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ラフヘスト~残されたもの

 開始2分ー
 主人公がたどる道が類推できるにも関わらず目が離せない。
 そんな舞台に出会った。
 韓国ミュージカル「ラフヘスト」である。

“Les gens partent mais l’art reste ~人は去っても芸術は残り”
韓国を代表する天才芸術家と称された実在の二人の男性。
鬼才と言われた詩人イ・サン。韓国抽象美術の先駆者キム・ファンギ。
そして自身もエッセイストで評論家で西洋画家でもあったキム・ヒャンアンは、この稀代の天才二人を夫に持った稀有な人生の持ち主。
本作はそんな彼女=キム・ヒャンアンの人生を史実に基づいて描いたオリジナル・ミュージカルだ。
京城(現在のソウル)、東京、パリ、ニューヨークと1930年代を生きた女性としては稀なる経験で世界を渡り歩き、夫を支える古き女性像の中で生きながらも、自身の才能だけでなくパートナーたちの才能をも開花させた。パートナーたちへの愛によって芸術を完成させてたキム・ヒャンアン。
このミュージカルは彼女が愛した人生を辿る旅だ。

出典:公式ホームページ

 文学座の演出家で「ブレイキング・ザ・コード」を演出した稲葉賀恵さんの初ミュージカル作品とのことで観劇を決めた本作。
 ストレートプレイにおける引き算が存分に活かされた演出は物語を過度に生々しくさせず、伝えたいメッセージに観客の目を自然とフォーカスさせるようになっている。
 「美しい良作」である。

 ヒャンアン(ソニン)とファンギ(古屋敬多)
 トンリム(山口乃々華)とイ・サン(相葉裕樹)
 ふたつの夫婦がそれぞれの物語を紡ぎ出す。

 前知識がなくとも、また台詞で明確なものがなくとも、小道具と演技でヒャンアンとトンリムが同一人物であることはすぐにわかる。
 異なる時代に存在するヒャンアンとトンリムが作中において台詞を持って交錯するのは各々が夫となる人に思いを告げる直前のみ。文字にすると陳腐に思えるこの描写が大きな抑揚のない作品の中でコアとなっている。

 舞台中央に横並びに置かれた傾斜のついたふたつの台は中央で交差し上下が入れ替わる盆になっている。交差する台はふたつの時代を自然に行き来させるアイテムにもなっている。
 舞台の上には必要なものが全てあり、不要なものは何もなかった。

 ふたつの愛がひとりの女性の内面を豊かに描き出す作品だ。
 人間は成熟の過程において経験したことを教訓とし、怯えを抱き生を紡ぐ生き物である。
 怯えは足枷となり心のままに在ることを自分自身に赦さない。

 サンとの愛と別れを経験したヒャンアンとサンとの愛の中に生きるトンリム。ひとりの女性のふたりの芸術家の夫との対峙は同質であるにも関わらず、同じ言葉を口にしても異なるものに聞こえる。
 相手の性質が異なることは勿論、彼女の人生が言葉に滲みだすところに人間としての魅力を感じずにはいられない。

 人生には特別なものがあるわけではない。この物語の登場人物もそうである。芸術に対する苦悩は特殊と感じるかもしれないが、人が生きる中にある苦悩と何ら変わりのないものである。
 この作品の中では、平々凡々とした日々の中にあるものが丁寧に描かれているだけだ。物語として特別な起伏があるわけではない。
 観劇前に「時系列が複雑で混乱した」という感想を見かけたが、時間の変遷には明確なルールがあり、きちんとした整理が為されていたため、私自身は問題なく観劇ができた。
 ヒャンアンの回想かトンリムの物語となり、タンリムの物語の続きをヒャンアンがまた紡ぐ。時系列に沿って展開されるトンリムの物語と、ヒャンアンの逆行する時間のコントロールが実にうまい。舞台でフラッシュフォワードの手法を採用し成功させるのはなかなか難しいのだが、違和感なく成立していた。
 また、物語を文字にしたときに特別な起伏がない=特別なものはないからこそ、時系列による情報コントロールで物語に鮮度が生まれるということも書き添えたい。

 そんな淡々とした物語を彩るのは、詩人のサンの心を美しい言葉で紡ぐトンリムの、そしてファンギの削ぎ落とされた抽象画の中にユニバースを見出すヒャンアンのー豊かな感性である。

 舞台上空にはパッチムと額縁を想起させるモチーフ、舞台は無彩色、衣装のーヒャンアンとトンリムの衣装の色彩、トリコロール…舞台上にストーリーを示唆するものは数多ある。
 ただ、舞台のセリフで抽象的なものはサンの詩だけ、ヒャンアンは豊かな感性を平凡な言葉の組合せで魅力的な文章紡ぎ出す。

 女性主人公のミュージカルは成長や苦難を乗り越えるといったドラマチックさがこと求められがちだが、彼女の本質、それは柳のようなしなやかな強さが終始一貫描かれている。
 「ただひと」の生き様を見せつけられるタイプのミュージカルではなく、在り方が描かれているところが秀逸なのである。
 演奏に用いられるのはグランドピアノとバイオリンのみ。ふたつの楽器の音色が持つ雄弁さを信じた音楽構成も心地よい。
 落合崇史さんはピアノが主体となるミュージカルの常連だが、出演者や作品にばっちりと合わせてくるコントロールが流石で、森麻祐子さんのバイオリンは意思の強さがヒャンアン/トンリムの姿に重なる。

 韓国作品で過剰に感じることのある大仰さやドラマチックさはクライマックスまで封印され、メロディアスな旋律も物語の邪魔をすることはない。結末は予想通りであったがその魅せ方に感嘆させられた。
 紗幕のカーテン越しに見える過去と現在にドキリとさせられ、また、小道具の扱いなど洗練された引き算の演出に演出家からの信頼が何よりも嬉しかった。

 また、休憩なし2時間という上演時間はこの物語を表現するのにちょうどいい時間だった。休憩をはさんでしまっては、観客の集中力も、また感情の起伏も途切れてしまっただろう。実によく考えられている作品だ。

 芸達者な4人のミュージカルはセリフでも歌でも、声から伝わってくる感情が数多あった。それ故に舞台に立つ他の登場人物の感情が気になり、つい目移りしてしまった。
 心のままに視線が動いたことで、4人それぞれの感情が解像度の高く自分の中に流れ込んできたと思う。

 26歳~88歳までを演じるヒャンアンのソニンさんは彼女の印象的な張り上げる歌唱をすることなく物語を紡ぐ。
 ファンギの古屋敬多さんの芸術家としてのピュアさと繊細さ、まっすぐで控えめな性格は人が愛さずにはいられない魅力を放つ。
 トンリムの山口乃々華さんは頑なな文学少女が恋で変わっていき、人間性を開花させていく姿が鮮やか。
 サンの相葉裕樹さんは目の前にある己しか見えていないところがファンギとの差異となっており、ファルセットに見える真実の彼の姿、その純真が眩かった。

 サンの詩は知っていたが、観劇後にファンギの絵を調べ。彼がニューヨークで寝食を忘れキャンバスに向かった理由の一端を見た思いだ。
 複数回リピートするタイプの作品ではないが、彼の絵を知って物語を観たならば何を感じるのだろう。
 再演があればまた出向きたい。

 なお、配信/DVD化もあるとのこと。
 ブラッシュアップの余地はあるものの、韓国ミュージカルの大仰感が苦手な方でもお勧めできる作品だと感じている。ご興味のある方は是非。


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