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乳がん/幼き頃の記憶

2025年1月22日(水) 空が澄んで星がキレイ!

私の母は40歳の時に乳がんで右胸を失った。その時私は10歳だった。

ステージ0でその後の治療もなかったが、それでも当時(40年程前)はリンパ節をすべて郭清することが推奨され、全摘の傷口もかなり大きく深く、術後のリハビリに時間を要したようだ。幼心に母が壁伝いに右腕を懸命に上げてリハビリしていた姿をよく覚えているけれど、私が母の病状をちゃんと聞いたのは自分が乳がんと打ち明けてから。ここ一年以内の話だ。

母は私の夏休みに合わせて入院した


我が家は当時、8月に避暑を兼ね2~3週間を長野県で過ごし、学校が始まる少し前に家に戻るという夏を過ごしていた。

その夏も旅に出るものだと思い込んでいた私はとても驚いたけれど、両親がたくさん楽しい予定を組んでくれていたことで、お友達の家族や祖父母、親戚など、色んな人に面倒をみてもらって楽しく過ごした。この経験を通じて私はコミュ力を確実に上げた!

寂しい思いをさほどせず楽しい夏を過ごせたのは両親の思いやり&周囲のおかげ。そして父が母に寄り添うことを第一に考えての選択だったんだと思う。

私は週に数回家に戻り
父と一緒に母に会いにいった

当時夢中になっていたフエルト手芸で動物を作り病床の母に届けた。母の枕元には私が作った不細工な動物が一つずつ増え「華やかになった」ととても喜んでくれた。

ある日病院からの帰り道、なぜだかとても悲しくなって車の後部座席でしくしく泣いた。その頃の私は「泣くこと=弱い子=ダメ」という思いがあって、そんな姿を父に見られないように泣いていたつもりだったが、もちろんそれはお見通しで、しばらくすると父も泣いていることに気が付いた。父は泣いている私を見て泣いたんだと思う。その時に「泣くこと=弱い子=ダメ」ではないことを知った。そして私は泣いた父を見てないフリをした。

父親の涙を見たのはそれが初めてだった

母が退院してからは、買い物に行った時に荷物を率先して持ったり、テレビで乳がんのことを放映していたらそっとチャンネルを変えたり、傷口をジロジロ見ないようにしたり… 良くも悪くも私なりの寄り添い方で接してきた。

これが10歳当時の私の記憶


たとえもっと幼くてうまく言葉にできなくても、きっと各々に想いはあって、その小さな心の中は、おかあさん(おとうさん)が懸命に今と向き合っている姿に、寄り添いたいという思いにあふれているんじゃないかな。

世の中にいらっしゃる当時の私より小さなお子さまをかかえて闘病されている方の記事を読んだり、私の幼き頃の記憶からそんなことをふと思う。そして私のように大人になって思い返し、その時は当たり前で感じなかった親の愛情を思い知るのかも…。もちろん人それぞれだけど。


明日、母は白内障の手術をする。
言うても白内障、なんてことはない!


とはいえ、乳がん以降大病もせず、風邪すらひかず過ごしてきた母は久しぶりの「手術」という言葉にドキドキしているようだ。そんな母をみていて、あの頃どんな気持ちだったのかな?と考える。自分も体験してしまったことで何となくはわかっていても…

当時、母はわたしに一切涙を見せなかった。母の悲しい顔だって思い出せないくらいだ。そして私も乳がんになってから両親には一切涙を見せずにきた。


わたし顔や声だけじゃなくて
こんなことまで母に似ているんだな…
じゃあ、裏でたくさん泣いたのかな


明日の朝、ドンと背中を叩いて伝えよう。

じきに良く見えるようになるから
そしたら快気祝いで
しゃぶしゃぶ食べいこー!

大人になった私の寄り添い方は
ちょっと乱暴かしらん…?


うわ!
なんか手芸したくなってきた!
ぇえ、そこー?(笑)




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