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観劇記 - October 2022

 私の仕事はとにもかくにも案件次第で、繁忙期というものが存在しない。
 にも拘らず、毎年10月は多忙になりがちだ。
 とはいえ、観たい演目は目白押し。
 日記に詳細な感想をしたためる時間がなかった為、デジタルデバイスに残した観劇記に少し手を入れたものを試験的に公開してみる。

Disclaimer
作品により、長短はまちまち。
また、良かった点も悪かった点もその理由を含め言及しています。
ネガティブな印象しか抱けなかった作品についてもその理由を含めて正直に記載している点、これまでに書いてきた感想とは少々趣が異なります。
客観性が失われないよう、感情的なものや感覚的なものは極力排除し、何が引っかかったのかについても注意して言及したつもりです。
以上、ご理解いただけた方のみお進みください。

血の婚礼

(シアターコクーン / ホリプロ)
 嘗て、白黒映画で観た印象もあってか、眼前で繰り広げられる物語に「色がある」ということに不思議な感覚を憶えた本作。
 シェイクスピアほどではないが、ともすれば難解なセリフ回しに惑わされている人が多かったが、ストーリー自体はとてもシンプル。異国の古い価値観ではあるが、「まぁ、そういう時代があったよね」と違和感なく受け入れられるのはどの国においても類似する価値観が過去に存在したからである。古い価値観を古のものとしてすんなりと受け入れるのか、前提条件に対して疑問を抱くかによって作品に対する評価が大きく変わる作品だ。

 個々の演技に魅力はあったが、情熱に突っ走る若手たちに台詞がもっと骨身にしみていたならば、観客は咀嚼する必要なく台詞を受け入れられただろうという点は残念である。
 レオナルドと花婿は「負」の芝居に力が入っていたのだが、それぞれの人物が生来持つ魅力についてもっと表現が欲しかった。彼ら自身が持つ人間的魅力が打ち出さしていたならば、更に物語が多面的になったように思う。
 一方で役者以上に雄弁だったのが舞台セットと衣装、照明だった。振り返ってみると、役者ですら解釈に困る若しくは咀嚼しきれない部分を補助していたのがこれらの舞台構成要素であったのではと感じる。
 抑圧の1幕、幕が下りてからのセット転換(観客は観ることができる)でストーリーを予見させるというのが個人的なヒットポイントだった。
 また、楽曲(効果音)が3人の演奏によって奏でられており、そのシンプルな音の構成と少人数だからこそストレートに響く荒々しい演奏が人間の生々しさを感じさせた。


The Glass Menagerie(ガラスの動物園)

(新国立劇場 / フランス国立オデオン劇場)
 昨年末、シアタークリエで上演された「ガラスの動物園」の来日公演。
 元々は来日公演があっての日本公演だったのが、コロナ禍で前後してしまったものである。イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出、イザベル・ユペールと言われたら行かざるを得ないと思いつつ、予定がなかなかつかず、ぎりぎりで飛び込む。
 最初に感じたものはホーヴェが用意した四角の小さな世界が作品の舞台美術としてあまりに「心地良かった」ということだ。観劇した方であればわかって下さると思うが、正確には「心地の悪さ」であるのだが、舞台となるウィングフィールド家そのものが居心地の悪い場所であるということが分かるセットなのだ。セットが現実世界のものであったクリエ版に対し、ともすれば心象風景のように構築されたセットはおよそ生活感とは無縁である。
 心理的に表現したいものを抽象化することで表現しており。この家族の歪みをビジュアルだけで訴えかけてくる。
 ガラスの動物園と言えば、ウィングフィールド家が暮らす家と外の対比、そして外界と唯一の繋がりとなる階段で、私が知る演出は全てその階段が象徴的に使われていたことを思うと、物理的に階段がないというのは画期的なことだったかもしれない。

 クリエ版は傍観者的な見方に終始してしまったのだが、ここではトムという破滅的な人間に対して時に感情移入したり、その暴走を止めたいとともに苦悩したりー観客はトムの伴走者となった。
 ローラについても障害を持った庇護されるだけの女性という表現ではなく、生きている世界は狭くとも自分を持っている女性となり、母親のアマンダはあまりに普遍的な普通の母親であった。
 戯曲があまりに現実から乖離していると観客は必然的に傍観者的立場をとることになるが、そこに普遍的な何か=とっかかりがあると、観客は簡単に物語の世界に引きずり込まれることとなる。私はアマンダを通じてトムのリアリティに触れた思いでいる。

 そして、今回の演出の面白さは、誰一人として同じ感想を抱いた友が周囲にいないというところにも現れている。私がトムに覚えた感覚を友人はローラに感じたと言い、結婚しこの物語同様に兄妹を育てている友人はあまりにアマンダへ感情移入をしてしまったがために辛かったと言った。観客自身の出自やバックグラウンドで身を置く場所が大きく異なってくる。
 非英語言語での字幕上映であり、日本語と同等レベルで咀嚼できているとは言い難いが、この観想の違いは演出や物語の大胆な潤色について考える大きなヒントになりそうだ。
 なお、観劇時に感じていた小さな違和感があったのだが、それはパンフレットを読んだことでひとつの解に至った。戯曲が書かれたときにはカミングアウトが難しかったであろう同性愛者の視点にあるように今は感じている。


グレート・ギャツビー

(東京宝塚劇場 / 宝塚歌劇月組)
 宝塚が再演を続ける作品のひとつだが、初演「華麗なるギャツビー」のクオリティが高く、再演ハードルが高い作品のひとつだ。現在の「グレート・ギャツビー」は瀬奈じゅん版で完成されたわけだが、100分に心地よく収まった作品を知るだけに、間延びを感じた。
 今回、観劇に至ったのは瀬奈版と井上芳雄(梅芸)版のハイブリッドと聞き及んだからだった。様々な「物足りなさ」を相互補完するなら、また瀬奈版=日生劇場という物理的制約がなく、舞台機構をフルに活かせる宝塚の劇場ならば異なるギャツビーを見られるのではという期待からだった。
 残念ながら、冗長な点は変わらず、どちらかと言えば悪いところどりになったとの印象が残った。
 日生より舞台装置は豪華、出演者も増えたが、ある種のシャビ―さがある。劇場のポテンシャルを活かしきれておらず、演目と箱の相性は日生に軍配が上がった。
 また、瀬奈版からの再演までの間に上演された梅芸版に良質な楽曲が提供されたことは宝塚版における最大の悲劇だ。
 梅芸版リチャード・オベラッカーの作曲はRoaring Twentiesーすなわち「狂騒の20年代」と評される1920年代アメリカ社会の勢い(光)や、社会の闇に身を置きながらデイジーという幻想に精神的に依存するギャツビーの心境をよく表している。日本語の歌詞を載せたときに、字余りとなる部分やオペラっぽさは少々気になるが、全体の構成がいい。
 翻って宝塚版。「朝日が昇る前に」が名曲であることは疑いようもないが、それ以外、特にデュエット曲の存在意義が薄く、歌である必要性が薄くなってしまっていた。寧ろ作りこんだ芝居にした方が冒頭に言及した冗長さは排除できたのではないだろうか。
 また、直近では雪組「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」がRoaring Twentiesの作品となるが、同作にあったような時代の勢いというものがギャツビーの楽曲にも欲しかった。楽曲のポテンシャルを抜きにしても、編曲によって如何様にもなったはずだ。
 また、近年、ビジュアル刷新に取り組んでいる宝塚。価値観をアップデートという姿勢自体は歓迎も「ギャツビーの世界観そのもの」から解離したポスターに、観劇前に聊かの不安があった。
 勿論、ビジュアルに違和感が有れど、観劇したら杞憂というケースもあるので、フラットな気持ちで劇場に足を踏み入れたが、ポスターから受けた違和感や不安は現実のものとなった。

 要因はいくつかありそうだが、特に衣装については言及せざるを得ない。
 演出:小池修一郎、衣装:有村淳はゴールデンコンビだと長らく思ってきたのだが、最近このタッグになった時に衣装解釈が異なると感じることが増えてきた。ただ、解釈が異なろうとも、実際の舞台で演者のキャラクターやその体格にあっているなら何ら問題ない。だが、今回はその部分もフィットしていなかった。
 最も頭を抱えたのはデイジーを初めて邸宅に招いたときのギャツビーのピンク色のスーツだった。
 映画版へのオマージュであることは想像に難くない。柔らかな自然光の中、眩い木々の緑と白亜の宮殿を背にロバート・レッドフォード演じるギャツビーがローズピンクのスーツで現れたときの美しさはそれは素晴らしいものだった。だが、その色彩が成り立つのは自然光と男性であるレッドフォードの骨格あってこそ。
 本作では闇に生きるギャツビーを寒色で、彼の内面に係るシーンを暖色に統一している。彼自身の描写にかかる、なによりデイジーとの甘やかなシーンで宝塚らしい華やかな色彩の衣装を入れたかったのだろう。
 月城さんはすっきりと美しい男役だが、決して男役として体格に恵まれた人ではない。特にスーツはシンプルであるが故に補正が難しい。女性が男性を演じる特殊環境において、衣装は彼女をよりギャツビーたらしめるものであるべきであり、足を引っ張るものであってはいけないのだ。
 衣装の色被りやバリエーション、華やかさの問題はあろうが、例えばライトグレーにピンクのシャツといったレベルにおさめていれば、いや、せめて映画同様落ち着いたトーンのピンクであったなら、彼女の魅力はより伝わったはずなのだ。白にピンクが覗くデイジーの衣装ともバランスは取れる。
 役者本人に似合うかではない。月城ギャツビーに似合うか否かが重要なのだ。宝塚の強烈なスポットライトと月城さんの体格では成立しえない衣装だった。
 個々の演技に言及する前にこれだけのコメントをせざるを得ないくらいには残念な要素が多過ぎたのだ。

 観劇前、月城さんに対してはギャツビーの影のイメージがなく、また、前述の通りポスターにもそういった要素がなく。どうなるかと思っていたが、爽やかな好青年が前面に出た、観たことのないタイプのギャツビーだった。ダークな世界に身を置きながらも清涼感が常にあり。彼の葬式に来る人物がほとんどいなかったというラストに通じるある種の純粋さ、また出自とは異なる人間性という意味での育ちの良さーそれは父親が彼に施した教育によるものが見え。デイジーが惹かれる要素を大いに感じさせる。
 背中はなく、観客に正対し語るスタイルのギャツビーは役作りは前述の新しいギャツビー像として魅力だが、背中でどっしりと見せる芝居というのが似合う演目だけに、そういった姿も観たかった。
 また、大きな劇場での公演なので、要所要所でもう少し強い押し出しがあるとシーンが更に締まるように思う。
 デイジーはどこか一貫性がない女性と思われがちだが、海乃さんはギャツビーとの離別以降の芝居を上手くコントロールしており「綺麗なおばかさん」ではいられなかった哀しい女性像を作ってきた。
 その彼女をもってしても、ラストシーン、ギャツビーの葬儀における一連の振舞についてはどうにも理解し難く、該当シーンの演技のベースになった心情を推し量ることはでできなかった。
 圧倒的な存在感を発揮したのはブキャナン(鳳月さん)とギャツビーの父(英真さん)。
 ブキャナンは心底「ろくでもない輩」という言葉がぴったり当てはまる人間だが、観客が嫌悪感や憎悪を感じないぎりぎりの線を攻めて演じてきた。
 久々舞台復帰の英真さんは舞台に立つと一気に場面が引き締まる。ギャツビーの父親はワンシーンながらそこにいないギャツビーの育ちをしっかりと感じさせる。運転手の佇まいもさりげなくいい。
 この日、最も盛り上がったのはジョージ・ウィルソン(光月さん)のマートルの死に対し復讐を口にする歌唱だった。2階まで伝播する感情があまりに見事で、あの一か所しか歌唱がないのはしみじみ勿体ない。

 そして、今回感じたのは日本人のスタイルの変化でもあった。
 元来、スーツは肩幅と胸筋で着るものだが、舞台、とりわけ宝塚という視点が入るとその2要素に背中という要素が加わる。残念ながら鳳月さん以外でスーツを着こなせている方が見当たらず。
 高身長でスタイルがいい細身の演者が増える中、男役としてスーツを着こなすのは昔よりも高いスキルが要求されるようになってきている(ただ、あまりにスーツの生地が粗悪であった可能性も否定できないことは書き添えておく)。
 それは娘役についても同様。スタイルが良くなってきたがためにフラッパードレスが似合わないという何とも悩ましい状況が生まれている。だが、娘役のそれについては端折る高さを少し調整するだけで大部分は解決される問題でもあるので衣装部にもうひと頑張りをお願いしたい。
 再演にかけるのであれば、大胆な演出のブラッシュアップが欲しかったし、男役の極致ともいえる役なだけに円熟期の月城さんで観たかった。


平成中村座 十月大歌舞伎

(平成中村座 / 松竹)

第一部「双蝶々曲輪日記」「幡随長兵衛 - 公平法問諍」

 天日坊が当日中止となってしまい、中村屋は今年初劇場観劇。
 平成中村座は、歌舞伎座などで回避しがちな演目であったとしても、空間を楽しみに行くという目的で足が向かってしまう摩訶不思議な空間である。ライトな演目も多いので、実は初心者にも悪くないと思うのだが、王道演目とは言い難かったりもするのでひとり観劇となりがちだ。

 全編通してのハイライトは第一部「幡随長兵衛」だった。
 長兵衛の中村獅童は初役だが、セリフ回しの小気味よさ、さもない動作が生み出す緊迫感が心地よく。重量感のある役どころは是非彼で観たいと思わせてくれる。
 この作品で最も好きなのは妻が用意した紋付袴を長兵衛が身にまとうシーン。妻お時の七之助の「さもない」仕草を「さもある」かのように昇華させる美しさに言葉を失う。紋付袴に残った仕付けを外すという動作ひとつで伝わる切なさは改めて歌舞伎の表現の美しさを感じさせるシーンだった。
 思えば獅童と七之助の夫婦は盟三五大切で観たきり。
 長兵衛夫婦とは正反対の夫婦だが、夫婦の関係性をさもなく現出してくれるところが魅力的だし、改めてこのふたりの組み合わせの良さを実感した。

第二部「綾の鼓」「唐茄子屋~不思議国之若旦那」

 「綾の鼓」は能として見たものが鮮烈かつ、感ずるものが多い演目だったのだが、秋篠の心の変化と三郎次の姿があまりに美しく、歌舞伎版「綾の鼓」の評価が自分の中で変わりつつある。
 能ではもてあそばれるのが老人であるのに対し、歌舞伎版は青年であるのだが、彼らをもてあそぶ者に対しそれぞれに憎々しさを覚える。
 生命にかかわる底意地の悪さを見せられてしまう演目が苦手な自分ではあるものの、間違いなく「唐茄子屋」とのバランスで選ばれた作品であると無意識に理解していたからか、辛さの先には心の安寧があるー
 観劇前はそう思っていた。

 その「唐茄子屋」。作・演出:宮藤官九郎。
 またの名を「クドカンのやりたい放題」。
 落語「唐茄子屋政談」と不思議の国のアリスをかけ合わせた点、悪くない。いや、実に面白い。きちんと歌舞伎になっていたし、ストーリー展開もいい、中村座だからこそできる演目でもある。
 私は第一部と第二部を異なる日に観劇したが、続けて観劇していたのであるならば、第一部で冷徹な旗本をどっしり演じていた勘九郎が人間的には魅力的だがどうしようもないボンボンの若旦那を演じるなんていうのもバランスがいいし、七之助の花魁は待ってました(仁左衛門丈との助六再演待っています)と声をかけたい美しさがあるし、誰も彼を嫌うことができないだろうという獅童の熊もたまらない。

 ただ、何をどうしたって宮藤官九郎の時代錯誤感には全く笑えなかった。
 例えば下ネタの好き嫌い、許容範囲は個々人で異なるであろう。
 私は下ネタは好きではないが、作品に必要なことが明白な下ネタに対し眉を顰めることはない。だが「客はなんだかんだで下ネタ好きだろ?とりあえず言っておけば面白いだろ?」という思想がベースとなっているものはどうしても許容できないのだ。
 「唐茄子屋」は将に、この後者であった。
 それが下ネタにとどまらない。ジェンダーに関しても同様。結果、人を傷つけない風刺や揶揄、パロディ、純粋に面白い箇所さえも、このマインドから生まれた笑いだと無意識に意識するが故、全く笑えないのだ。
 黒人を表現するのに黒人の容姿を揶揄するかのような黒塗りは如何なものかと言われる現代に、ここまで堂々と差別表現を用いた新作が登場することにも驚きを憶えるし、仮に脚本家がこの本を出してきたならば出演者が流石にここは変えようかと言うべきなのだ。その意味で、中村屋に対しても少なからず落胆している。折しも海老蔵の新作歌舞伎でも差別的表現が問題になったばかり。もう少し神経を細やかに対応してもいいのではないだろうか。
 観客に媚び諂う必要はない。ストーリーに必要不可欠ならばジェンダーを取り上げることだって問題ない。でも、それが差別的なもので終わってしまうのはどうなのだろう。本筋とは関係ないところで、差別を示唆して観客に何かを考えさせるわけでもなく、笑いのネタにして去っていくだけなのだ。
 本筋だけで十二分に面白いものに添加された軽率な侮蔑的表現を笑えと言われても私は笑えないし、理解もできない。
 どうしてもというのであれば、それは大人計画で上演されたし。
 10月公演を観てから11月の第二部のチケットを取ろうと思っていたが、残念ながら11月の第二部は回避である。


ジャージー・ボーイズ

(日生劇場 / 東宝)

Team Green(花村想太、尾上右近、有澤樟太郎、spi)

 新しいフランキー・ヴァリ誕生と聞き観劇。
 2021年末のFNS歌謡祭での花村さんと中川晃教さんの歌唱に大いに期待が高まっていたが、直前のMusic Fairの歌唱を拝見し一抹の不安があった。歌は十分歌えている。ただ、フランキーには見えなかったのだ。それは、他の3人についても同様であった。
 だが、それらは全くの杞憂であった。花村さんは素直でかわいらしさのある16歳の青年がスターダムへと駆け上がっていく姿を魅力的に演じていた。イタリア系というフランキーの出自についてはまだ薄いかなとの印象はあるが、特にトミーとの距離の取り方、そして彼の負債を肩代わりすると決断をするに至るまでの彼の揺れ動く様を繊細に演じている。
 フランキーという役はつくづく難役だ。キーを出せるだけではダメ、芝居も必要という点で、この役を演じられる役者は早々いないのだ。花村フランキーの誕生は今後のジャージー・ボーイズのみならず、他のミュージカル作品にとっても大きい。この難役にトライして下さったことに感謝だ。
 そんな花村さんをもってしても、2曲、3箇所ほど歌うのが大変であろうということが分かるシーンがあり。フランキーを初演以来演じてきている中川さんの「怪物っぷり」にも思いを致すことになった。
 ガラの悪いトミーは右近。役と自分の距離を互いに詰めていくタイプで、右近トミーにはある種の育ちの良さを感じさせるものがある。
 しょうもない奴なのだが、フランキーが最終的に手を差し伸べたくなってしまうことが分かるトミーというのが悪くない。2020年のコンサートよりもトミーという人間の弱さ、その弱さを必死に隠そうと虚勢を張る姿が印象に残る。演劇を通じて人の弱さに触れ、その人を知るということが好きな私にとって、右近トミーは酷く刺さるのだ。
 今回、その魅力にあてられたのは有澤ボブだ。
 すっきりとした見た目だけではなく、歌声、しかも芝居心をしっかりと歌にのせてくる。December ’63でボブは「初体験」をするのだが、演技や声の強弱だけではなく艶でしっかり表現してくるところには思わずガッツポーズをしたくなった。また、ボブを前面に出すべきではないと判断した時に存在感を調整できるところも魅力だ。
 ジャージー・ボーイズは4人のバランスがものを言うが、意外とこのチームの調整役はspiニックなのかもしれない。ニックの俯瞰力と低音でメロディを支えるspiさんというバランスがいい。そして、グループを去る理由に至るまでクリアなのだ。
 ジャージー・ボーイズはアンサンブルのひとりひとりについてまで語りたくなるほどとにかく「魅力」がある。実在の歌手をテーマにしたミュージカルは歌唱力で不安を覚える方がカンパニーに誰もいないだけでなく、それぞれが歌で魅力ある世界を広げられるので大好きだ。
 最後に、日生劇場で上演する意味はあるかというところでいうと、ベストではないがベターという表現を取りたい。日生劇場のシンプルな舞台機構に3階建てのセットを作り、ジャケットや照明の扱いで舞台の縦空間もしっかり演出しきった点は良かったものの、音響についてはセットが甘い(正確にはおけぴの位置的に調整がしづらいということなのだろう)。歌が命のミュージカルなので、この点はもう少し改善されたならば嬉しい。

Team Shuffle Day
(中川Green:中川晃教、尾上右近、有澤樟太郎、spi)

 フレッシュな花村フランキーが想像を上回る魅力を振りまいた中で、中川フランキーがグリーンチームの中でどれだけ「自由」に生きることができるのだろうかとの心配は杞憂でしかなった。
 右近が役と自分の中間を生きていると前述したが、フランキーを自分に引き寄せながら演じる晃教さんを組み合わせたら魅力的にならないはずがなかった。最初のうちはチームごとの間の違いを感じさせるシーンがあったが、音楽が入るごとにその隙間が埋められていく感覚が、将に「ジャージー・ボーイズ」であった。
 そして、この組み合わせの妙はトミーとニックがフランキーを導き、成長したフランキーがグループを更なる高みへと引き連れていくという物語が芝居としてぴたりとあてはまるところにあった。
 フランキーとして呼吸することに慣れている晃教さんがいい意味で気ままに演じてみせることで、特に有澤ボブとspiニックのキャラクターが一層活きてくる。
 また、晃教フランキーと有澤ボブの組み合わせになると、実年齢の差によってフォーシーズンズ(フランキーはボブより8歳年上)らしさが一気に出る。花村・有澤コンビはふたりとも似たような若さを感じさせるものがあるが、いい意味で加入時のボブの幼さや生意気さが引き立つ。
 1回きりだからこその面白があることは百も承知の上で。だが、アンコール希望である。そして、花村Blackも観てみたかった。

 Team Blackは横須賀で観劇予定だ。


アルキメデスの大戦

(シアタークリエ / 東宝)
 原作の漫画があるというのに舞台原案は映画というところに疑問符を抱きつつ劇場へ。
 起承転結のうち「承」と「転」が繰り返される感覚に違和感を覚えるとの感想を観かけていたのだが、
 ① 戦争もの=結末は観客にとって既知
 ② 1幕、2幕の各冒頭でラストシーンみせる構成
を考えれば小さな裏切り=「承」「転」がいくつかなければ芝居としてもたないという点は想像がつく。脚本の観点で大きく気になるところはなかったし、よくまとまっていたのは映画原案の良さであるかもしれない。
 一方、原作の漫画ではなく映画を下敷きに舞台化したからか、映像の作りを意識したシーンが散見された。そのこと自体はいいのだが、映像を意識しすぎたがために、場面の転換シーン=暗転手法が単調になってしまったのではなかろうかと推察している。
 また、殆どのシーンでカットアウトでの暗転となり、そこに決められた旋律が流れる。場面変更を観客に刷り込むことには成功しているが、それがあまりに毎回だと「またか」という印象に代わってしまう。また、刷り込みをするのであれば、どこかで「裏切り」が欲しい。
 シーンとシーンが大きく変わることが多いので、転換が難しいのは理解するが、見せる転換や古典的ではあるがスローモーションで役者の影を動かしつつ、ストップモーション併用するなどすればメリハリが効いて気持ちが途切れずに観劇できたのではないだろうか。
 毎回、岡田浩暉さんのカメレオンぶりには驚かされるが今回も見事。また、所謂2.5次元出身者が主演する舞台を観る機会は多くはないのだが、それぞれに自らの役をしっかり演じていた点、好感。
 戦争もので、難しい台詞が相応にあったということを加味しても、舞台の足を引っ張っていたのは残念ながら映像組のベテラン勢だった。台詞を噛んでしまう点は一定の許容ができるが(それにしても多すぎるとの印象だ)滑舌の悪さは少々厳しい。
 また、ベテラン勢に関しては、役者同士でセリフを言い合う時間が少々長過ぎたようにも思う。舞台であること、軍人という「人種」の性質を考えれば、体を互いに正面に置き、会話をするということは表現としては正しい。
 だが、客席に正対しないまでも、互いにほんの少し客席側に体を開いて台詞を発した方が通じるものがあったのではないだろうか。そう感じさせてしまうということ自体が劇場の空気をコントロールしたり、揺るがすほどのパワーをベテラン勢が発揮できていなかったことの証左のように思う。


エリザベート

(帝国劇場 / 東宝 / 花總まり、古川雄大、田代万里生、甲斐翔真、涼風真世、黒羽麻璃央) 
 思うところ有り。いずれ別記事としてしたためる予定。
 ファーストインプレッションは、アンサンブル含む(除くトートダンサー)新規加入キャストの経験不足を続投キャストがそれぞれのベストを尽くして全力カバーした結果、これまでのエリザベートとは大きく異なる造作になったということ。
 要因はいくつかあるが、黒羽さんのルキーニに因るところが大きいか。
 ミュージカル「エリザベート」の魅力のひとつはエリザベートとトート、そしてルキーニのトライアングル構造にあり、ルキーニには空間掌握力が求められていると感じている。
 黒羽さんの歌唱は十分に問題ないレベルにある(かつ、更なる成長も期待できる)。だが、ルキーニは「狂言回し」なのだ。彼が文字通り「通し狂言"エリザベート"」を「回すこと」を前提としたミュージカルであるだけに、現時点で司会者に甘んじている黒羽さんをルキーニ役として現段階で評価することはできない。
 また、物語の支柱との観点でルキーニの名を挙げたが、エルマーら革命家、ヴィンテッシュ嬢ら精神病患者の演技等に咀嚼しきれないものを抱いていることも付記しておく。
 ただ、今年のエリザベートの特異かつ奇異なところはそういった脆弱さが多々あるにもかかわらず、一定以上の満足度はあるという点だ。
 花總さんが1から練り直したと思われるエリザベートの造形が最初から最後まで圧倒的な説得力を持ってシシィとして存在したこと、そして歌が格段に上達しただけではなく演者としての個性を古川さんが前面に押し出したトートを演じはじめたことで2本柱がゆるぎないものになった(なお、古川さんのトートは2019年からは想像できないほどの進化を遂げている)。
 その2名に絶対安定の田代さんがさらに演技を深堀したフランツを、歳の重ね方と歌への感情の乗せ方が一段と豊かになった涼風さんなど、続投キャストのパフォーマンス向上で「物語」を楽しむのではなく「個々のキャラクター」に感情移入する作品になったとの印象。何よりも、作品と音楽の骨格の強靭さを感じる。
 演出面にも消化不良は多々あるが、最も気になっているのはルドルフが登場する2幕20分間、すなわち彼の死への過程をしっかり描くために、その他のシーンで一呼吸欲しいところの余韻が悉く潰されていた点だ。仮にその余韻を全て拾ったとしても上演時間が2分も3分も伸びるわけではない(雪崩をうって長くなるという劇場サイドの気持ちは理解する)。ある程度のテンポアップは致し方ないが、意図的な間の悪さがどうにも気持ち悪い。
 なお、今回は比較的前方のセンター席であったため、演出等について気づきも多かったが、前方席フィルターの影響を排除すべく、後方席での観劇後にまとめたい。


凍える

(パルコ劇場)
 演出・栗山民也と聞くと、どうしても素通りできない病にかかっている。
 また、年初観劇のMurder for Twoで目の当たりにした坂本昌行さんの芸達者ぶりに、彼の純然たるストレートプレイを観たくなったというのもある。
 現代、我々が無視で着なくなってきたもののひとつ、「病的疾患による連続殺人」がテーマだ。
 3人の登場人物がよく計算されたシンプルなセットの上で短いシーンに見出しを付けて次々と展開していく。娘を殺されたナンシー(長野)、精神科医アニータ(鈴木)は殺人者ラルフと早々に接点が見えるが、ナンシーとアニータがなかなか邂逅せず。そこに何かあるのかと思いめぐらせることになるのだが、そこに中だるみがある。
 わかりやすい精神疾患を抱えているのはラルフだが、それぞれの人物が抱える闇は実は深い。その中で、アニータのそれが傍から見たときに、最終的には大したものとして映らないというのがどうにも咀嚼しきれずにいる。同じ問題を抱えていたとしても、人によってその受け止め方は大きく異なるということの示唆なのか、それ以上の何かがあるのかー
 病的疾患者の責任能力、そもそもの死刑制度の正当性、私刑は許されるのかといった、社会が直面している大きなテーマに対峙できる点、大変好みの作品である。
 一方で、登場人物が三者三様に「歪んでおり」最も一貫性のある人物が疾患を抱えるラルフとなっている。作中で提示される様々な問と対峙するには多様なレイヤーを重ね合わせ、多角的に物語を俯瞰することが求められるが、キャラクターの「歪み」が俯瞰することを容易には許さない。
 さらに、終幕に至り最も複雑な「歪み」を抱える人物は実はナンシーであることに気が付かされる。それも振り返るとナンシーの「歪み」に娘の死は直接関係はしていない=初めから歪んでいるということにも。
 この「ねじれ」た「歪み」が観劇後の晴れない霧となって未だ脳内に残っている。
 心理劇の様相を呈するのだろうかと思うシーンもあったのだが、最終的にそういった要素は見あたらず。その結果「凍える(現題:Frozen)」にある底冷えのする何か、「Frozen」が指し示すものを頭でなんとなく理解するにとどまっている。感覚的なものが伴わないのだ。その点、もう少しクリアになってくると作品の評価が一気に変わりそうな予感がする。
 小さな動作や心の動きの積み重ねで印象がどんどん変わる作品だと思うので、キャストを変えても観てみたい。


レオポルトシュタット

(新国立劇場 / 開場25周年記念公演)
 ユダヤ人目線の物語は実はそう多くなく、またロンドンでの好評も聞こえていただけにブロードウェイと時を同じくして上演が決まったのは嬉しいことだった。そして、観劇した人それぞれが「人生において触れてきたユダヤ」によって、感じ方が全く異なるタイプの演目であった。
 プロセニアム形式④採用とのことで、全体を観ようと2階センター席を選択。舞台奥までの大空間を贅沢に使ったシンプルながらも必要なものがすべてそろった美しい舞台を視界に全て納めることができた。
 贅沢な舞台空間と、シンプルながらしつらえのいいセット、盆回しだけで流れるように物語が進んでいく心地よさは格別だ。
 目の前の美しい景色とセリフを耳にしつつ、頭の中ではウィーンの地図を広げ。オーストリア=ハプスブルクの崩壊、ナチス台頭に至るまでの経緯、アンネ・フランクやトラップ大佐の物語、アウシュビッツ、ユダヤの宗教や信仰(スンネットの儀式の話題が出てきたところで一気に引きずられたという感覚がある)や、世界各所で繰り広げた彼らのビジネス、自分の仕事(私の従事する仕事は将に「ユダヤ人が大きくしたビジネス」である)からヴェニスの商人のシャイロックにまで思いを馳せー
 目の前で繰り広げられる物語がユダヤ人の物語という先入観が、ことあるごとに観劇する私自身が持つノイズをスクラッチしていく。
 ユダヤ人が直面する悲劇が頭にあるがゆえに、些細で細かな出来事もいちいちそこにつなげて考えてしまったのだ。純粋な「家族の物語」としてまずは舞台に没入することが必要だった。
 日常が崩壊していく過程を、淡々とした表現から「素直に受け取る」という観劇の基本に立ち返ってもう一度観劇したかった。
 日常が緩やかに変化していく様が描かれ、最終5幕は戦後のウィーンが描かれているがトム・ストッパード自身を反映させた青年が登場したところの切なさが印象として強く残り、家系図に名前だけ残る一族の死を淡々と振り返るシーン、そして幸せだった時代へと回帰していくシーンには人間が感じるであろう多くの感情があまりに多く含まれている。

 1幕から5幕が一気に展開される芝居構成は休憩なしの2時間20分。ロンドン初演2時間が今年のブロードウェイで2時間10分、日本ではさらに伸びた。翻訳の関係はあるだろうが、もう少し削ることはできたかなとの印象。
 舞台のセットから基本的に役者にひとり1役しか演じさせないという点、国立の劇場ならではの舞台づくりー贅沢な時間だった。
 来年1月にはNational Theatre Liveで上映があるので、言葉の質量の差異や演出の違いを観てみたい。


Look at Me

(東京国際フォーラムホールC / 望海風斗デビュー20周年コンサート)
 ミュージカル俳優のコンサートに期待するものはと問われたら私は以下の3点を挙げる。
  ① 過去出演作のリプライズ(コンサートアレンジ版)
  ② ミュージカル以外の曲の場合、ミュージカル俳優だからこそ広げられる歌の世界を感じたい
  ③ 出演可能性が低いミュージカルの魅力的な曲を演じて欲しい

 舞台人としての望海さんは好きだが大ファンというわけではない私が足を向けたのは、①クリエイティブスタッフの多様さ、②従来とは異なる「ドラマティックコンサート」の触れ込み、そして③「5人の望海風斗」のビジュアル、すなわち多彩に変化する望海さんに興味を惹かれたからだ。
 いずれも一定以上の満足はありつつも期待値を上回るものではなかった。
 コンサートはストーリー仕立てであったが、果たしてこのコンサートに「物語」は必要だったのか。宝塚の時代錯誤なコントのように興をそがれるものはなかったが、存在意義は見出せない時間だった。芝居要素を入れ込むなら、小芝居ではなく徹底的に作りこむ方が面白かったし、衣装転換の時間が必要だったのであれば、実力派ダンサーたちがウォーリーマジックの元で踊ることで十二分に魅力的なステージになったはずだ。

何よりも、このボリュームたっぷりのステージで、歌い続ける望海がむしろ後半になるに従って、更に声が出てくる感覚には、ただ呆気にとられるような気持ちにもなった。

演劇キック:全てがプロフェッショナルな圧巻のエンターティメント!望海風斗 20th Anniversary ドラマティックコンサート『Look at Me』

 このような記事を読んだが、私の感想は反対だ。
 望海さんは兎角歌が評価されがちだが、実際には歌唱力があり芝居心を持つ人でもある。「芝居の中の登場人物(ひかり)として、また望海風斗としても歌っている」とインタビューに答えていたが、ひかり=望海風斗とはなっていないが故に、歌唱の立ち位置が不安定になった。
 しっかり芝居ができてしまう人なだけに、歌の上手いテレビディレクターが歌っているように見える。
 結果、ひかりを演じる望海風斗ー誤解を恐れずに言うと中途半端な望海風斗が主役の前半と「"Just" Look at Me」=望海風斗自身が歌唱したパートのクオリティに大きな解離が生まれた。
 選曲やアレンジについても、もうひとつ・ふたつ、ひねりが欲しかった。
 望海さんは自分の魅力が伝わる、歌唱能力をいかんなく発揮できる作品を選んで出演してきた。
 今回歌唱された出演作以外のミュージカル歌曲は、彼女のパワフルな歌唱を引き立てるものであったが、何れも同じ象限に大別されるものだあった。
 また、アレンジ(崩し方)が似通っていたことが、ある種の単調さに繋がっていた。テレビ番組の延長線上のコンサートという立て付け、楽器編成がそもそもミュージカル向きではないという点を差引いても、各楽器が出し得る音の「角」を利用すれば十二分に世界が広がったはずだ。なお、様々なミュージシャンがミュージカルソングのアレンジに挑んでいるが、流石と思うものにはなかなかお目にかかることがない。
 結果「歌が上手いなぁ」と感心するにとどまったのだ。

 望海さんの「才能」は技術に裏打ちされた歌唱にあることは間違いないが、彼女の魅力はそこではない。ミュージカルの構成要素である歌と芝居ががっしとタッグを組んだときの「圧倒的空間支配力」だ。
 ミュージカル俳優としての幅を見せたいのか、歌手として歌唱力を魅せたいのかで舞台構成は変わるだろうが、それがどちらであったかさえ(両方であったのかもしれないが)分からないものとなってしまっていた。
 演者としての幅を見せるなら、例えば「夢破れて(レ・ミゼラブル)」のような死を目の前にした歌があったら魅力的だろうし、歌手としての引き出しを見せるのであれば「最後のダンス」を歌い上げたあと、さらりとしたアレンジで「私だけに」というのもいい。今しか観られないだけではない、コンサートでしか観られない、聴けないものに邂逅したかったのだ。
 20周年とのことで、ファンの方が楽しめることが一番であるし、私のような外様はそもそもターゲット層ではないのだろうが、ひとりのミュージカルファンとして構成力の欠如が彼女の魅力を半分も伝えられなかった点、残念に感じている。
 ミュージカル俳優のコンサートとはかくも難しいものであるかを再認識させられる時間だった。
 なお、私が観劇した回はご本人が「少し弛緩した部分があった」という旨、MCで言及されていたので、ベストパフォーマンス回ではなかったということは書き添えておく。

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