エマニュエル・レヴィナス 顔を考察する

フランスの哲学者レヴィナスほど「他者」(顔)へ関心を持った哲人はいない。ナチスによってパリで捕虜となり、捕虜収容所にとらわれていた。結果、大量虐殺から逃れることができたが、故郷の近親者は根絶やしにされてしまう。彼は、全体性の観念の拒絶を強く発信しているのである。

全体性と言う概念は、西洋的理性を「全体主義」にまで至らしめたのである。よそ者を同一のものという軌道の中へ送り込み、差異を根こそぎにする試みである。歴史は闘争の歴史である(マルクス)。しかし、この闘争は異なるものが同一の中に吸収されることで消えていく過程でもあった。マルクスも援用したヘーゲルの「弁証法」には他者を吸収し、差異を乱暴なまとまりの中に同化することが目論まれていたのだ。

差異を絶対的全体性の指令のもとで否定するように導かれていくのだ。このような全体性は常に権威主義的で、暴力的な作法で構築されるが、ローゼンツヴァイクが『救済の星』でも語った、いかなる同一化によっても解決されないような関係(一種の無限性)を持ち込むことが重要なのである。

近代においてデカルトが有限として人間の対極に無限としての他者=神の存在を置いた。他者の中に神がおり、重要なことは他者との倫理的関係である。この倫理関係が、同一化への抵抗、無限性の象徴となるのである。倫理関係は解消不可能な無限性を同一のものの中で展開し、このような抵抗が「他者」の顔が輝き出す発露となるのだ、と『全体性と無限』の中で語っている。

多かれ少なかれ組織では他者は同化されていく。そのほうが運営上、便利であり効率的でもあるからだ。
そこでレヴィナスは「顔」に注目する。顔だけはどれだけ、抑圧し同化しようが各々異なる。これこそが100%同化はありえない証拠であり、ここから他者への「無限の責任」を語っていくのだ。

さらに彼は他者の存在そのものが倫理であると言っている。同化不可能性は、顔同士の対面で理解されるのである。「私」が仮に他者を認めることができるとしても、彼の気持ちを完全に汲み取り、彼の場を私が占め、彼の代りに死ぬ、生き返ることはできないことは明らかだ。あらゆる形の疎外、不条理に抵抗する象徴が顔であり、この顔こそが全体性を否定する根拠となる。

むき出し、無防備なこの顔によって殺人が禁じられているのだ。喜び、苦痛、嘆願などの感情を表す顔が殺人を禁じ、他者が持つ絶対的な特異性、差異性を担保しているのだ。殺人を踏みとどめさせるものは、道徳的要請ではなく、無限に「殺すな」という他者の顔である。全体性の中に、全体性を免れるべく顔が入り込み、この抵抗点が生まれることで「軽やかな全体性」となる。(種や民族もしかり)

レヴィナスは「哲学とはその全てがシェイクスピアをめぐる考察」だと語る。究極の人間ドラマから得る教訓は、「対話だけが暴力から逃れる路だ」である。挨拶、譲り合い、これはすでに倫理的関係の実践であると彼は言う。他者に対する無限の敬意の表明で、顔に呼応して責任を果たそうとする証左である。
レヴィナスにとって人間関係は「倫理的であるべき」ではなく、すでに倫的なものなのだ。人間関係は本来、完全対等はない。(立場、国籍、性差、境遇、生年など)こう考えると他者との交わりは、その差を埋めること、他者の顔の受け取り行為が不可欠なのだ。

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