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二十四節気に思う
2/3は、立春。いつもよりも1日ズレているのは、地球の公転が365日ジャストではなく6時間多いからだと聞きました。どうやら太陰暦と太陽暦の数合わせということらしいですが、そのあたりの数的分野には興味ないので、この程度で逃げる純文系男なのでした。
暦の上で春だというような話は、よく聞きますが、単純に気温で季節を感じる鈍感さを戒めているように感じます。俳句の季語も、二十四節気に則って定められています。まあ、高校入試程度では、「小春日和」の季節を問うイジワルぐらいで、鯉のぼりが夏で、天の川が秋という引っかけ問題は、見たことがありません。
わずか2年間だけでしたが、標高560mの場所にある、僻地校に勤務したことがありました。標高が100m違うと、気温は1℃違い、私の住む平地とは 5℃ も違いました。我が家が夏日の30℃ の時、ちょうど快適な25℃なのに、どの学校よりも早く冷房が設置されました。そして、下界が0℃ の時は、ー5℃ でした。出勤してクルマから降りると、冷気が鋭く喉に刺しこむ感じは意外に快感でした。
前任校があった町が、酷暑+豪雪地帯であったこともあり、まさに下界を見下ろす天上人になったような気分でした。赴任後の5月に詠んだ一句をご紹介します。この句には救いようのない過ちがありますが、おわかりの方いらっしゃいますでしょうか?ちなみに、雅号もこのとき思いつきました。
啼き競ふ うぐひす郭公 ホトトギス 宇想月
学校を取り囲んでいる深い森の中から、この3種の鳥たちの声が響き渡り、授業中の説明や発言を妨げるほどの音量でした。しかし、その絶妙なるタイミングに魅せられ、全校8名の中学生たちと聴き入った思い出があります。
校舎内禁煙だったので、まだ喫煙者だった私ら3名は、校舎から出て子どもの目が届かない場所に行きました。そこでも、こんな夢のような光景が広がっていました。
道路を渡ると水芭蕉の群生が見られました。その時の写真がこれです。美人な花でした。
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また、こんなことがありました。静寂の中、微かに聞こえて来た疾走音。その方向を見ると真っ白いウサギを追いかけて来るキツネ。私たちの目の前で追い付き押さえ込もうとしたら、こちらの姿に気づいたのか力を緩め、ウサギは必死に逃げ去って、ちょっとしょげた様子ながら猛追するキツネ。学校の正門前の出来事でした。すぐ近くの校舎に小中学生がいるのです。
自然豊かなどという言葉が、陳腐に響く土地でした。さて、そろそろ時間稼ぎを終了いたします。正解を発表しましょう。先の俳句には、重大な欠陥があるのです。何と季語が2つの季節に渡っているのです。
ウグイス(ホーッホケキョ) :季語は春
カッコウ(カッコー、カッコー):季語は夏
ホトトギス(特許許可局):季語は夏
残念!せっかくの名句も泡と消えました。考えずに、感性からするりと出て来た五七五だったのに。表記こそ、歴史的仮名遣いや平仮名・漢字・片仮名と、日本語のよさを意識してあるものの、自然に浮かび上がってきた句は、人生の中でこれしかありませんでした。
この学校に赴任するまで、「〜便り」類には意識して二十四節気を書き綴ってきました。しかし、だいたいが実際の季節感とのギャップを述べて、時の移り変わりが自分の都合とは関係なく過ぎて行くという、生徒たちをけしかける内容になっていました。
しかし、地上560mの土地では、秋から冬にかけて一致する場合があったのです。例えば8月上旬の立秋や11月上旬の立冬など、気温の低下はもとより、ふと見るとススキが枯葉色になっていたりと、ここならではの季節感がありました。気温差が5℃ ある不思議な感じでした。逆に、いつまで待っても春は来なくて、冷風にはためく鯉のぼりも見ました。
その学校は、結構離れた2つの集落の真ん中に建てられていました。1本道で結ばれています。朝、一応交通安全を意識して、校門前の道路脇に立っていました。一応、生徒指導主事だからです。道は広く、歩道も広く、車の行き交いはごくわずかでした。
美味なる空気を胸いっぱいに吸い込んでいると、両側から微かにカランコロンという音が聞こえ始めます。ランドセル脇に着けているクマ鈴です。それが徐々に近づいて来て、ステレオで聞こえて来るのです。そして、遠くに小さな集団が左右に見えて徐々に近づいて来ます。
1階が小学校。確か、高学年が複式学級でした。新入生は、たった1人。中3も1人。私は学年主任。ちゃんと学級担任もいました。給食の汁物で口をヤケドする、初体験もしました。
授業時数が足らず、免許外の小6国語も担当しました。校長が、中学校長である自分から小学校長である自分に派遣申請する書類を見せてくれて、大笑いしたこともありました。何もかもが、のどかな学校でした。
二十四節気を単なる知識ではなく、大きなズレはあるものの、日々の勤務中に体感できた2年間でした。1000人規模の学校勤務の時には、桜トンネルができる坂道がありました。しかし、いつ咲いていつ散ったのかも気づかずにいたぐらいです。ここでは、まさに花鳥風月そのものを堪能させてもらいました。
僻地という考え方は、国鉄の駅からどれだけ距離があるかという、前時代的な考え方に基づいているそうです。そこは、遥か昔の落武者が棲みついたという説があるようです。私が子どもの頃は、急峻な山道を登り降りして、辿り着く場所でした。しかし、現実は全く変わっていました。町場から、3通りのルートが確保されていたのです。
我が家から、勤務先まで信号ゼロ。緩やかな上り坂をクルマで走ること20分。通勤路までノン・ストレスでした。そして、僻地手当が給付されるという贅沢生活。わずか8人の生徒たちに、専門が国語、数学、理科、社会、英語という5名の教諭。技能教科の教員もそれぞれの得意技を活かして万全でした。私は、美術を2回目の免許外で担当しました。
なんの因果か、それぞれの指導力はAクラスばかり。これも贅沢極まりない学習環境で、羨む人も多くいました。よく個別指導をセールスポイントにしている塾などありますが、別次元の学習待遇でした。さぞかし、麻布・開成レベルのようですが、全く違っています。
ここは、あくまでも公立の義務教育学校。私は、マンツーマンの国語授業をしつつ、とてつもない違和感に陥りました。そして、学校の在り方について、考え込むことになりました。対象が1人でも40人でも、学習指導要領に定める同じ教育活動を行うのです。よく、「個に応じた」指導が望ましいとされますが、そこには1人しかいないのです。
そこは、今までの創意工夫したことが通用しない世界でした。そこには、授業の要となるべき、話し合いが成立しません。単にペーパーテストの解き方を教えるのは、簡単です。しかしそれは、学校のすべきことの上っ面に過ぎません。あまり好きな言い方ではありませんが、学校で養うのは「生きる力」なのです。
前任校も小規模校に該当していました。1年生75人の学年主任を命ぜられました。当時、県の施策であった1年生の少人数学級化により25人の3学級編成ということになりました。その生徒たちは丁寧な学習指導を受けました。そして、2年生になり、37人と38人の2学級になった時、多くの生徒がホッと息をつきました。「安心できます」という言葉を聞き、非常に驚いた記憶があります。
また、成人式や年祝いなどの宴会にお呼ばれして、担任した大規模校の教え子たちから話を聞き、なるほどと感心した例を紹介します。
「水面ギリギリで目だけ出して様子を伺い、余計ないざこざから逃れることができる。人がたくさんいるからこそ、逃げの姿勢ができる。少ない人数では、それができない。今は、小学校ではなかった気楽な学校生活を楽しんでいる」
大規模中学校は、大規模小学校と小規模小学校2校という構成が多く、これは30名未満の1学級だった小規模小学校出身者の話です。
更に自分のエピソードをひとつ。渋谷駅前には、よくテレビに映されるスクランブル交差点があります。横断歩道を渡る人々の行く方向は完全にバラバラで、都会の個人主義の象徴的光景です。行き会う人や前を歩く人に対する冷たい無関心。まだ20歳そこそこの若い感性に、強い違和感を与えました。
そこで、ひとつ企てをしてみました。都会は寒かろうと祖母が縫い上げてくれた赤っぽい柄の綿入れハンテンを着て、スクランブル交差点のど真ん中に立つ私。場違いの塊に対して向ける視線は、ありませんでした。変わった姿の私は、見られていない。ここには私を知っている人は誰もいないと心底実感した時、何とも言えない安堵感を抱きました。
話があちこちに跳びましたが、少人数は気楽ではないということを例示してみました。家族は別として、生まれも育ちも全く違う人間が、本人の意思に関係なく構成された集団が、学級なのです。逃げ場所が必要なのです。それが数名だとすれば、四六時中自分をさらしていく忍耐力が必要です。
ここで知ったかぶり発言をします。ユングのタイプ論による基本的態度の、内向ー外向で事情は異なります。私は基本的に内向的要素が多いので、逃げ場所を必要とします。集団に潜り込んで目だけさらしてタイミングを見計らい、時に外向的な行動を起こすタイプです。この天上人生活も、2年で良かったと思っています。
1100人の大規模校生活も11年。初めて転任希望を出して、小規模校と僻地校に勤めました。ある日、以前同職した後輩女性にお世辞混じりに言われました。
「町場の大きな学校の方が、似合ってますよ」
最後の勤務校は、地区で一番大規模な学校でした。これを、本能と言うのかもしれません。結局、過労死寸前で転職するわけですが、毎日カレンダーを見て、二十四節気や六曜などを確認する習慣が身に付きました。ちょっと心の余裕ができたのは、あの僻地校勤務のおかげだと思いました。心豊かになっていたのです。
私の名前は、二十四節気によってつけられたそうです。当初の読み方は、何とオサムちゃんだったそうです。私は、「立夏」の日に生まれました。夏にちなんだ漢字を探す中で、良い画数の7の字を見つけ、決定されたとか。東京23区の電話帳だったか。全く同じ字の同姓同名が35人もいて、驚いたことがありました。字源辞典で調べると、中国の国境に建てられた見張り台という意味だとか。単純な一文字ながら、今は好きになっています。
いくら仮想現実が幅を利かせても、私たちは太陽を公転し、自転する地球に生きる動物に過ぎません。日の出日の入り、月の満ち欠けに逆らうことは、不可能です。そんな当たり前のことを思っています。
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