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私にとって恋愛とは

私にとって恋愛とは、アンデス山脈で採れる塩のようなものである。あったなら、料理(人生?)がより美味しくなる(気がする)が、無くても支障は無い。別に伯方の塩でもいいのである。伯方の塩もとても美味しいし。私は料理することが好きでも嫌いでもないというような人間であり、材料にこだわっているというわけでもない人間なので、わざわざアンデス山脈で採れる塩を色々なスーパーを巡って探し歩くことはしない。だが、もし無料でアンデス山脈で採れる塩がもらえるならば、もらいに行くかもしれない。そんな程度だ。一目惚れをよくしてしまうのは、その対象が私にとってアンデス山脈で採れる塩のような存在であっただけで、自分からアンデス山脈で採れる塩を配っていそうな場所に行くこともないし、ましてやアンデス山脈までいって塩を採ってくることはするはずもない。なぜこの話をアンデス山脈で採れる塩を用いてしたかということ、私にとって恋愛とはアンデス山脈で採れる塩のようなもの(その程度のもの)であるのに、周りがあたかもそれを食卓塩であるかのように私に勧めることによってすれ違いが生じているからだ。すれ違いが単なるすれ違いであればよかったのだが、そのすれ違いは私を時々不愉快にさせ、居心地を悪くさせる。そしてかれらは、その食卓塩がないと塩おにぎり(セックス)は完成しないというのだ。いや、塩がなくても塩おにぎりは完成する、と思う。なぜなら塩おにぎりは塩おにぎりだからだ。私は塩おにぎりをお米と水と塩と火(、そして場合によっては海苔)に分解しない。塩おにぎりはただ、塩おにぎりなのである。その「かれら」は、私が好きになる人たちだ。私が好きになる人たちは、塩おにぎりを細かく細かく分解する。私は塩おにぎりはただ1でしかないのに、かれらは細かく、本当に細かく分解する。塩おにぎりをどう目に写すかが違うとこんなにも難しいとは。かれらとセックスはできそうもない。


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