを奏でることは現実的にはあり得ないのだろう。また「The Gettin’ Ready Rag」は彼ら黒人だけの音楽であり、それを白人向けに声高に歌うのも違うのだろう。
「Make Them Hear You」は、聴衆こそいないが、キング牧師の演説が如くシンプルな言葉で綴られており。人種も時代も超越した普遍性を持った、世界に響く歌として作られているにもかかわらず。
そこに彼のルーツを感じ取ることはない。
こんなことを思うのは、ラグタイムが発表された1996年から今日までの間にall rapの"HAMILTON"が発表され、ラップによってもミュージカルは成立すること、そこから登場人物たちの葛藤や激しい感情を受け取るという経験をしたからかもしれない。
サラの死をきっかけにコールハウスは自分の音楽を捨てた。
もし彼が音楽を捨てていなかったとしても。自身の音楽を政治的・思想的なものに利用することを彼自身の頑なな正義が拒否したのかもしれない。
もし、彼の「演説」がラグタイムや黒人由来の音楽によって表現されていたならば。この曲を知った25年前、自分の心がそこまで奮い立っただろうかと思い返しー
おそらく、「そう」は感じることがなかったのではないかと、思っている自分にも落胆を覚えるのだ。
彼が「自分のルーツではない音楽でこの究極のメッセージを発した」という事実は、今、私に重くのしかかっている。
そして、ターテは何かひとつでもピースが欠けたならばコールハウスになり得ただろうし、コールハウスはひとつのピースがあったならば(もしくはなかったならば)あれほど過激な行動に走ることはなかったかもしれないということを漠と考えている。
ターテにはエマ・ゴールドマンという少々理屈っぽい知人がいた。また、袖ふれあう程度ではあるがハリー・フーディーニとの出会いがあった。
コールハウスにはブッカー.T.ワシントンと生きる指針があったが、彼は新聞の中の人物であり身近な存在ではなかった。
心優しい人々との出会いはあったが、彼が戦おうとしたときに「ひとこと」を言ってくれる人物は存在しなかった。ワシントンが彼のもっと身近にいる人間であったならば。そして、物語を振り返ればそれをできたのはヤンガーブラザーだったように思うが、彼にその力はなかった。
人が何かと闘うとき。知名度のある人が声を上げるだけは足りず。草の根的なものなしに「勝利」はあり得ないのだろう。
この戯曲が秀逸であると改めて感じたのは資本主義社会におけるソサエティを「金銭価値」をもって表現した点にあると思う。
生活の為にアメリカにやってくるユダヤ人のターテと、冒険の為にアメリカを去るファーザー。
ニューヨークの街角で切り絵を5セント(only a nickel)で売り生計を立てようとしたターテはムービーブックの成功を元に500ドルで映画を作り、映画館(Nickelodeon)で観客にに5セントの夢を見せ、1万ドルの利益をあげる。
移民都市ローレンスで娘を養うため衣料産業に従事したターテは週64時間6ドルの為に働き、フィラデルフィアの駅員は手作りの絵本に躊躇なく1ドルを払い、ピアノで職を得たコールハウスは850ドルの新型フォードを手に入れる。
コールハウスが道を通るのにアイルランド人消防団長は25ドルを要求し、ギャングはヤンガーブラザーに小銭をせびる。
各ソサエティの生活実態がどういったものであったかがこの金銭表現だけでクリアに分かるのである。
他方、資本主義的側面からこの物語を観た際に、解を見出せないものがある。「コールハウスはターテのアンチテーゼであったのか」との疑問だ。
フーディーニが「もし罠に堕ちたら思い出せ」「鎖を切るのは自分」と資本主義への警鐘を鳴らすが、ミュージカルの登場人物たちは資本主義に踊らされてはいるものの、大きな罠に嵌った者はいないように見えるのだ。あえて言うならば、ターテが切り絵で成功できると思っていた思考の甘さぐらいなものだ。
そうなってくると消去法的に「サラに見直されたい」という、ある意味「よこしま」な動機で新型フォードを手に入れたコールハウスが資本主義の切り口でステージに押し出される。
それに対し、アメリカンドリームを目指してアメリカへ渡り、切り絵を売ろうとして売れなかったターテが娘を喜ばせる為に作ったムービーブックで成功するという描写がなされ。アメリカンドリームをつかんだコールハウスが資本主義に溺れたと示唆する形になっているが、少々無理がある。
正直にいうとそこにミュージカルの脚本の「甘さ」を感じてしまうのだ。
この物語の原作者E.L.ドクトロゥはユダヤ系アメリカ人であるが、彼は極めてフェアにこの物語を書き上げたと思う。
原作の小説の中で、最終的に大きな罠に嵌ったのは、ターテだと思っている。社会主義者であったターテは映画プロデューサーとして成功を収め、戦争に突入する中で最終的にはプロパガンダ映画の製作にまで手を染めていく。彼の人生はフーディーニの言葉通りに動いていくのだ。
ユダヤ人の悲劇のひとつは約束の地・カナンという「祖国」が精神的拠り所であれど、物理的には「存在しない」という点にあると思っている。旧約聖書にある「約束」が果たされる日を、彼らは待ち続けているのだ。目にしたことのない、心の中の祖国を追いかけ続けているのだ。
彼らが祖国を持たぬが故のマインド、それは歴史の中でユダヤ人が敬遠されてきたひとつの理由であると私は考えている。
自虐的とも言える小説のクライマックスは、著者のドクトロゥがユダヤ系だからこそできた描写だ。そして、ミュージカルの骨子を作った脚本家や演出家にユダヤをルーツとするものはいない。
ターテが社会主義者であったことの描写が甘くなった(実質存在しない)がゆえに、フーディーニの「もし罠に堕ちたら思い出せ」という歌詞が浮いてしまったのではないかと推察している。
あえていう。ユダヤ人を差別をしてきた祖先を持つ人種の制作陣が、本質的なところまで足を踏み込むのはとても困難なのだ。だからこそ、私はこの作品のメインクリエイティブ(脚本家・演出・プロデューサー)陣にユダヤ人が入り、自己批判的な要素も織り込んで欲しかったと思っている。
ミュージカルとしては次の世代にバトンを渡すということ、また悲劇の対象を1点に絞ることで、明確なメッセージを発した点は勿論、Positiveである。特に黒人に対する差別というのは21世紀を目前にした1996年においても現前としており。ユダヤに対する差別よりもわかりやすくアメリカ社会に横たわっていた。
ただ、物語を一段深くするにはユダヤ人の要素はひとつ重要であっただろうし、それを考えるとこの物語は、ミュージカルではなくプレイにした方がより多くのものが伝わったのではなかろうかなどと考える。
他方、ラグミュージックの軽やかさがなければ。鉛の塊のような差別に観客は直面し、対峙することができただろうか。その答えはおそらく「否」である。物語を表現するに適切なフォーマットを見極めることはかくも難しいことなのだと再認識している。
今年は「ムーラン・ルージュ!」の上演に熱い楽しい夏を過ごしていた。
が、その中でひとつ残念に思っていたことがある。
それは日本語というハードルの高い言語があるが故の「多様性のなさ」であった。もっと踏み込むと、多様性がない日本の舞台において、あの日本版「ムーラン・ルージュ」には多様性があると感じてしまったことである。
日本版プロダクトは日本語であるからこそできたガラパゴス版でBroadway版とは全く異なる魅力を持っていたことは紛れもない事実だ。
他方、人種・バックグラウンド入り乱れる海外の「ムーラン・ルージュ」のトレイラーなどを見続けていたため、日本語上演での限界も感じずにはいられなかった。それは日本の演劇人口の少なさであるし、日本語という言語障壁の高さにつながるものでもあった。
日本で上演する以上、日本語での上演になるし、それ自体が悪いということではない。ただ「カオス」や「熱狂の坩堝」が醍醐味の作品において、もう一段上の混沌とした世界に没入したいとの欲求である。
そして、時を置かず上演された「ラグタイム」においては全く真逆のことを感じていた。
このカンパニーには、個々に多様なバックグラウンドを持った演者がいるが、基本的に日本に何らかのルーツを持つ者ーいや、この作品で語るに至っては黄色人種の系譜を引く者と表現するのが妥当だろうかーによって構成されているからこそ表現できるものがあったとの印象だ。
人種の坩堝で上演しないことに意味があるというのは今までに感じたことのない感覚である。多様性があるから表現できるものと、多様性がない=究極のリアリティは持ち得ないが故に浮き上がるものが異なるということで、非欧米圏で上演した意味、それをBroadwayサイドが許可した意図も理解できたのである。
日本版「ラグタイム」も「ムーラン・ルージュ」同様、現時点ではガラパゴス版ではあるが一石を投じたものであると感じている(なお「ムーラン・ルージュ」は寧ろガラパゴスの道を徹底的に突き詰めた方が世界的に差別化でき、面白いというのが私の見解だ)。
「やっぱり殺すつもりなのかな」
「まさか…そんなことはない。みんなちゃんとした人たちだ」
「そう思えなかったら、私はここに来なかった」
物語の最終盤、図書館に立てこもるコールハウスの元に人質としてファーザーがやってくる。ワシントンの説得、仲間たちが無事に立ち去り。集まってくる警察が鳴らすドラムの音に。ひとりになったコールハウスが初めて自らの未来=死と向き合うシーンだ。
語気を荒げ反論したファーザーは彼のこの言葉を聞いた時、はじめて知ったに違いない。社会制度に守られているという白人の最上流にいる自分たちにとって当たり前のことが目の前の男には一切担保されていないということに。担保されないことすら否定したい自分がいることに。
ファーザーが人質としてくる前、コールハウスはワシントンに公正な裁判を求めたが。公正な裁判を受ける権利を改めて要請しなくてはならないほど人権が阻害されていること、まして裁判を受ける権利すら死によって剥奪されることなど、ファーザーは考えたこともなかったのだろう。
ファーザーとコールハウスが握手を交わし、そして自然と抱き合い。
ハンズアップして投降したコールハウスが射殺される。
モルガンライブラリーのシーンが始まってから、観客の誰もがこの物語の結末が「自分の予想通り」になることを理解していただろう。
だが、ファーザーにとっては。コールハウスが目の前で崩れ落ちるまでは信じることができない世界だったはずだ。
理由なく暴力を振るわれること、持ち物を破壊されること、自分が当たり前に享受しているものが目の前の男にはなかったということに。目の前で射殺されて初めて気が付いたはずだ。
持てる者は持たざる者が存在することを知らない。
そして、持たざる者がいることを知ったとてー
その持たざる者を理解することは表層的にしかできない。
近年、黒人の役を白人に、白人の役を黒人に演じさせるといった指定が入った演劇作品が海外には出てきている。日本版「ラグタイム」が用いた手法を使えば、理屈上、黒人と白人がスワップした舞台が可能になる。
白人が演じるコールハウスが出てきたならば。そこにリアリティはなくとも、観客の物語の受け取り方はひとつ深いところに到達するやもしれない。
一瞥しただけではわかりづらい多様性を持った出演者が非欧米圏で上演した日本版「ラグタイム」が、欧米圏の「RAGTIME」に何をフィードバックし、どう伝播するのかということを見守りたいと思っている。
この物語を観た人は、暗澹たる思いに襲われたのではないだろうか。
120年前の物語は連綿と今に続く物語であるからだ。
RAGTIMEがBroadwayで初演を迎えたのは1997年。
2004年ごろからバラク・オバマを大統領に推す声が上がりはじめ、彼が大統領に就任した2009年、Broadwayで初めて再演がなされた。
そして、その後Broadwayでの上演はされていない。
分断の時代だからこそ。
芸術はソフトパワーとして一石を投じ続けることを辞めてはならない。
日生劇場の2階に座した日。
クライマックスの「Wheels of a Dream」で登場人物たちが舞台奥の大ゼリからせり上がってきた時、胸がいっぱいになった。
セリから垂直に近い急角度で天井を照らした照明が。日生劇場のアコヤ貝の天井で乱反射し、会場が観たことのない光に包まれるのを見た。
物語のフィナーレと相まって、希望とはこういったところに突如として現れるものなのだと。心がかすかに暖かくなった。
RAGTIMEの時代は今なお続いているー
この物語が「かつて悲惨なこともあったのよ」と。
過去形で語られる日が一日も早く来ることを願って。