Moulin Rouge! the Musical - Summer 2023 Japan
ミュージカルへの入り口は幼少期に観た数々のミュージカル映画だった。
雨の日には傘をさしてジーン・ケリーの真似をしていたし、いつかジュリー・アンドリュースになれると思っていた。
父は娘にありとあらゆるミュージカル映画を見せ、せがまれるままに新しい映像を与え続けた。そして小学校にあがる頃「もうこれ以上見せられるものはない」と私に告げた。
当時日本とアメリカで手に入るものは見つくしていたのである。
そんな父に連れられて映画「ムーラン・ルージュ」の試写会に出向いたのは口をきくこともそうそうなくなった青年期真っただ中のこと。
父も娘もクラシックにオペラ、舞台に映画ー芸術関係が大好き。一方、映画に求めるものが大きく異なることからふたりが抱いた感想は正反対で。
共通の数少ない話題であったにもかかわらず、亡くなるまで大人げなかった父と娘の感想戦は互いの感想の違いから大バトルとなり、その後沈黙の中食べたハンブルグステーキの味は忘れられない。
父が映画としての評価、バズ・ラーマンという人物がどういった映画監督であるかについては仔細語ってくれたものの、その点、私は全く魅力を感じることができなかった。
当時の日記を読み返すとそこには「陳腐な椿姫」との記載があり。父に対してもなかなか痛烈な言葉をお見舞いしていたことも思い出した。
音楽の楽しさは堪能できたものの、表現手法や過剰な演出が私の好みとは大きく異なり。サントラは聴けど、映像ディスクは未開封のままコレクションの棚に並べられたままだった。
状況が大きく変化したのは2016年のことだった。
Broadwayでムーラン・ルージュを舞台化するとのニュースが入ってきたのだ。映像の過剰演出が世界観を損ねていると思っていた私にとって、それは朗報であったし、舞台になった時の様子がありありと想像でき。
「間違いなく面白い」
あんなにも残念に思った映画の舞台化に対し、不思議なことに確信めいたものを抱いた。そう思い、映像を観て再び顔をしかめたのは余談である。
アーロン・トヴェイトがクリスチャン、カレン・オリヴォがサティーンと聞いたとき、あぁなんてピッタリなんだろうと思った。彼らの名前が出てきたことで想像していたモノクロの舞台が急激に色をもっていったあのゾクゾクする感覚はそれまでに感じたことのないものだった。
と、同時に、アーロンがクリスチャンというのはそれなりにダンスナンバーがありそうな演目、そして彼の実年齢を考えたとき、主に体力面、また青年を演じられるか否かの観点でぎりぎりだなぁ、との印象を抱いた。
Developmental Labのキャスト発表時、アーロンは34歳だった。
その彼が舞台に立った映像を観たとき、心の底から感謝した。
舞台だからこそアーロンがクリスチャンになることができたし、同時に彼がこの役を演じられるラストミニッツであったことも感じたからである。
DL後、NYでのPreview、そして本興行が始まり、DLとほぼ同額の製作費(38億円、DLと併せ約70億円)が聞こえてくる中、日本には来ない、正確には「持ってこれない」だろうなぁと思っていた。
Broadwayのアル・ヒルシュフェットに近い劇場はなかったし、レプリカに耐えられるだけの大改装をできる劇場だってない。
漠とそう思っていたところに、2021年4月、そのニュースは突如飛び込んできたのだ。
Christian=アーロン・トヴェイトのイメージがあまりに強かった所為もあるのだが、私にとって日本版クリスチャン筆頭候補は海宝直人さんだった。
彼はクリスチャンというにはあまりに王子様過ぎるようにも思えたが、楽曲と声の親和性がいいし、クリスチャンという人間のピュアさも持ち合わせている。
15年前、Off-Broadwayにてnext to normalのプレビュー観劇し。その後、日本で「アーロンのような俳優がいる」と思ったのが海宝さんだった(2022年のnext to normal再演はその直感だけを頼りに海宝チームを拝見した)。
ところがその予想は早々に霧散した。2022年9月、同時期に彼の主演作「ダ・ポンテ」が発表になったからだ。
その発表を皮切りに、2023年夏の演目の出演者が発表になるたび、それまで年齢的な観点で候補者から排除していたひとりの名前がくっきりと頭に浮かぶようになった。
2022年11月。
その「彼」はミュージカルTVで「Your Song」を歌った。
歌声を聞いて、確信した。
クリスチャンは井上芳雄だー
その時、背中に広がったあの感覚は、得も言われぬものだった。
総毛だつのと同時に、汗が噴き出すような感覚ー
舞台において井上芳雄という役者が変幻自在なのは知っていたし、若い役を演じられることも知っている。彼があと10歳若ければ、公演発表時からクリスチャン候補だと何の疑いもなくその名前を挙げただろう。
34歳のアーロンでさえぎりぎりかなと思った過去の自分の感覚。井上さんがクリスチャンではと思い至った時にはアーロンはクリスチャン役を39歳で卒業していた(その後アーロンは3か月限定でクリスチャンにcome backした)。
44歳の井上さんが実年齢の半分ほどのクリスチャンを演じる。舞台ならもちろん可能だ。でも、それは現実に有り得るのかー
アーロンがクリスチャンたり得たのはカレン・オリヴォの圧倒的包容力(カレンは年齢においてもアーロンより年上である)があったからだと思えば、日本で井上さんと同世代、もしくはその前後の女優で押し出しの強いサティーンを演じられる、歌って踊れるスーパースターはいるのかー
当時の私はそんなことを悶々と考えていた。
2023年2月2日キャスト発表当日。
井上芳雄がクリスチャンにキャスティングされたことに最早驚きはなかった。
これは2023年夏、「ムーラン・ルージュ」が日本においてどのような成熟の過程をたどっていったか、自身が観劇した10数公演の中で、自分にとってimpressive だった公演回を中心とした記録。
完全なるレプリカ作品であるが故の特殊性が沢山あったように思う。
公演日程やWキャストの日程の組み方ひとつ見ていても、感ずるものが多くあったので、実際の要求量がどれ程のものであったかと考えると素人目線ながらにぞっとするものがあるし、東宝の製作陣に拍手を送りたいと思う。
20年以上前の映画をもとにしたミュージカルであり、ストーリーに大きく言及はしないものの、演出や一部にネタバレも含むため、ご自身の判断で読み進めて頂きたい。
June 24, 2023 Soirée - Preview 初日
迎えたプレビュー初日、友人と3人、昼からワインボトルを2本あけた。元々、ソワレ前は時間が許せばアルコールを口にはしている。
チケットの売れ行きが芳しくないことは知っていた。
何より、日本語訳詞に違和感があって、物語に没入できなかったならどうしようー日本での上演が決まってから、ずっと付きまとっていた不安が頭から離れなかった。
夏の本格到来を思わせる蒸し暑さに襲われたあの日、我々は関係者なのではなかろうかと疑うほどに形容しがたい謎の緊張に襲われており。
ワインを煽る手が止まらなかった。
17時の開場を前に帝国劇場に到着すると入り口にはすでに長蛇の列ができていた。
真っ赤に染まる帝国劇場に足を踏み入れて口から出た言葉はoh my goodnessしかなかった。人間はそれなりの心づもりをもっていたとしても。驚くと定型文しか口から出てくることはないというのは発見だった。
画面の中でしか見たことのなかった真っ赤なムーランルージュが帝劇の中にある。いつもより少し照明が落とされた客席、木目の壁面の帝国劇場にかかる赤のベロア幕はひどく美しかった。
ムーラン・ルージュが上演されている世界の劇場の中には、装飾と劇場がつながっていないものもあることを聞き及んでおり、かすかな心配をしていたが帝国劇場のそれはひどく美しいものだった。
初日の席は下手サブセンター端の超前方席。
今だからこそ言えることだが、席番が判明したときは残念な気持ちでいっぱいだった。初演の初日を見られるだけで十分なはずなのに。
だが、演出至上主義の私は、特に初日においては舞台を真正面から観たいとの思いが強く。"超"前方の席も"超"端の席も私の希望からは大きく外れるー演出意図を受け止められる席ではなかったからだ。
結果的にこの席からの景色が2023年の私の夏の観劇予定を大きく狂わせることになった。
静けさの中では成立しない演目に対し、静かな日本の観客がどんな反応をするのか。自身から自然発生的に声が出てきた時に備え、マスクを二重に装着し、自席にて待機していた開演までの心臓のドキドキは今思い出しても気持ちが悪くなるレベルのものだった。
海外スタッフが関係者席にずらり並ぶプレビュー初日の景色は日本という国での上演を考えるとなかなかに異常なものであったが、今になって思うと戦略的に大成功だったと思う。
プレショーが終わり、Lady M'sのシルエットが浮かび上がった瞬間、観客の拍手をかき消すほど大きな声を上げたのが海外スタッフや当日舞台に上がっていなかったキャストたちだった。
「客はこれぐらいの反応を示したっていいんだからな」という強いメッセージを発したのは初日、劇場センターに坐していた彼らであった。
プレショーに凄まじい集中力をもって挑んでいたこともあり、舞台上手より登場したクリスチャン=井上芳雄を認識するまでにはしばしの間があった。舞台中央近くまで歩いてきた彼の姿を視認したとき、彼とともに自分自身がムーラン・ルージュの迷宮に迷い込んだことに気が付いた。
プレビュー初日にのみ存在したクリスチャンのモノローグ、そして静寂ー
そして井上さんが鼻から深く息を吸い込む音、幕を上げるために差し出された左手の動き、視線の行方。
観客の視線をくぎ付けにし、息をのませる空間コントロール力に「あぁ、この人は0番に立ち続けるまごうことなきトップスターであった」ということを早々に実感することとなった。
どれだけ海外トレイラーで「Welcome to the Moulin Rouge!」を見てきたことだろう。
Lady M'sの登場、ジドラーが幕の間から顔を出しステッキから銀テープが飛び出すシーン。踊れと言われれば下手なCAN-CANを全役踊り分けできるくらいには映像で見つくしてきたあの世界。
舞台化が発表されてから7年ー
パソコンの画面越しではない。目の前に広がる現実の舞台について感慨以上の言葉が見つからなかった。
プレショーの段階から目を見張ったのはあまりに美しい衣装の数々だった。衣装やかつらの採寸がオーストラリアで行われたという話は聞いていたが、様々なものが実によく計算されている。
日本人の頭の形を美しく西洋的に見せる工夫はもちろん、衣装の全てがキャラクターによって微調整されていることが一目瞭然で。目に入るものがすべて計算されつくされている世界の心地よさに酔いしれた。
このショーを作った人たちが真にプロフェッショナルだと思うのは実はこんなところだったりする。
物語は兎にも角にもシンプル、悲劇の教科書のような作品だ。
微細な違いはあれど、これはオペラの「椿姫」であるし、登場人物は「ラ・ボエーム」である。
シンプルな物語が悪いというわけではない。ただ、ひとつでもその味付けをまちがえれば、観客は既視感に襲われ、戻ってくることはないだろう。
オペラがセットや衣装などで世界観を徹底的に作りこむのはシンプルな物語であるからだと思っている。もちろん、そもそもの楽曲のすばらしさは言うまでもない。だが、欠片の違和感もなく物語の世界に没入できるよう用意された世界でフルオーケストラと歌手が作る世界は非現実でありながらしっかりとした手触り感、すなわち現実味がある(現代に舞台を移した新演出については、元の作品を知っているからこその違和感や現代に通ずる普遍性と対峙できるという点で楽しみ方がまた異なると考えている)。
「ムーラン・ルージュ」とは突き詰めればオペラなのだ。
作曲家と作詞者があまりに多すぎる、次々に繰り出される音楽の洪水のようなその壮大なオペラを。CGなしに劇場に現出させるためにはセットや衣装を作りこむ必要があった。もし、そこに「チープさ」の片鱗が見えたならば。あの世界が瓦解することを製作陣はよく理解している。
厳しい上演条件が科せられているのは、製作陣が如何にこのプロダクションが危うく、ぎりぎりのバランスで成り立っているかを真に理解しているからである。
「ヤツら、愛しきボヘミアン!」
ジドラーによる紹介で上手から飛び出してきた井上さんのクリスチャンの姿に。ロートレックとサンティアゴのハーモニーに。
マスクの下で思わず笑い声が出てしまった。そして笑った瞬間、唐突に涙が溢れた。
擦れていない、希望や夢を持った青年がそこに立っていた。
声の張り方、上気した表情、ドギマギする心に呼応するかのようにせわしなく動く肩ー井上さんの演じる技術が彼の実年齢の半分ほどの青年を舞台上に現出させていた。
その後はドキドキが止まらなかった。
The Sound of Musicのワンフレーズ、正気とは思えないロートレックとサンティアゴの提案に対するモノローグから台詞に転換する際の「やるよ!」と答える声の温度感、完璧な音程で入ってくる「Royals」のハーモニー、「TONIGHT, WE ARE YOUNG」の歌い方ー
挙げだしたらきりがない。
「SHUT UP AND RAISE A GLASS」の歌いだし、グラスの鳴る音でスポットライトに照らされた彼の表情と歌い方でまた涙が出そうになるなど、自らの思い入れ、予想より違和感のない日本語訳詞、安堵、ありとあらゆるものが同時に襲い掛かってくる時間がジェットコースターのように続いた。
決定的だったのは「Your Song」だった。
サティーンを口説き落とすのに、一度はあきらめたクリスチャンがサティーンからの返歌に再度歌いだすシーンだ。
カウチに飛び乗ったクリスチャンはその背もたれに両の腕を乗せ。飛び切り無邪気な笑顔をサティーンに向けた。
この物語に登場する男性の中で唯一フルネームがないクリスチャン。
その名が示す通り、彼はキリスト=救世主である。
ロートレックやサンティアゴにとっても、破綻しかけたムーラン・ルージュにとっても。そして、誰よりもサティーンにとって。
クリスチャンは現実の世界を生きている人間なんだろうか。そんなことを考えたことさえあった。
井上さんはクリスチャンの救世主としての聖人性を、現実の男性に嫌味なく落とし込むつもりだー
そのことがクリアに伝わるシーンであったし、恋する青年の無垢さが眩しかった。
役を演じるとき、自分を完全に無にすることはできない(無にする必要はそもそもないのだが)。舞台でもテレビでも、恐ろしいことにどれだけ取り繕うとも役者の本質がはっきりと見えてしまうところにある。
初日、私が座した席は彼の笑顔を真正面に観る席であった。
精緻で綿密な演技プランの上に成立しているその笑顔は、演技であるにもかかわらず完璧なまでに計算やあざとさが排除されており。
隠しようのない井上さんの本質。
そして、計算の元にその本質から放たれた純粋無垢な笑顔。
井上芳雄という役者のすごみを再度突きつけられた思いだった。
私は舞台が好きなので、たとえ自分が好きな俳優が舞台上に立っていてもその人だけを追いかけるという器用さがない。複数回観る舞台においてさえ、気になっている何かを観ようと幕が上がる直前まで覚えていても。始まってしまえばすっかり抜け落ちてしまう。
私にとって大切なのは物語であり、演出であり、それを演じる役者は照明や音響と同じく舞台を構成するひとつの要素に過ぎない。
心の赴くままにが己の観劇スタイルであるがゆえに、この日の記憶が見事なまでに井上さんに支配されてしまっているというのは彼のファンであることを自認してから初めてのことだった。
怒涛の「Elephant Love Medley」を終え、休憩時間に私の口をついて出てきた言葉は「どうしよう」「すごい」「あれは誰」その3フレーズしかなかった。
2幕は当初より彼の真骨頂だと思っていたので不安はなかった。
「Backstage Romance」については彼のダンスレベルがあれば要求レベルはクリアできると思っていたし、「ROXANNE」~「Crazy Rolling」を怒涛のように畳みかけることは最早想定の範囲内であった。
それらが照明効果と演出を得てどのようなシーンとなるかが自分の中のハイライトだったからだ。
その「ROXANNE」の演出と演技の真の相乗効果について私が知るのはもう少し後のことになる。
1階超前方の下手からの景色はただただ面白く、また興味深かった。
1階最前列の端より天井桟敷のセンターを選ぶと言って憚らない私だが、前方至上を叫ぶの人の気持ちが少しばかりわかる観劇体験でもあった。
ダンスシーンの奥行、ダンサーの1ステップの移動距離は迫力があったし、ジドラーがステッキから放った紙吹雪の行方を追いかけたとき、舞台袖から客席を観るような感覚に陥った。
ドイツの映像を観てから最も楽しみにしていた「Backstage Romance」はクリスチャンのリフトを正面からサティーンの脚越しに観るという不思議な構図になったが、そのアングルによってサティーンに向けられるクリスチャンの熱い視線を知ることとなった。
鏡の中の自分に対峙するサティーンの切なさや死に向けて走るさまの表情を真正面から受け取ることになりストーリーの結末を知っているだけに辛さが倍増した。
後々の観劇を通しても観たいものは全て見ることができていた(重要シーンの見切れはなかった)ので、エンターテイメント色が強い迫力を楽しむ演目においては前方もあながち悪くもないのだということを。観劇人生が30数年経過した今になって、初めて抱いた感想だった。
そして、この日、私にとってのクライマックスは「Crazy Rolling」だった。
「Chandelier」から「ROXANNE」ー
想像していた以上の感情の波を歌に織り込み畳みかけてくる井上さんを観客が文字通り固唾をのんで見守っている。
英語台本を読んだとき、クリスチャンが出ずっぱりであることに驚いたが、実際に舞台を観ると、2幕はクリスチャンが主人公なのではないかと錯覚するほど、クリスチャンに求められるものが多く。歌で畳みかけながら芝居を大きく回すことが求められていた。
「Crazy Rolling」はその極地にある。
デュークの脅迫にクリスチャンを拒絶し、自らが吐いた血を見て絶望の淵に沈む深紅のドレス姿のサティーンが佇み。公爵邸を立ち去ったクリスチャンが舞台上手最奥に座り込んだところからこのシーンは始まる。
サティーンが立ち去るとクリスチャンには舞台上部からのサスライト、そして弱いスポットライトが当たる。
完全なる素舞台、漆黒の中、客席から最も遠い場所に座り込むクリスチャン。彼の心の距離、隔絶された世界に存在することが見て取れる。
観客を一掴みできるか否かがひとりの役者にかかる「Crazy Rolling」冒頭。ピアノの残響のみを頼りに歌い出さねばならないこのシーンは役者にとって何と恐ろしいものだろうか。
「Crazy」の途中からホリゾントには星がきらめきだす。
自然とはいえないまでも星々の単一ではないきらめきに、我々が普段舞台で観る星空の不自然さを思い知らされる。上手で座りこんだままクリスチャンは歌を紡ぎ、フラフラと立ち上がり舞台中央まで歩を進める。静寂の中、バスドラムの音で「Rolling in the Deep」が始まる。
その瞬間、舞台後方から舞台前方にかけて強烈な光源が垂直空間に光の筋を出現させた。暗闇の中に突如現れたその光はサイドから観たときに周囲を完全な暗闇にするほど強烈なものだった。
光の筋が舞台の明暗をくっきりと分けているその中に。
絶望、怒り、現実に生きる苦しみ、そこから逃れたいと思っても逃れることが許されない痛みーありとあらゆる感情に支配されたクリスチャンが突如「ぬっ」と現れたかのようになったのだ。彼に対し、真正面からスポットライトが当たっていたにもかかわらず、だ。
「Rolling in the Deep」にあてられた訳詞が原曲に完璧なまでにフィットしていたこと、それを役の感情として完璧な形でミュージカルの歌唱に落とし込んだ芳雄クリスチャン、ライティング、演出ー
すべてのピースが完璧に嵌った瞬間だった。
舞台は真正面から観るのが好きだし、全景を観たいという思いに変わりはない。だが、この日「出会ってしまった」いくつかの鮮烈なシーンが脳裏に焼き付いてしまったのだ。
Preview初日にしか存在しなかった細かな演出も存在した。そのことも相まってだろうか、その後の観劇はPreview初日の幻影ー緑の妖精を追いかけるような部分があったのかもしれない。
私にとって緑の妖精は「Your Song」のクリスチャンと「Crazy Rolling」の全てであった。
自分では決して手配することのない座席を楽しみ尽くすことができたのは、Preview初日の張り詰めた空気感やその後訪れた興奮だけではない。
何よりも驚かされたのは音響だったからだ。
Preview初日の座席はちょうど一年前の6月、Guys & Dollsで座した席と全く同じで場所であった。過去の観劇体験からも帝国劇場のそのエリアはお世辞にもいい音が聞こえる席ではないことは知っていた(なお、Guys & Dollsの音響設定は過去の帝劇公演の中でも群を抜いて独善的であり、観客に物語を届けるという意思が欠落していたという点について、一観客の意見として書き残しておく)。
観客を入れて最初の公演だったがゆえに、その後の公演を振り返ってみれば低重音の設定の甘さはあったし、「ムーラン・ルージュ」という肉質感のある演目に対し全体的に「きれいすぎる」きらいはあった。だが、音そのもののバランスはよく、聞き取れないものもなかった。そして、耳への負荷や違和感もなかったのだ。
終演後、会場を出る際に扉に張り巡らされた大量のケーブルに気が付き。海外クリエイティブと東宝の本気を見た思いだった。
June 27, 2023 Soirée - Team Elephant Preview 2nd
井上さんが好きな理由はいろいろあるけれど。
あえてひとつにと言われるならば、彼のクレバーさを挙げる。
年齢が不安視されていたことを理解したうえで、プレビュー初日において彼が持ちうる技術の全てを注ぎ込み、青年の姿を現出させた。
そして、2回目からは年齢と自分が本当に打ち出したいクリスチャン像のバランスをとるための試行錯誤を始めた。
2023年のムーラン・ルージュ全日程が終わり。世界のカンパニーのクリスチャンがいる中で「井上クリスチャンとは何者であるか」を考えると、彼の特異性を感じずにはいられない。
その特異性、いや真骨頂は「ポップスを徹底的にミュージカルナンバーに落とし込んだところ」にある。
だが、現在の彼がグランドミュージカルの歌い方で「ムーラン・ルージュ」に対峙した場合、どうしたってポップスの軽やかさを犠牲にしなくてはならなくなる。ラジオ等を通じ彼がポップスの歌の世界をいかにして自分の歌唱に落とし込み、歌の世界を広げているかは知っているが、リズム感を重視したものではそう簡単にはいかない。ミュージカルの歌詞とポップスでは言葉の性質が違うからだ。
それはクリスチャンの「若さの喪失」につながりかねない。
甲斐さんならばポップスとして歌ってもクリスチャンに見える。
それは彼自身が持つ等身大の若さと声質ゆえのもの。井上さんには絶対にできない表現であるからだ。
6/24の初日のクリスチャンを24歳と仮定したならば、彼はその年齢を26歳→28歳とプレビュー中に引き上げ、平原サティーンとの初日に25歳まで引き下げる。そんな調整を日々行っていた。
技で年齢の調整をしながら、自分の感情を気持ちよく歌に乗せられる最適値を探っているように見えた。
今回のキャスティングが絶妙だったとのは、世界的に見て本流であるリアルでポップなクリスチャン=甲斐翔真に対し、芝居と圧倒的歌唱力で空間を支配するクリスチャン=井上芳雄という極端なWキャストにあったと思う。
June 28, 2023 Matinée - Team Elephant Preview 3rd
Team Elephantのプレビューは3回すべて観劇したが、人生のチケット運をすべて使ったのではなかろうかと思うほど一桁列が揃った(なお、6/27は友人が2階S席センターと交換してくれた)。
そんな中、友人が引き当ててくれたた席は30余年の観劇人生において、帝国劇場で未だ座したことのない場所、普段はオーケストラピットがある1階XC列だった。同日はapple watchに心拍の急上昇を異常値である指摘されるほどの状況にあった。
BroadwayのCan-Canシートに該当する席と思って楽しみにしていたのだが、演出上演者から「いじられる」席でもないので(BWではジドラーが「上流階級の皆様」とやって来る)、普段の帝国劇場を知っている人以外にとってはさほどのスペシャル感はない座席かもしれない。
余談だが、ふかふかのクッションの座席にはちょっとした「上流階級感」があった。
1階と2階からの観劇を経て。
舞台上下の袖前に埋め込まれた50cm強の線状のライトがとても気になっていた。2幕のクライマックス「Crazy Rolling」の際、壁に寄り掛かるサティーンを下から照らしている照明である。
小さなライトの集合体であり光源としてはさほど強くない。だが、そのライトで照らし出された死を目前にした望海サティーンの表情は壮絶なものがあった。顔に影を作る効果があるのだが、下からの照明になるため、表情があたかも彫像のように見えるのだ。
今回の上演に際し、帝国劇場の床を改造したということは聞いていたし、ショー向きの照明が多々埋め込まれているのを見たが、今後の公演においても使われたなら効果的で面白そうと感じたのがこのライトだった。
各キャスト共に、演技の微調整が続く中、プレビューで一番変化があるだろうと思っていたテクニカル面での目立った調整がなされていないのが意外だった。
プレビュー初日と1列違い、あえて挙げるならば舞台上に設置された140cm前後のスピーカー(席番号で言うと18番と40番の前あたり)の内側(28日)か外側(24日)という程度の違いだったが、音の広がり方を考えるに大きな変更はなかったように思う。
この日、開幕前に自身で歌詞を日本語訳したものに目を通してから観劇した。日本語英語の別を問わず。ポップスを聞いて歌詞を理解しきれない私にとってはこの作業はとても重要なものであった。
そして、このタイミングでその訳詞を引っ張り出したのは日本語訳詞の情報量が少ないことを洋楽ファンが嘆いているのを見かけたからである。
ただ、日本版はこれでいいのだろうなと言うのが観終えての感想だった。
初日を観劇したバズ・ラーマンが「これまでに観たどのカンパニーよりも悲劇性を感じる」と評したが、日本語の特性によるものではないかとの仮説が立ったからである。
単純明快なセリフ、ポップスのメロディに載せられた歌詞は記憶に残りやすい。この日より検証を兼ね、台本の書き起こしを開始した。
July 1, 2023 Matinée - キャストシャッフル初日
平原サティーン&井上クリスチャン
プレビュー開けて最初の観劇、本初日を迎えた後というのはやはり技術面が細かく手が入れられており、心地いいものがあった。
プレビュー初日と3日目にほぼ近い席であったが、低重音の迫力を伝える方向に重きを置いたスピーカー調整によりライブ感が増し、ショーとしてのの臨場感を核に据えた舞台構成がより明確になった。
一方、デューク登場シーンにおいて、舞台上下に置かれたボックス席下のライトをつけっぱなしにしてみるといった実験もあったので、照明パターンについては基本的調整は済んでいるものの、迷いがあるように感じた。
表現で明確に異なったのは井上クリスチャンが物語の幕を上げる動作。
それまで左手だけで幕を上げていたが、アーロン・トヴェイトと同じく両の手で上げる振りに変わったことに思わず息をのんだ。
音響設定が空気感を楽しむライトな方向に変わった一方、物語に重さを持たせるために変化したのであろうその動作に破顔せずにはいられなかった。
そして、平原サティーンを。とても、とても楽しみにしていた。
ポップスの楽曲が並ぶ今作において、平原さんのパワフルな歌い方、そして歌で世界観を伝える力は魅力的であるに違いないとの確信があったし、プレビュー初日を共に観劇し、翌日のTeam Windmill初日も観劇した友人からも期待値を煽るとの感想が寄せられていたからだ。
歌詞を台詞として聞かせる望海サティーンに対してパンチのある歌声を響かせる平原サティーン。登場シーンから笑いが止まらなくなってしまった。
「制圧される」というのはこういうことを言うのだろう。
プレビューを通して「いくつか改善点がある」と思っていたが、内容面において、最初に解消されたものは歌詞だった。
特にLady M'sが歌う「CREOLE LADY MARMALADE」が中途半端な日本語に訳詞されていたのは心地の悪いものだった。
歌詞の前後が英語とフランス語であること、クレオールという日本人にはなじみのない言葉を丁寧に伝えようとしたことは容易に想像がつくが3回聞いても聞き取れないその歌詞が英語歌詞に集約された点は、気持ちよく物語に没入するきっかけになった。
プリンシパルキャストの中で、ひとり、勝手に心配をしていた人がいた。
デューク役のKさんである。
歌は無論折り紙付き。他方、演技は未知数であり、母国語が日本語でないがゆえに、台詞の発音に苦労するのではなかろうかという点だった。
結果的にその心配は杞憂であった。
人間の厭らしさを前面に出した役作りのKデュークには映画版デュークのような神経質さがあった。口跡滑らかとするには躊躇するが、韓国語を母国語とする人が日本語を発音する際に難しさを感じるところを少しニヒルな角張った言い方にしたことで、デュークの厭らしさや神経質さが結果的によく伝わってきた。
これが違った役の造形であったならば気になったかもしれないがセリフ回しと彼が目指したデューク像が心地よくマッチしていた。
本職・シンガーの平原サティーンとKデュークが繰り広げる「THE DUKE’S SONG」はライブさながらの空気感で。歌を台詞として聴かせるのではなく「さぁ、感じろ」と言わんばかりに互いの歌をぶつけ合うふたりのパフォーマンスは圧巻だった。
だが、ふたりの役作りがともに歌手であることを前面に押し出したものであったがために「相性が良すぎる」点が聊か気になった。もっともそんなふたりであるからこそ、Kデュークがサティーンとの逢瀬後にひどく高揚した様がリアルではあるのだけれども。
歌だけを観たならば、平原サティーンの運命の相手はKデュークなのではないかと錯覚しそうになったのだ。
「Elephant Love Medley」に「HA-HA-HA-HA HA-HA-HA HA-HA-HEART」という歌詞が2回出てくる。
1回目、井上クリスチャンと平原サティーンは異なる歌い方でふたりが歌い。2回目にサティーンがクリスチャンの歌い方に寄せることで、サティーンが抗いようもなくクリスチャンに心惹かれていく様子が伝わる。
このシーンに代表されるように、サティーンとクリスチャンには歌で共鳴していく心地よさが必要だと思っている。
他方、デュークとの間にはある種の「ちぐはぐさ」があった方が面白いように感じたのだ。
July 6, 2023 Soirée - 井上芳雄FC貸切
昨年のGuys & Dollsで幻と消えたFC貸切が無事開催できたことは、井上さんのファンとして嬉しいことだった。1年越しのリベンジ達成である。
だが、この日のパフォーマンスにおけるハイライトは望海サティーンの覚醒にあったと思う。
プレビュー初日の望海サティーン、正確には彼女の登場シーンについて。今だから書けることだが、大きな失望を覚えた。
元来、彼女はショースターというより歌と芝居の人であった。
ただ、Guys & DollsやDream Girlsのショーシーンにおいても観客をひとつかみしていたし、ショーシーンに対しては心配は抱いていなかった。
ところが、プレビュー初日。
サティーンの登場シーン「The Sparkling Diamond」においてはその空間を支配する押し出しの強さは圧倒的に足りず。残念ながら彼女の姿は輝くダイヤモンドとして映らなかったのだ。
「ムーラン・ルージュ」の物語はショーの要素が強いがゆえに物語としては単純明快。だからこそ、シーンごとに観客をつかんで離さない、そして次のシーンへとシームレスにバトンを運び、観客を誘導することが求められる演目だと思っている。
サティーンはヒロインであるにもかかわらず幕開きから20分出番がない。プロローグが終わり登場を仄めかしたのち、クリスチャンの渡仏の過程を描く。これでもかと期待を煽って登場する中での「The Sparkling Diamond」は1幕の構成においても、また物語全体における肝でもある。
デュークに対しサティーンに大きな興味を抱かせねばならないし、クリスチャンの心をざわつかせ浮つかせることが求められる。
そして、それは観客の心も同様にーである。
「これはサティーンという女性の物語」
クリスチャンは明言している。
ただ、プレビューにおけるTeam Elephantの3公演はいずれも「彼女の物語」足りえなかったというのが私の印象だ。井上クリスチャンの押し出しが強すぎたのか、望海さんが不調だったのか、はたまたその両方だったのかー
望海さんに関しては、公演開始前にコロナ罹患発表もあり、その影響があったことは容易に推察できる。登場シーン以降は、さして気になることはなく、特に2幕の死に向かうまでの繊細な芝居は流石であった。
ただ、私が見たかったのは「普通に上手い望海風斗」ではなく「常に期待の上をゆく望海風斗が演じるサティーン」であったが故に、とても残念だったのだ。
その後、27日ソワレ、28日マチネと右肩上がりに調子を上げていったがサティーンのスター感に対する物足りなさを払拭するには至っていなかった。
そして、この日、ジドラーが幕を上げた先にいた望海サティーンは紛れもなく「ダイヤモンド」として光を放ちはじめていた。
意図的にしっかりと作られた「ため」、空間を自分に引き付けコントロールするパワー、会場隅々にまで視線を配り、微笑み、歌声を放つ彼女はサティーン役者に求められる自身の素質を役に結び付け表現してきた。
押し出しの強さにより、その後の細やかな芝居や美しい動作が活きるようになったのだ。
望海さんがサティーンとして大きな山を越えたことを感じさせるものであり、この後の深化に期待を抱かせるものだった。
なお、2幕某シーン、緊張感が最高潮となるシーンで伊礼デュークが井上さんに対し誕生日アドリブを放った瞬間、観客の感情があらゆる方向に千々に乱れたのはあの日の特別な瞬間であったことは付記しておく。
また、6/27以来の2階席となったのだが、プレビューから大きく異なっていたのは「The Sparkling Diamond」でサティーンが胸を押さえて座り込むシーンの照明だった。舞台上下3番の位置に取り付けられた2つのライト、「Chandelier」で幻影に囚われたりするシーンなどで役者の顔に印象的な光をあてていたのだが、その光が穏やかなものに変化したのだ。
当初2階からでもはっきりとサティーンに異変が起きたことがわかるようになっていたのだが、物語を知らない人が観た場合、あれはいったい何なのだろうと頭を悩ませるのではないだろうか。
サウンド・エフェクトで彼女の荒い息遣いも入ってはいるものの、音が何たるかに気が付かなかったと話す友人もいた。
無論、直後にジドラーが「なんだか苦しそうだったよ」と台詞を紡ぐので補完はされよう。
ただ、舞台全体がブルーライトに染まりそれが点滅するという中においては、プレビューと同等の強い光があってもいいというのが私の意見だ。
なお、この光源からのライトは私が最後に観劇した8/26まで変わりはなかった。
July 13, 2023 Soirée - 平原サティーン&伊礼デュークとの邂逅
「The Sparkling Diamond」でのサティーンの登場はBroadway版同様、舞台上方からゆっくりブランコで降りてくるだろうとの予測していた。
それ故、どうしても2階前方センターから一度は観劇したいと思っていたため、先着にてリロードにリロードを重ね、お目当ての席を購入した。
結果的にリフトダウンの演出はなされず、日本版のがっかりポイントのひとつとなった。
舞台機構そのものの問題ではなく舞台上からブランコに乗り込むことができないのだろうと推察する。
ブランコを登場シーンの高さに引き上げるのが時間的に精一杯なのだろうが、彼女の神秘性を高める演出のひとつなので、やはり残念ではある。
プレビュー3日目(6/27)、良く計算された照明の美しさが演出に与える影響を把握することができた点について面白さを感じたものの、初日に観たものと同じ舞台だろうかと首を傾げた。
大盛り上がりする海外クリエイティブが減ったといった単純なものではなく、圧倒的迫力不足を感じたのだ。パフォーマンスは2階に向けても様々な工夫がなされているが、1階の熱狂と2階が隔絶されている感覚があった。
FC貸切時は「誕生日というお祭り」の気配が会場全体を支配しており、正常な判断を下せずにいた。
2階の置いてけぼり感の正体が判明したのは、この日の幕が開いた瞬間だった。Lady M's登場シーン、バスドラムの音が腹の奥底に鈍いパンチを繰り出してきたのだ。腹の底に轟いた振動が心臓を打ち鳴らすには十分な迫力ある低音は舞台と2階客席の距離を一気に縮めてきた。
スピーカーの数に変化はなかったので、天井センターのフロントスピーカーの設定に起因するものだと思うのだが、低音が2階席にも響くようになったことで、2階席の観客をがっちりホールドできるようになっていたのだ。
その後、8月に2階A席センター、2階B席サブセンターにおいても観劇の機会を得たのだが、特にB席における音の良さにはなかなかの感動を覚えた。物理的距離があるB席だが、その距離を埋めるに足るだけの音響設定がなされていたことは特筆すべき点だと思う。
ムーラン・ルージュには一見過剰なほどに効果音が用いられている。
音楽とのバランスを追求しながら効果音を違和感を感じないレベルのぎりぎりまで大きく入れるようにしている。
ジドラーが1幕冒頭、デュークを紹介するに用いる台詞「宝石じゃらじゃら お財布ははちきれそう」にそれぞれあてがわれた音などはその代表的なものだろう。当初1階席でしかクリアにキャッチできなかった音がしっかり聞こえるようになっていた。
そして2階前方ど真ん中の席は絶対にお勧めしたい席のひとつとなった。舞台全景をストレスなくその手中に収められるし、照明効果を気持ちよく浴びられるというのは他の演目と変わらず所与のものとして。
「The Sparkling Diamond」でサティーンと背景のダイヤモンド、そしてスポットライトが一直線に並んだ景色の美しいこと!
サイズの異なる細かなスワロフスキーが埋め込まれているサティーンの衣装、背景となるミラーで作られたダイヤモンド。そのふたつの異なる輝きが空間を支配する空間は計算されつくされたもので。想像以上だった。
そして、この物語の中で最も好きな景色が2階からの「ROXANNE」だ。
今回、様々な照明機材が導入・設置されたが、白と赤の地明かりとフラシュライトという極めてシンプルな照明構成がクリスチャンとダンサーたちのパフォーマンスを最大限に引き立たせる。
タンゴと言いつつモダンのリフトで構成されたダンスののち、ブエノスアイレスの娼婦=ロクサーヌに扮したニニと入れ替わりにサティーンとデュークが登場する。
前方上手からクリスチャンが、後方下手からサティーンがまっすぐ平行に舞台を横切る。真っ赤に染まるライトの中、歩くふたりを四角い白のライトが舞台上空から追いかける。
舞台中央ですれ違うとともにデュークの声が響く。その声をきっかけに、クリスチャンのライトのみが2つに分かれるのだ。舞台中央に残るライト、そして歩き続けるクリスチャンを追うライトに。
サティーンと邂逅した場所で立ち止まったままのクリスチャンの心、そしてデュークによって身体的に引き離されていくさまを表現したシーンはシンプルながらに美しく。
多彩な照明技術が用いられているこの演目の中でひときわシンプル、だからこそ掴まれるものがあった。
また床に3列に埋め込まれた照明が最も効果的に使われていたのもこのシーンだと思う。
この日、2つのハイライトがあった。
ひとつはWキャストであることの意味である。
ふたりのサティーンを観たのち、私はこんなつぶやきを残している。
望海さんも平原さんはそれぞれに才があるミュージカル俳優であり、ふたりともジャンルは異なるが歌が上手い。
望海さんは繊細な芝居を組み立ててくるし、所作のひとつに至るまで気を配った美しさが持ち味。一方、平原さんは理屈を超越した歌だけで有無を言わせぬ説得力を生み出し、思い切りのいい芝居構成で娼婦のもの悲しさを感じさせる。
ふたりともサティーンではあるが、互いに欠けているものがある。しかも、その部分は全てふたり真逆であるというのが当初の印象だった。
平原さんにおいてはそれがダンスシーンであったり内省的なシーンの描写であったりした。
この日、平原サティーンの足さばきは実に美しく、その姿に望海サティーンの後ろ姿が重なったし、内省的な歌唱ー特に「Material Girls」については当初サティーンの生命力からくる力強さが目立つ歌唱であった。
だが、力強さはそのままに、己の葛藤を歌唱に乗せる歌をこの日聴くこととなり。男を繋ぎとめるため「輝き続けるしかない」と歌うサティーンに涙腺が崩壊するに至った。
この後も望海・平原両名のサティーンを拝見したが、不思議なことに、どちらのサティーンを観ていても、ふとした瞬間にもうひとりのサティーンの影を感じる瞬間が最後まで続いた。
互いのいいところを盗みあう、ハングリーなふたりが共同で作り上げた、持ち味の異なるサティーン像というのは実に興味深かったし、Wキャストとして成功であったと思う。
もうひとつのハイライトは、平原サティーンと伊礼デュークの組み合わせでの「THE DUKE’S SONG」だった。
伊礼さんも平原さん同様パンチのある歌唱をするが、平原さんのそれとは明確にベクトルが異なっている。
伊礼デュークのある種の品の良さと平原サティーンが「彼を落とす」という明確な意思をもって出す甘い声は相性がよかった。
伊礼デュークはミュージカルとしての歌唱を優先し、平原サティーンはポップスのグルーヴ感を重視しているため、そこにケミストリーはあれど「共鳴」と呼べるものはなく。デュークが彼女の望むようなその手管にまんまと落ちようとしている、そんな間柄を予感させるには十分なものがあった。
こうなってくると俄然気になるのはもうひとつのペアー
演劇的アプローチで歌唱する望海サティーンとグルーヴ感で襲い掛かってくるKデュークの組み合わせである。
July 20, 2023 Matinée - 望海サティーン&Kデュークとの邂逅
結論から言うと、望海サティーンとKデュークの組み合わせは実に気持ちのいいものだった。
同じサティーンでも平原さんは「商売女としてのサティーン」をセルフプロデュースしながら身を売る娼婦であるのに対し、望海さんにはある種の潔癖さ、花魁に通じる高潔さのようなものがある。
伊礼デュークはnoblesse obligeなんて概念が最早消え失せたこの時代においても、どこかノーブルでジェントルマンシップが垣間見える人物として造形されていた。品のいい二人の組み合わせは物語として観たときにあまりに「綺麗すぎる」、あえて言うなら宝塚的な組み合わせに見えた。
世の中に存在するリアリティ、すなわち「汚さ」を極限まで排除した関係に映ったのだ。
一方、Kデュークの造形には前述の通り、人間としての厭らしさや器の小ささがあり。いかにもnoblesse d'apprence、すなわち「外見の貴族」いや「外見"だけは"貴族」といった風情があるのだ。
汚さを明確に打ち出してくるKデュークの支配欲と、身は売っても心は売らない望海サティーン。
舞台とは非現実の世界であるが、そこに手触り感のあるリアルさが加わると、物語は一気に深みを増すことを感じる観劇体験となった。
そして、改めて「Materials Girls」~「ROXANNE」は皮肉な場面だと思った。シャンゼリゼを歩く淡色のドレス姿の貴族たちとデューク。そこに赤に地模様の入ったドレスを身に纏ったサティーンが現れる。
そんな彼女にデュークは淡色のドレスと正装の帽子を「与え」ー
それでもなお、彼女は深紅のデコルテもあらわなドレスを身に纏いデュークのもとへと帰ってくるのだ。
それを迎えるデュークの漆黒の衣装ーデフォルトであるがーも「外面」である淡色のコートを観た後では一層肝が冷える。
当初、この日に観劇予定は全くなかった。
社内観劇サークルの仲間である友人がNYから日本に出張していると前夜に連絡が来た。彼とはBroadwayにてMoulin Rouge!を一緒に観劇しようとの約束をしていたが、私のプライベートの問題やコロナ禍等々により、観劇が叶わず、ここまで来た。
一旦、約束が果たされたことに安堵するとともに、やはりBroadwayで観劇をしたいと思った1日でもあった。
彼との会話で印象的だったのは初日舞台挨拶でバズ・ラーマンが語った「日本のムーランルージュに感じる悲劇性」に通じるものだった。
当日のキャストは望海サティーン、井上クリスチャンであった。
アメリカ人の彼に日本語のヒアリング能力はなく、彼の知っているのはBoston DL、NY Preview、NY本公演,、Londonの公演、そして英語のスクリプトだけである。
その彼が評したのが「日本版はジュークボックスではなくミュージカルそのもののように見えた」というものだった。
July 22, 2023 Matinée - Interruption by Trouble
8回目にして初のA席(1階)で観劇。
天井に補強されたスピーカーのおかげでライブ感は1階後方でも変わらず。音が体を貫くというよりはじわじわと侵食される感覚が強かった。
今回の演目は足元から低音が突き抜けていくのが特徴なのだが、それがコンマ以下ながらに遅れて伝播する感覚で、中低音が先に飛んでくることから上半身と下半身で感じる音に差異を感じるとでもいえばいいだろうか。
続く9回目の観劇も同様に1階A席であり、似たような感覚を得ている。
最終的に2階A席やB席でも観劇をしたが、個人的にこの演目に関しては客席に被りのない2階で観たいとの感想を抱いた。
迫力重視なら1階、音のクリアさ重視なら2階だ。なお、私の場合は舞台上に投影される照明効果も好きというおまけがあるため、2階一択だ。
この日のパフォーマンスそのものについて言及すべきポイントはないものの、舞台機構のトラブル発生後の再開時、途切れかけた観客の気持ちをさらりと本編に戻した井上さんの対応能力の高さに平伏したことを書き残しておく。
August 4, 2023 Matinée
- First Encounter with 甲斐クリスチャン & 松村ジドラー
待ちに待った甲斐クリスチャンとの邂逅は望海サティーンとの組み合わせで。友人が望海甲斐の組み合わせが最も癖がなく物語の本質が見えるのではないかと言ったことから実現した。
甲斐クリスチャンはすがすがしいまでに等身大の青年だった。
「役と役者がめぐり会った」という表現がなされるが、まさに甲斐翔真という25歳の青年がクリスチャンに出会った、いや「出会えた」瞬間を見ることができた。
井上さんの演じるクリスチャンを救世主と評したが、甲斐さんのクリスチャンはあくまでもサティーンの恋人であり続けた。
彼女の軛を断つ者ではなく、彼女に恋する者、彼女をただただ愛する者ー
盲目的で猪突猛進、若さ故の占有欲を感じさせるものがあった。
「私を責めたければどうぞ あなたは私の人生を知らない」
「じゃあ、僕は恋人になろう!」
「Elephant Love Medley」の冒頭、サティーンの拒絶に井上クリスチャンの視線は一瞬何もとらえなくなる。そして、ひとつの覚悟ーそれはまだまだ甘いものでその言葉の意味を彼は真に理解していないのだがーを持って、サティーンにこのセリフを言う。
それがこの2つのセリフの小さな間に凝縮されている。
一方の甲斐クリスチャンはさらりとこのセリフを放つのだ。
「Elephant Love Medley」に「恋はゲーム」とあるが甲斐クリスチャンにとってそれは口説き文句ではなく「Truth」なのだろう。
この2つのセリフの間の取り方ひとつで、井上クリスチャンには性格や思考面での「重さ」を感じるし、甲斐クリスチャンには楽観的なものー「ライト」さが見て取れる。
そして、この間の取り方はあらゆるところでふたりとも異なり、ふたりの真逆の解釈であることの面白さ、そして異なっているのにそれぞれ破綻していないことが楽しくなってきた。
クリエイティブ陣が何の先入観も持たずに=事前予習なしに稽古に来て欲しいと言ったと聞いたがこれだけ気色の違うクリスチャンを見せられたなら、その手法にも納得だ。また、そういったノウハウを持ったスタッフ陣がいるチームを羨ましく思う。
どちらかというと日本人は生真面目でもあるので、予習や読み込みをしたくなるところだろうが、製作の過程としていいなと感じている。
実は、先んじて甲斐さんを観た人たちから、素晴らしかった点についての感想をたくさん聞いていた。その賞賛は具体的で、コメントの大半は彼の1幕の彼の溌剌とした若さやそこから溢れ出る嫌味のない恋愛感情に寄せられていた。結果、友人たちのコメントは「1幕は甲斐翔真、2幕は井上芳雄で観たい」といった表現に集約されていたように思う。
若者の特権をすべて持っている眩いクリスチャンはサティーンと同世代の未婚女性である、もっと言ってしまうと薹が立った女性である私にとっては「決して相いれない男性」でもあった。恋愛に関していろいろな意味で「重い」私には理解ができない男性であったともいえる。
それ故だろうか。私は1幕の甲斐クリスチャンから魅力を感じることができなかった。芝居として、甲斐クリスチャンの魅力は理解できるのに嫌悪感に似たものを抱いた自分に戸惑いを禁じ得なかった。
そして、この物語をサティーンの立ち位置からとらえていることが多いことに初めて気が付いた。それだけ彼の青年像がリアルなものであったとの証左だと思う。
「数日が数週間になり 数週間が数か月になった」
サティーンの死後、クリスチャンのモノローグで、顔を上げた甲斐さんの表情にハッとさせられた。
彼の手の中にあったものが全て零れ落ちた後のあの表情には、影ひとつない若者が喪失によってしか得ることができなかった人としての精神的成長の過程が見えた。
最後のシーンの、その一瞬に向かって甲斐翔真のクリスチャンは2時間半の物語を駆けてきたのだ。それまで甲斐さんの演じるクリスチャンという男性に対して抱いていた嫌悪感に似たものがその表情ひとつで霧散していく感覚は「Come what may」のすがすがしさと相まって、己の憑き物が落ちたかのような錯覚を覚えた。
次に彼のクリスチャンを観るとき。この嫌悪感が払拭されることを知った状態で観ることになるわけで。2度と得ることのできない一期一会の感覚だったのかと思うとー今さらながらにそのことがひどく残念で口惜しい。
甲斐さんのクリスチャンを軽薄と思う人がいるかもしれない。
だが、彼のクリスチャンは男女の別はあれど、多くの人が通ってきたであろう人生の「若さ」そのものなのだ。若者の「軽やかさ」を軽薄と評することは私にはできない。
自身の人生観によって感ずるものが大きく異なるし、物語をどの視点で観るかによっても変化があるクリスチャンである。
また、彼の軽やかさはいかにもアメリカの若者的であった。そして歌い方もポップスに寄っていたこともあり。英語歌唱のMourin Rouge!であったなら彼の魅力はより活きるように感じた(少々、アーロン・トヴェイトを意識し過ぎていたように私の目には映った)。
そういった歌唱法の観点でも、またどちらかというとクローズドマインドのサティーンである望海さんよりも、オープンマインドな平原さんとの組み合わせの方がより輝くクリスチャンかもしれない。
スケジュールの都合で、この組み合わせを観られなかったため、再演時の楽しみとしたい。
美輪明宏さんの「"ありのままの私を受け入れて"なんてムシがいい」という話が好きである。
畑の大根は引き抜いて、泥を落として、料理をしてお皿に盛られて初めて美味しく食べられる=受け入れられる。努力をして初めて人に受け入れられるのだと。
美輪さんらしい表現である。
甲斐さんは存在こそがー"ありのまま"でいてクリスチャンなのだろう。
それを努力によって、人に見せるためのクリスチャンに仕上げている。
甲斐クリスチャンは素材そのものののおいしさを最大限に活かしたものだった。畑から取ってきたばかりのみずみずしい大根はただ切っただけで十分に美味しい。
ただ、私個人の好みとして、そこにひと匙の調理を求めてしまう。
現時点において、クリスチャンと甲斐翔真はあまりに距離が近すぎて、調理の術、もっと言うと演技の選択肢が多くないのだと思う。
そのまま食べておいしいものに過度に手を加える必要はないからだ。それはごく自然のことである。
一方、観客から見るとまだ加えられる余地があり。それによってさらに良くなるものがあるように見える。それはひとつまみの塩なのか、調理の一行程なのかー私にはまだわかっていない。
再演までの間に、彼はまた様々な役を演じるだろう。その経験を経てクリスチャンを再構築しようとしたときに「経験したが故」の苦労をするかもしれない。
今しか見られない、素の甲斐翔真=クリスチャンを観ることができた幸運を喜ぶとともに、来年、ひと手間加えたクリスチャンを拝見することを今年以上に楽しみにしている。
甲斐翔真のクリスチャンではなく。
甲斐翔真が演じる、彼が演じることに意味があるクリスチャンに出会うことができたならば。
それ以上に嬉しいことはない。
甲斐さんのクリスチャンは舞台に慣れてきた8月に入ってから観ようということ以外、全く何も考えずにチケット取りをしていたし、チケットを追加する段においても特に何をしたというわけではなかったのに、なぜか松村さんのジドラーのチケットが8月に入るまで全くなかった。
橋本ジドラーが極めて自由なジドラーであると言われるが、松村ジドラーも表面の性格が異なるだけで大概に自由な男であるというのがファーストインプレッションであった。
無意識に道化の仮面を被るパフォーマーの橋本ジドラー「freedom」に対し、松村ジドラーには「Truth」という言葉がよく似合う。
思えば、橋本ジドラーは最初から「自由」であった。彼自身の奔放さ、新感線仕込みの人を楽しませたいと言うエンターテイナーの「欲望」が全面に出ている。本公演が始まってすぐー第2クールに入ってすぐのタイミングから、タイミングをずらしてみたり観客の煽ってみたり。
彼のあの恵まれた肢体がコミカルに動くものだから、観客は彼の姿を目に止めるだけでなんだか笑いがこみあげてきてしまう。
劇中劇の所作についてはもはや日替わりで、剃刀ひとつ持っているだけなのにこれほどまでに多彩な引き出しがあるのかと感心させられる。
道化的な橋本ジドラーがどこまでもその道化色を強めることができたのは、劇中劇本番において悲劇におけるヒールを完璧に演じつつ、そこにサティーンと関係性の全てが見て取れる絶妙な表情を浮かべることができたからだと思っている。
お調子者でのせられやすく、行き当たりばったり。
「So Exciting! (The Pitch Song)」でクリスチャンの人物設定も、偶然口を突いて出てきたものが妙に嵌ったというだけの橋本ジドラーの言い方は「水夫?」である。「水夫!」と自信を持って自分の案を差し込む松村ジドラーとの差が明白である。
事業計画が見るからに甘そうな橋本ジドラーはムーラン・ルージュの面々との距離がとにかく近い。売り飛ばされてきたサティーンと物乞いを共にし、文字通り二人三脚で歩んできたのであろう。まさに「ファミリー」だ。
「どうするハロルド 決断しろ」
「イエス」
一方の松村ジドラーには商売人としての「足掻き」を感じる。守るべきものを把握しているし、自分が何を選択するべきかもよくわかっている。
ベストな解は分かっているし、その選択も行っているにも関わらず、上手くいっていない。
1幕ラスト、デュークからの経営権買取の申し出にジドラーが同意するシーン。ムーラン・ルージュにとって最善の道を選択するジドラーの答えは当然「イエス」。だが、舞台を立ち去る二人は対照的であった。
橋本ジドラーがデュークの背中を見る姿には「果たしてこれで良かったのか」と自問自答する葛藤が伝わってくる。
そして、シャンパングラスを強く握りしめ去っていく松村ジドラーは「これでいいのだ」と自分に言い聞かせる様子が見える。あたかも、グラスの底に映る自分の顔を見るかのように。
松村ジドラーとサティーンの関係はファミリーであると同時にビジネスパートナーとして対等なものであるように見える。
デュークと関係を築くことについて、橋本ジドラーはサティーンの考えを知りつつも目をつぶって彼のもとへ行けというが、松村ジドラーは彼女の全てをあえて理解しようとはしていない。
過去の経緯からサティーンとの距離は「ファミリー」の中で一番近い。だからこそ、一線を引いている姿が印象的である。
サティーンとふたりだけのシーンでしか見せなかった距離感。他のメンバーがいるときには線引きしたビジネス面での関係を見せていたジドラーが劇中劇本番で憚らずに見せた心配の表情にふたりの歴史を感じた。
そして、この日(そして翌日も)はピエール役ICHIさんが休演となり、茶谷健太さんのピエールを拝見することとなった。
茶谷さんのピエールは控えめな印象なのだが、それ故に不気味さを感じた。ICHIピエールはデュークに対する嫉妬や敵愾心を見せるが、茶谷ピエールはジドラーに対する一途さがある。冒頭の「SHUT UP AND RAISE A GLASS」からその印象は変わらない。
そのピエールが劇中劇の稽古中、ジドラーに世話を焼く時のアイコンタクトで彼の変貌を感じさせたことにぞっとしたのだ。
経営難のムーラン・ルージュに現れた「金こそが正義」と言って憚らないデュークとの出会いが彼を変貌さていく過程がにじむ芝居は魅力的だった。
もちろん、公演は何事もなく、無事に完走できるに限る。ただ、一方で茶谷さんという才能豊かな人がスウィングに入っていたがゆえに、ICHIさんの休演という緊急事態においても、通常公演と遜色ない公演を拝見できたのは嬉しいことだった。
また、2日続けて観劇だったこともあり、二人のデュークを相手にする茶谷ピエールを拝見できたことも、「ナイツ・テイル」以来、茶谷さんを意識的に観ている身としては、幸運なことだった。
Guys & Dollsにおいては彼が舞台に出演したのは博多座での1回であった。
そして、彼がスウィングとして重宝されることを嬉しく思う一方、通しで舞台に立ち続けてくれることを期待せずにはいられない。
ファンの戯言である。
今回、茶谷さんを含めたスウィング全員が定期的に舞台に登場したことは日本においては革命的な出来事だったと思う。
そして、今回周囲を見渡すと「好きな人は出てないけれど複数回行った」という人がどれだけ多かったことか。最強と呼ばれるキャスト陣を揃えたことで作品としての成功見えた今、いずれ実力派若手の登竜門のような作品になるのではないだろうかと思っている。
友人とよく話しているのは例えばスウィングの中で存在感を発揮していたロビンソン春輝さんのクリスチャンが観てみたいというもの。
作品内での出世や飛躍があったならまた素敵だろう。
Intermission
実は7月末から8月中旬にかけて幾度かの観劇をしたが、その結果、何枚かのチケットを手放した。パフォーマンスに中だるみを感じる回が立て続いた。そこにきて台風が来るかもしれないとの予報が出たこと。
2桁を超える回数の観劇を予定していた私が観劇を回避するには十分な理由であった。長期公演ならではの出来事だと思うので、観劇日こそ明かすつもりはないがそういったことがあったということは書き残しておく。
そんな期間に、書き起こした日本語脚本と英語脚本を並べ、日本版ムーラン・ルージュとは何なのかについて考えてみた。
そこで改めて感じたことは英語を日本語にすることの難しさ、ポップスの特殊性。そして、ローカライズに際して、根気強く言語の違いに向き合った国内プロダクションチームの姿が見えてきた。
海外ミュージカルを日本語にすることはそもそもハードルが高い。
同じメロディーに入れられる情報量があまりに少なすぎるのだ。その中で取捨選択を迫られる。よって、日本語プロダクションになる段階で訳詞者の恣意性はどうしても生まれてしまう。
さらに今回はポップスを訳さなくてはならないということで、訳詞者が17人という大所帯になった。個性豊かな訳詞者と、誰がどの曲を訳すかを知った時、なんと面白いのだろうと思った。
ただ、著名人が意思をもって訳詞したものに、作品として筋を通す人がいるのだろうかというのは大きな懸念点だった。初日前、キャストのつぶやきでそういった調整がなされているということを知った時は安堵した。
洋楽ファンの友人と会話をした際に「誤訳」が気になるとの指摘があった。正確には日本語版作成に際しての「創作和訳」が正しいのだが、この点は、観劇者の視点によって大きく判断が左右されるところだと感じた。
友人のようにポップスのマッシュアップショーを観に行く=芝居の要素はあくまでもつなぎであり、多くを求めていない人にとっては、和訳による情報の喪失は許容しがたいものがあっただろう。
一方、私のように歌=芝居の一部分(セリフ)と捉えている者にとっては程よく交通整理がなされている点をいいと感じた(ただ、ストーリーの流れやリンケージを加味しても、どうしてもその和訳は違うものの方が良かったのではと思うポイントはいくつか存在する)。
そして、この交通整理が結果的に日本版ムーラン・ルージュを悲劇として成立させるカギになった。
楽曲の中で、言葉の質量が完璧なまでにはまっていた楽曲は「Crazy Rolling(訳:栗原暁)」だったと思う。
一方で、創作要素が大きかった曲の代表格は「Nature Boy(訳:ジェーン・スー)」だった。英語版であったなら「詞=詩」の外にあるものを察してくれとなるところだが、日本語ではロートレックの変心をストレートに(といっても暗喩ではあるが)歌っている。
演劇の醍醐味のひとつに「表現されていない行間を読むこと」の愉しみがある。ただ、ミュージカルの歌においてそれをされてしまうと、物語からついていけなくなる瞬間がある。
情報を取捨選択していく中で、順番に排されていったであろう行間。
その結果、ポップスの軽やかさの中にも物語をダイレクトに伝えるミュージカルらしさを感じさせる歌詞が混在する日本版訳詞が生まれた。
物語の輪郭を台詞に完全に託した英語版はミュージックショーの様相が強いのだろう。一方、歌詞の取捨選択をした産物として、ストーリーラインが明確になった日本版からは音楽をノリノリに楽しむだけではなく、演劇として楽しむことができるようなプロダクトにもなったと思う。
そして、今回のプロダクションの重要人物は脚本を担当された瀬戸山美咲さんだったということを再認識にするに至った。
セリフはもちろんセリフとして訳されているのだが、訳詞においてどうしても捨てざるを得なかった英語のフレーズやセンテンスを脚本の中に丁寧に織り込んでいるのだ。
もっとも分かりやすいのは「The Sparkling Diamond」
「OR HELP YOU FEED YOUR PUSSYCAT」という歌詞には「子猫さえバイバイ」との訳があてがわれており、訳詞としては何ら問題ない。
だが、破裂音から始まる「PUSSYCAT」という象徴的な言葉を瀬戸山さんは捨てなかった。
「The Sparkling Diamond」直後のジドラーの台詞「You know what to do, pet」を「やることはわかってるな、PUSSYCAT」としたのだ。
歌詞の和訳で零れ落ちるものをすべて拾うことは難しい。
ただ、脚本による小さな救済の数々は、Broadway版のレプリカ制作という点で大きな役割を果たしたのではないだろうか。
日本語訳によるニュアンスやセリフの消失は常々頭を悩ませるポイントではあるが、完全版を観たいならば現地へ出向くが信条であるし、それを言いだしたならば日本で観られるプロダクトは消滅してしまう。
前述の洋楽好きの友人との会話で面白かったのは、ミュージカルを見るのが初めてだった彼女にとって、コアとなるべきはあくまでも楽曲であり、それが日本語になってしまったことへの不満であった。歌だけすべて英語であってもいいのではないかという指摘だ。
彼女の指摘はミュージカル=和訳ありきという私には真新しい視点であったが、そういった考えもあるのだなと大変興味深かった。
一方、ミュージカルを普段から見慣れている立場からすると、日本語プロダクトとして破綻なく成立するので有ればどういった手法を取ってもいいと考えてしまう。また、英語のポップスを日本語を母国語とする人たちが理解できない可能性=リスクの高さを意識せざるを得ずの方が高く。それならば日本語訳すること自体はポジティブであろうし、音の洪水を楽しむ英語版をレプリカという制約下では許容される水準にあったのではないかと思う。
例えば、このミュージカルの中で1、2をあらそうほど大好きな楽曲のひとつ「Crazy Rolling」ー
そのなかでもひときわ印象的だった歌詞がサティーンの歌唱部だ。
「深い深い失望の淵で(Think of me in the depths of your despair)」
「永遠(とわ)に私を待ち続けて
(Make a home down there, as mine sure won't be shared)」
娼婦の仮面を被ったサティーンという女性の真の姿を、観客は初めて目の当たりにすることになる重要なフレーズである。
この歌が歌われる2幕最終盤に至るまで、ロートレック=他者のセリフを介してしか彼女の内面を観ることはできない。
「Fireworks」や「Only Girl In A Material World」で内省的な歌唱はあるが、サティーンの中にある激しい情熱がここで初めてあふれ出す。
英語詞のまま直訳、すなわち「貴方はそこに家を建てて 当然、私は住まないけどね」となっていたならば。
1幕でクリスチャンが夢を語った「Your Song」ー
「君と住む家が欲しいんだ(I’d buy a big house where we both could live)」
のアンサーソングとなるはずだった。
「Rolling in the deep」の、この訳詞ひとつでサティーンのキャラクターの方向性が大きく変わると思っている。一方、英語の上演スクリプトを見る限り、サティーンのキャラクターの方向性は日本のものと変わりがない。
そういった意味で、英語脚本の方が歌詞とセリフによって表現されるサティーンの間に乖離があるように私には思えるのだ。
バズ・ラーマンが語った悲劇性。
「ジュークボックスではなくミュージカル」と評したアメリカ人同僚。
これらの印象はこうした細かな調整の上に生まれた産物であると思うし、その面白さこそがミュージカルであるとも感じている。
元々洋楽にもポップスにも明るくない私にとって。それがいくらジュークボックスのマッシュアップであったとしても、あくまでも「ミュージカル」として作品を楽しみたいとの気持ちが強いことを認識した箇所でもあった。
そんな和訳によってより活きたキャストは演劇的アプローチの土台がしっかりしている芳雄クリスチャンであり、望海サティーンであり、上野ロートレックであった。
August 19, 2023 Matinée - Last Dance with 望海サティーン、伊礼デュークの狂気、クリスチャンの真実
10日以上の間をあけての観劇は、大変ドキドキするものであった。
前述の通り、これほど間が空いたのは中だるみからの逃亡にあったからだが、結果、杞憂に終わった。
上野ロートレック、中井サンティアゴのペアは久々の観劇だった。誠実さとある種の神経質さを併せ持つロートレックとコミカルで歌唱の圧、そして暑苦しい熱を持ったサンティアゴのペアだ。
初見時、上野さんの演技により、芝居に落ち着きと深みが出るペアだと感じた一方、歌のバランスが良くないように感じた。
Preview初日、Team Elephantの井上・上川・中井のハーモニーがミュージカルとして観たときにあまりに完成され過ぎていたことの弊害、また、上野・中河内ペアのバランスも絶妙であったからだ。
久々に見たこのペアは、自分の個性は殺すことなく、絶妙なハーモニーを響かせていた。
ロートレックは実在の人物であり、様々な逸話、それもムーラン・ルージュや女性関係にまつわる話が知られている中。舞台ではどのように表現されるのかなと思っていたが、多少足が不自由という程度で適度なファンタジーとなっていた点、似て非なる人物として受け入れることができた。
デュークから呼称を改めるよう言われ「公爵」と言い返すシーンはロートレックの見せ場のひとつだが。
由緒正しき貴族の子息であるロートレックがデュークを「公爵」「領主様」と呼び、ボヘミアン精神のもと革命の理念を説く。
「私は君たちのド派手なプロレタリアショーに金を払っている貴族だ。この皮肉がわかるかな」そう激昂するデュークと無意識に対比してしまい、むしろそのことに強烈な皮肉を感じてしまうのだ。
上野ロートレックはサティーンやジドラーとともに同じ時代を生きてきた、彼女たちの苦楽を知る伴走者のように見える一方、サティーンへ告白できなかった過去の自分から逃避し続けた結果、精神的に達観した落ち着いた人物のようにも見える。
今回の公演を楽しいと思う一方「あと一声」と思う要素がいくつかあった。一滴の潤滑油が、小さな歯車がひとつがはまったならば。
物語が数段深化するのにというものだった。
そのひとつが伊礼デュークであった。
noblesse obligeを体現したかのような人間であると書いたが、彼のデュークは何もかもが美しかった。佇まい、そして怒りの表現に至るまで己の感情を押し殺した表現は金で買った女性とはいえ、その人を奪われたことへの哀しみの感情が強く、彼女への愛情の深さが感じられた。
「ムーラン・ルージュ」の下敷きとなっているのはオペラ「椿姫」や「ラ・ボエーム」だ。
クリスチャンはアルフレード(椿姫)/ ロドルフォ(ラ・ボエーム)で、デュークはドゥフォール男爵 / アルチンドロであるわけだが、伊礼さんのデュークにはアルフレード的な純粋さ、そして「いい坊ちゃん」臭がある。
それ自体は大勢に影響はないのだが「耳から耳まで、のどを引き裂く」残虐性が如何なる瞬間にも垣間見えないことが気になっていた。
残虐さでなくともかまわない。ただ、サティーンがクリスチャンを守るために本心に反して彼を拒絶するに至る「何か」が欠けていた。
「オルセー通り37をご存じかな?」
伊礼デュークの出した答えはとてもシンプルだった。
怒りの増幅、彼女の裏切りに対する自らの怒りの感情をストレートに打ち出した。怒声と思わせるほどに激しく、流麗でフェルマータがかかっていたセリフは怒号によりささくれだったものに変化し、クリスチャンの住所を投げつけるようにサティーンに浴びせたのだ。
デュークは初めての逢瀬でサティーンに宣言している。
「俺は全てを持つ男 あの詩人の命奪う 罠をしかけた」
さらっと歌ってたひとこと、そして「あいつは馬鹿じゃない、気を付けて」とサティーンに忠告したニニのセリフが私が観劇した日に限っていえば初めて綺麗につながったのだ。
そして。
このデュークに対する望海サティーンの演技が秀逸であった。
望海サティーンは全体を通して、固い殻に閉じこもっており、それはデュークに対しても同様だ。平原サティーンはデューク相手に芝居を打つが、望海サティーンはあくまでも殻の中にいるのだ。望海サティーンはクリスチャンに対してもすべてをさらけ出しているわけではないだろう。
クリスチャンとの逢瀬をデュークに突き付けられてさえも微笑んでやり過ごそうとする。平原サティーンのハッと表情を曇らせる演技とは対照的だ。
この日の望海さんはいつものように微笑んでやり過ごそうとした。だが、伊礼デュークが発する怒りと憎悪に上手く微笑むことができない。ひきつった微笑から何かを返そうと口を必死に動かそうとするが、結果何もすることができず。必死の微笑を何とか保ったままカウチに座り込んだ。恐怖で表情を変えることができない。
この芝居はこの日の伊礼デュークの芝居へのアンサーとしてこれ以上ないものだった。
さらに印象的だったのが、デューク邸を訪れたクリスチャンとの芝居だった。口火を切ったのは井上クリスチャンだった。
「俺はサティーンのために来た」
以前のクリスチャンは極めて盲目的でサティーンのことしか目に入っていなかった。デュークのことは見えておらず、全てのセリフはサティーンをから目をそらすことなく発せられていた。
8月に入ってからその矛先がデュークに向かうようになったと記憶しているがこの日「彼女の意思を確認したらどうだ?」とのデュークのセリフに。
芳雄クリスチャンに動揺と怯えが走った。
デュークをはっきりと見つめ、顔をそむけたままのサティーンを一瞬目に入れ。デュークの視線を気にしながら、そして大いなる不安の中「僕と一緒に飛び立とう」と言ったのだ。
喪失の恐怖を目の前にした若者の造形がそこにあった。
「貴方は私にとって何の価値もない 何でもない
貴方には何も感じない 何も」
クリスチャンに浴びせかける冷たい言葉。
うなだれる井上クリスチャンを前に望海サティーンは首を垂れたのだ。
もし、クリスチャンがあの瞬間、自らのうなだれた首を持ち上げ、彼女の姿を瞳に写したならば。彼女を抱きしめ、連れ去っただろう。そう思わせるほど、どうにもならないという状況まで彼女は打ちのめされていた。
そして、いつもならばサティーンを見つめ返す井上クリスチャンは。
この日、顔を上げることはなかったー
顔を上げたならば、その後の「Crazy Rolling」が破綻してしまうからだ。
デューク邸を出る瞬間も、彼女の姿をはっきり見るのではなく。うなだれた状態で軽く首を振り。目の片隅に彼女の姿を引っ掛けるだけにして去っていった。
井上クリスチャンが部屋から去るとき、意図的に靴音を響かせて出ていくところが好きなシーンのひとつなのだが、この日の感情が失われた規則的な足音にクリスチャンの絶望が滲みだしていた。
「お前は俺のものだ」
デュークが腕を強く握りしめ、サティーンが強制的に顔を上にあげさせられるまで望海さんはうなだれ続けた。
この演目を複数回観てきて、このシーンで自分の心が引き裂かれたのは初めてのことだった。
なお、余談だが8/26の公演にて伊礼デュークはサティーンに対したっぷりと怒声を浴びせた後、落ち着きを持って「お前は俺のものだ」と言い放ったのだが、その演技にもまた震えた。
舞台版デュークはなかなかに辛い役回りだ。
映画版で用意されているハイライトが、舞台版ではがなくなり、彼の残虐性はニニのセリフでしか表現されていない。
さらに、彼の持ち歌2曲は歌唱力が求められる難曲というわけでもない。故に、この芝居の中で最も演技力が求められる役のひとつだと思われる。
この日、芝居面で初めて物語が繋がったことで、いろいろと腑落ちするものがあった。
伊礼さんもKさんもそれぞれの持ち味を活かした魅力あるデュークであった。ただ、この日見せつけられたデュークの残虐さを示唆する演技が芝居全体を一気に引き締めるさまを目の当たりにして。
再演時にはもう一段「凄み」のあるデュークを期待したいと思った次第である。
10数日ぶりに観たムーラン・ルージュで、その変化に一番驚いたのは芳雄クリスチャンの「Crazy Rolling」だった。プレビュー初日に観たときから彼の畳みかけるこの歌唱には叩頭するばかりだった。
だが。初日から7月半ばまでは今振り返ると「綺麗」なものだった。感情はしっかりと伝わってきていた。
一方、「愛の傷跡 悲しみの足音」「愛の傷跡 苦しみの雨音」と言ったリズムにしっかりと言葉を乗せることが難しい箇所を意識的に歌っている=観客にクリアに聞こえるように届けようという意思を感じるときもあった。
今、あの歌唱を聴いたならば。
それはひどく物足りないものとして響くだろう。
テクニカルな部分が確立されたであろう8月頭から語尾に感情を発露させるようになり、ミュージカル的色彩が更に強まっていった。
そして8月後半、彼の千秋楽まであと1週間となったこの日。
1曲の中で、いや、1フレーズごとに変わる歌声からはクリスチャンの中に湧き上がるありとあらゆる感情が千々に乱れる様相が見え。
クリスチャンの狂気と絶望、激しい怒りがーあらゆる感情のうねりが。
大きく息を吸い込む音、むせび泣く声、震えるように絞り出すような声ー時に喉の奥から振り絞るように叫び。上ずるように「もう聞きたくない」と嘆願の悲鳴を上げるが、そのどれもがクリアに、慟哭として、ときに咆哮として客席に響いてくる。
そして、舞台全体が見渡せる中央、オペラグラスなしでも役者の表情が見えるその日の座席からは彼の慟哭の全てを受け取ることとなった。
確固たる技術と経験の上に作り上げられたクリスチャンの造形に。
この人は。「井上芳雄」というミュージカル俳優はどこまで人の想像力という名の海で自身を開放し、その世界を広げていく気なのか、とー
人が現実世界においてあそこまでむせび泣き狂ったように泣き叫ぶことはないだろう。一方、ミュージカルでは登場人物が観客に向かって己の内面をさらけ出すことで物語が進んでいく。
クリスチャンのさらけ出された心、彼のボロボロになった痛みを感じることもできないほどに傷ついた心に触れてしまったということが、重く自分にのしかかってきた。
そして、この日はプレビュー初日から観てきた望海サティーン、最後の観劇となった。
望海さんにとって。おそらく今までで一番苦しい舞台だったのではないかと推察する。彼女にとって初めてのWキャスト、そしてその相手は圧倒的歌唱力を持つ平原さん。それも平原さんが主戦場とするポップス主体のミュージカルだった。
望海さんと平原さんは同じ「歌うま」でもそのカテゴリー、ジャンルが全く異なる。持ち味が違うふたりだからこそ、全く異なる舞台になるだろうし、そのことを楽しみにしていた。
プレビュー初日、彼女に輝くダイヤモンドを見出すことができなかったとき。とても残念な気持ちになった。その後、右肩上がりに調子を上げる彼女を、そして平原さんのサティーンを観て感じたのは、望海さんは平原さんと別のフィールドでの勝負、すなわち演技に振り切ったサティーンを演じようと足掻ているのではないだろうかということだった。
「Fireworks」の曲終わりや「Your Song」でクリスチャンが「精一杯の愛を贈ること」と歌ったとき。平原さんは当初より音終わりに合わせてカウチに座り込んでいたが、望海さんは芝居を優先し、音をあえて無視し、サティーンの心に従い座っていた。
だが、締めるべきところを締めることで気持ちよく収まる作品であるがゆえに、芝居に引きずられ過ぎてバランスを欠いているように私には見えた。
望海さんの芝居には様式美がある。その様式美を芝居同様、歌に落とし込むだけで十分に平原さんとは異なる魅力をもつサティーンとなるはずだったからだ。
そういった小さなものを、望海さんはコツコツと修正していった。
座り込むタイミングをかちりとはめること、サティーン登場シーンの空間支配の手法、デュークを部屋に招き入れる際の所作やタイミング、衣装の捌き方などなど。
平原さんのいいところは盗み、自分の持ち味を最大限に活かす方向に舵を切った結果、望海さんの芝居がムーラン・ルージュという作品に嵌るようになっていった。
また、練習のペアが井上さんであったこともひょっとしたら彼女の迷いのひとつとなったのかもしれないと感じたこともある。井上クリスチャンはこの作品をミュージックショーではなく芝居として届けるという点に主眼を置いていたように思う。
その中で望海サティーンが目指すところも芝居としてのムーラン・ルージュにたどり着いたのではないかというものだ。
望海井上の組み合わせは悲劇性が増す。
にもかかわらず、ふたりの芝居がかみ合うと、まるで悲劇の中において一番いい結末にたどり着いたかのようなー綺麗なハッピーエンドを感じさせるものがあった。
そして、この日の「Come what may」では陽だまりの中、ふたり手を繋いでうたた寝をしているかのような幸せを感じるに至った。
現実の辛さから完全に目を背けることはできないこのふたりのペアは。来ることがないであろう未来を切なく語り、今あるものをすべてを受け入れて生きるふたりの姿であった。
タイトルにミュージカルとついてはいるものの、この日、私が目撃したものは芝居としての日本版「ムーラン・ルージュ」の完成形だった。
私にとって、これ以上ない望海・井上ペアの千秋楽だった。
August 24, 2023 Soirée - 「Material World」平原サティーンの絶望
観劇に際し、母からのリクエストは「平原さんと井上さんで。他のキャストと日程は任せる」というものだった。
井上さんが千穐楽1週間前になると兜の緒を締めなおし、それまで存在しなかった最上位ギアが出現することを身をもって体験している身としては、彼のベストパフォーマンスとなるであろう前楽で観てもらいたいと企み、チケットを申し込んだ。
10数回目にして1階S席では初めて上手のサブセンターに座した。今回、チケットの偏りが著しく。その大半が1階下手サブセンターブロックの前方~中盤、そして2階センターブロックであり、視点が固定しがちであったのを残念に思っていた。
上手からの景色はこれまで見てきたものとは異なるもので、大変に興味深いものであった。
代表的なところでは「SHUT UP AND RAISE A GLASS」でサティーンを落とせとクリスチャンを舞台中央に押し出したロートレックとサンティアゴが上手のボックス席に隠れるようにしてクリスチャンとサティーンを見守っていたこと。そんなことさえ初めて観ることとなったのだ。
この日、微かな違和感を感じたのは「The Sparkling Diamond」の歌い出し「ダイヤは永遠」だった。
「ダ」の音を囁きのような繊細さと丁寧さをもって平原さんが歌い出した時だった。初めて平原サティーンを観た日に、第一声に思わずため息と笑いと涙が込み上げてきたのだが。その日以来初めて、同じことが起きた。
そして、この日。
彼女が歌う「The Sparkling~」の歌詞の全てを聞き取ることができた。
彼女の歌声はパワフル過ぎて。マイクを通すと席によってはハウリングを起こすこともあるし、彼女自身がポップスの音感を伝える方に寄って歌うこともあり。望海サティーンでは聞き取れるフレーズが聞き取れないということがままあったからだ。
音響のセッティングが安定したのち、センターを基準にした際、下手の同列同エリアにて観劇しているため、ここにきて再び音響が変わったのかと思ったのだが、彼女以外の声は変わりなく聞こえていた。
「SHUT UP AND RAISE A GLASS」のクリスチャンと一緒に歌うパートのからりとした歌い方に、彼女は本調子ではないのかもしれないと思ったし、その後もその状況は変わりなかった。ただ、とても恐ろしいことに自分が過去に彼女のサティーンとしてのパフォーマンスを観ていたから気が付いたというだけの話であり、現に母は何の違和感も感じてはいなかった。
スタッカートや緩急がより明瞭になった歌い方とクリアな発音による明瞭さと丁寧さは「その場の空気を感じて」という彼女のスタイルとは一線を画すものであり、彼女のサティーンを一層魅力的にした。
その明瞭さと丁寧さが「感じて」ではなく「伝える」に変化した影響は芝居そのものにも及んだ。死を間際にした彼女の声はクリアに聞こえるもののとても細く、そして震えていた。
デュークからの右手の甲へのキスを拒絶したサティーンが叫ぶように声を絞り出した。その声を耳にした上川ロートレックがシルクハットの下でむせび泣いていた。彼の芝居は観客の心そのものだった。
上川ロートレックは上野さんとは異なり少しお調子者のようなきらいがある。上野さんが博愛の人であるなら上川さんは女性のことが大好きで仕方なかった実際のロートレックを彷彿とさせる。
「君のことはわかっている 君は僕によく似ているからね」
「"悲劇俳優"…ってとこかな」
サティーンと語らうセリフにふたりのロートレックとサティーンと距離・関係の違いが滲む。
上野さんのロートレックはサティーンは「悲劇俳優」同士、背中を預けて語り合うふたりには歴史があるが共有しているのは現実の世界、「今」だ。
そして上川さんが演じると同じ時間をパリでともに生きてきた、鏡に映ったもうひとりの自分になる。欠陥品である絵描きとやせ細ってボロボロ、体を売る13歳の娼婦。自分の一番見られたくない姿を知っている同士、そして互いの中にそれぞれの姿を見出しているように見えるのだ。
むせび泣いたロートレックはデュークが去った後、背後からサティーンを支え。デュークを拒絶したサティーンの右手の甲へキスを落とした。
今まさに彼女の命が潰えようとしている。ふたりの芝居からそのことが痛いほど伝わってきた。
「手の甲にキッスなんて 洒落てるけど」
「素敵なキッスも 家賃にさえ ならない」
1幕、サティーンが男たちを目の前にパフォーマンスとして歌った「The Sparkling Diamond」
2幕、デュークから差し出された手を取り、自分の心を裏切りながら内省的な歌唱として歌われる「Only Girl In A Material World」
2シーンを通じて紡がれてきた「Material World」の歌詞が。この日の3人の芝居で完成したのだ。
平原さんの演者としての押し出しの強さとマイペースさが好きだ。一方、それ故にどうしても演じられる役柄は固定されると思ってきたし、向いているであろう役でしか観てこなかった。
今回のサティーンについても、その不安がなかったわけではなかった。
死の淵に立っても力強い彼女の歌唱はオペラに通じるものがあり、ミュージカルでその歌唱を受け入れられるのかということを考えたこともあった。
力強い歌唱は最後まで変わらず。ただ、状況の変化や細やかなニュアンスがしっかりと伝わる歌唱へと進化と深化を繰り返した点はミュージカル俳優としての平原さんのニューステージを見た思いだった。
日々のフィーリングを大切にし、その場の空気をしっかり読む。帝国劇場を自分色に染め変えていく姿は見ていてとても楽しかった。
特にラストスパートにおける喉に負荷がかかる局面で、演技者としての新たな側面を拝見し。また気色の異なる役も演じて頂ければと思うところだ。
そして、平原さんはミュージカルの指揮者泣かせの演者だと思う。
特に今回のようにオーケストラが視界にないときには。
元々、その場の空気で歌い方も芝居も変える平原さんだが約3週間ぶりに見た平原さんは自分の心にさらに素直に、そして「自由」になっていた。
「Fireworks」の入り、そしてその次のフレーズ、さらに次もー
安定したメロディーに入るまで心の赴くままに歌う平原さんにピアノと指揮を兼任する桑原さんが集中の限りを尽くして合わせに行く音が聞こえた気がした。なお、次のステージ(8/26M)ではそれ以上に自由になっておりー大千穐楽で彼女がどこまで行ったのか、気になっている。
なお、最後に拝見した望海サティーンも。
「Fireworks」においてその自由への扉を開け放っており。
千穐楽で平原さんが語った通り「決して一緒に舞台に立てないふたり」が。最後まで互いに影響を与えて高みを目指す姿が好きだった。
August 26, 2023 Matinée - 井上クリスチャン千穐楽
8/26 11時半。地元の駅改札前でTwitterを開いた。公演に関する如何なるアナウンスもないことを確認し電車へと乗り込んだ。
大千穐楽までは間はあるものの、私にとっての最終観劇日がついにやってきたのだ。友人知人の全てがいるのではと疑いたくなるほど、Twitterには「帝国劇場へ!」の文字がずらり並んでいた。
これだけ大所帯のカンパニー、ハードな密集型の演目で。
休演がなく、駆け抜けることができた演目を直近思いだすことができず。大千穐楽まで1公演も欠けることなく全員で走り抜けることができたことに、改めて感謝したい。
井上さんのラストクリスチャンを観られること、友人たちと会うことー
この怒涛の2か月の打ち上げパーティーである千穐楽に参加できるというそのことがすでに楽しみだった。そして、2024年再演の発表があるならば、この日しかないとも密かに思っていた。
自力ではチケットを入手できず、同行させて頂くことになった。
そして、劇場前で差し出されたチケットは衝撃的な座席だった。
これほどまでに観劇回数を重ねた演目であったにもかかわらず。
1階席の本当のセンター席が1回もないことを残念に思っていた(2階は3回中央の席で観劇)。演出の意図を理解するにはやはりセンター、できれば1階と2階からそれぞれ一度は観たいというのは自然な欲求である。
そんな席にーただ、演出意図を理解するにはあまりに近すぎて全体を把握できないのが難点であるがーよもや千穐楽の日に、座ることになろうとは思わなかった。
開演時間13時を5分ほど過ぎたころー
劇場内にクリスチャンが足を踏み入れた。
さぁ、開演だ。
いつものように。
劇場内をゆっくりと見渡し。
いつものように。
舞台下手端の定位置に立ち虚空を見つめた。
微笑を浮かべるまでの数秒ー劇場の空気が止まった。
立ち止まり幕を上げる動作に入るまでの間に、クリスチャンの寂寞、井上さん自身の万感の思いが見え。そして、寂寞のなかに清々しさの入り混じった微笑を浮かべた彼はマイクに入るようしっかり息を吸い込み、幕を上げる動作へと移った。
千穐楽ということを改めて実感するに至った。
たったこれだけのことで、涙が零れそうになることがあるのだ。
「なんてすごいんだ!」
観客の熱量は凄まじかった。
大量のカスタネットが鳴らされるその渦の中にいる、プレビュー初日に戻ったかのような錯覚に陥った。海外クリエイティブたちが大きな声を上げて作られていた、日本の観客たちが恐る恐る声を出していた空気感が。
観客によって生み出されていた。
「いつもは目が合わない人とも目が合うし、みんな心なしか優しい目で僕を見ているような気がする」そう井上さんは言ったけれど。
見ている観客にもそのあたたかな空気は伝わってきていた。
「Elephant Love Medley」に至っては平原サティーンから投げキッスまで届けられた(個人的には24日に平原サティーンがハートマークを作ってから芳雄クリスチャンの頭をよしよしと撫でたものが程よく気に入っている)。
最後の1週間ー
井上さんはクリスチャンの造形をまたひとつ変えた。
帝国劇場という大きな劇場の中で、若さの表現をより自分に近づけ広げることにトライしていたのではないかと思ってみている。
少し大仰に動かしていた身体の動きをコミカルパートはそのままに、自然に動かしてみたり。
「僕と星を旅しよう!」のセリフからはエクスクラメーションマークが取れたことであどけなさは若さに変化した。
「Elephant Love Medley」の歌いだし「この夜を僕にくれないか」はサティーンへねだる表現から問いへと変化した。
2幕頭のモノローグは自然なせりふ回しであるにもかかわらず彼が青年であることを感じさせるものとなった。
サティーンとの逢瀬「今夜来れるの?」で上気している感覚、サティーンにいなされた後のがっかりは小さくなった。
挙げだしたらきりがない。
新しい表現が次々と生まれてくることに目が離せなかった。
千穐楽、サティーンの幻影に手を伸ばして幸せな微笑を浮かべた「Chandelier」から自らの歯車を狂わせていく「ROXANNE」「Crazy Rolling」、そして「Come what may」に至るまでの一連の感情の渦はすさまじく。観客として辛くもあった。
そして。
本当は千秋楽の感想を書くつもりはなかった。
それが今こうして筆を執ったのはクライマックスに平原サティーンと芳雄クリスチャンが放った演技だった。
「マリー」
平原サティーンの今にも消えてしまいそうな姿が一層儚くなったあの日。
劇中劇、舞台中央に立つサティーンのもとにクリスチャンがやってきた。
いつものように、足音を綺麗に響かせてー
クリスチャンの声はこれまでになく低く。
マリーとして芝居をするサティーンのセリフにかぶせるように発せられたセリフには最低限の抑揚しかなく。感情の波が消え失せていた。
だが、サティーンはクリスチャンが現れたことで心に凪と平穏が訪れているように見えたのだ。絞り出すようなセリフ、だが、辛さの中に幸せのかけらが見える。彼女は泣いているのに微笑んでいるようだった。
この日、「Chandelier」でクリスチャンがグリーンフェアリー=サティーンの幻影を追いかけ恍惚のなか、ふわりと笑った姿に重なった。
「深い深い絶望の淵で 永遠に私を待ち続けて」
「Crazy Rolling」の歌詞で最もハッとなったサティーンの歌唱部分だ。
「貴方は私にとって何でもない」とクリスチャンを前に演技してみせたサティーンがみせる情念に。生への情熱、舞台に立つこと、そしてクリスチャンへの執念や執着心が見える。
そのサティーンが浮かべた柔らかい笑顔に「ときどき、子どもの時みたいな無邪気な笑顔を浮かべる」と語ったロートレックの言葉がフラッシュバックした。深い絶望の淵に沈むクリスチャンでさえ、サティーンにとっては救世主になり得るのだと。
最後の観劇において、全く新しいフェーズに物語が引き上げられていた。
「僕の心は壊れそうだ」
そう言ったクリスチャンの心が崩壊していることはプレビュー初日から感じていた。表情は見えずとも、声が、背中が泣いていた。
そして、8/24に初めて1階上手方向からこの芝居を観て。彼は自分の心の形を保つことができないほどに壊れていることを直視するに至った。
「僕を見て…僕を見て! サティーン!」
ふたりにとっての千穐楽のこの日。
彼女にとって光であったクリスチャンが深い闇の底から発する声にサティーンの嗚咽が止まらなくなった。それでも必死にくしゃくしゃの顔を客席に向けようとする平原サティーンの姿に自分の感情が大きく引き摺られそうになったその時。
クリスチャンは客席正面を向いた。
暗闇の中、彷徨う男が。
懇願を拒絶された、一縷の望みさえ絶たれた男が。
この公演期間中で、おそらく初めて。
光の褪せた絶望の淵に沈んだその表情を観客に見せたのだ。
「何のために生きればいい 愛のためじゃないのか」
彼女にしか見せなかったその表情が観客に開示された瞬間、張り詰めた舞台の上でふたりの感情が爆発するのが見えた。
同じ舞台になぜ何度も通うのかと問われれば、「同じ舞台はふたつとないから」と答えるし、そのことを欠片も疑っていない。
ただ、同じ舞台はふたつとなくとも、基本的には類似するものであるし、複数回観劇する理由がわからないという人の指摘もわからないでもない。
だが、突如として訪れる瞬間があるのだ。
ひとりひとりの芝居が奇跡のように絡み合い、まるで現実の物語のように目の前に現れる瞬間が。
そのたったひとつの芝居が、嵐のような感情を自らにもたらす瞬間が。
「ムーラン・ルージュ」という作品は実は特別な演目ではない。
ストーリーはシンプルだし、演出も破綻はないが、かといって特筆すべき点は特に思いつかない。
お金をかけた究極の娯楽作の物語にー
深淵があるのかと尋ねられれば、否と答えるだろう。
豪華で繊細な舞台セット。
細やかな配慮がなされた衣装。
華やかな照明。
ライブの舞台とは思えぬほどの音響。
そして、圧倒的な演者の実力。
その上にしか成立しない舞台だ。
蟻の一穴すら許されない舞台で、そんな瞬間に相まみえることなど誰が想像しただろう。
千穐楽ののち、燃え尽き症候群に陥るのではないかと友人と話していたこともある。だが、あの素晴らしい一瞬に出会ってしまいー
ただただ、幸せな気持ちだけが私の中に残った。
千穐楽の前までは。
来年の再演をどのような気持ちで待つことになるのだろうと思っていた。
だが、今は一抹の寂しさもなく。
ただただ、楽しかった思い出。
そして、来年が楽しみという気持ちだけが胸の中に残った。
完全燃焼である。
訳詞や脚本の詳細部、ダンスに衣装。
それぞれの役の違い。井上さんの歌をセリフとして乗せたことー
語りたい話は尽きないが、今回はこれにて感想の筆をおくこととする。
ロートレックのように「いくつか修正がある」と言い出す時が来たら。
その時は笑って欲しい。
日本に生まれて、ミュージカルを知り。これまでにたくさんのミュージカル作品を国内外で観てきた。
そんな私にはひとつの夢があった。
Broadwayにあがる作品が生まれるところから、形になっていく過程を追い続けたいという夢だ。映画「The 42nd Street」を観たときからの夢である。
現状、日本で暮らし、NY赴任/勤務の予定がない私にとってはそれは夢の夢であるのだが。
「ムーラン・ルージュ!」は既に完成をした作品ではあった。とはいえ、日本で上演するにあたり、向こうのプロダクションチームがどのように動いたのかということを見ることができたし、その調整の過程はひどく興味深いものであった。
テクニカルな面など少々、書きすぎのきらいはあるものの、この作品が来年上演される際には、2023年における完成版を土台とすることが明白であることから、2023年を私なりの言葉で遺すものとする。
楽しい夏だった。
千穐楽から一週間余り、今の私は怒涛の如く押し寄せるセリフの言の葉の海に沈み、繊細な演出に溺れたいという強烈な欲望にかられている。
1年分の「楽しい時間」を全力で楽しみ切った2023年の夏。
これにてALL UP。
À bientôt, Moulin Rouge!