モーニングスター女子
文:井上雑兵
絵:フミヨモギ
◆
ある夜のことだ。
雲だかスモッグのせいで星の一つも見えない、暗くて息苦しい都会の夜の話。
ぼろ雑巾のようになるまで働いて、深夜の満員電車に揺られながら帰って、あれ、あたしの人生ってひょっとして、なんかもうなにひとつ良いことないんじゃねえの?って。
そう思ったとたん、意地悪なだれかが背後から目隠ししてきたのかってぐらい唐突に目の前が暗くなってきて、うさぎ小屋みたいなワンルームの片隅でへたり込んでた。
いつものように。
で、それはまあいつものことだったんで、うっすいメイクも落とさぬまま万年床と化し気味なマットレスにつっぷしながら、だれにもフォローされていないSNSの裏垢で「死にたい」「死にそう」「死ぬかも」っていうおなじみの三段活用をひとしきりつぶやいた。ボトルに詰めて海に流した手紙よろしく、そのつぶやきはだれも読まないし「いいね」もつかないけれど。
じっとスマホを握りしめていると、少し落ち着いた。真っ暗な海で浮き輪につかまってるみたいな、ぎりぎりの安心感。
うすっぺらいそれがまだかすかに感じられているうちに、あたしは眠剤をストロングゼロのダブルレモンで流し込んで、さっさと今日という世界から逃避した。
◆
気がつくと、あたしの枕元に武士が座っていた。
は?
その男は武士……というよりかは落ち武者という感じだった。
ざんばらの頭はちりぢりにほつれ、肩には折れた矢が突き立っていて、いっそう落ち武者感に拍車をかけていた。
やっべえストゼロがキマりすぎたんかなこれと思って、非日常にもほどがあるその存在を何度もまじまじと見た。
うん、これ百パー落ち武者。
もはや仰天とか驚愕というレベルを通り越してしまい、声を出すどころか指一本はおろか表情筋すら動かすことのできないあたしに対し、その落ち武者は大きく肩を落とし、ちょっと土下座が入っている正座の姿勢で語りはじめた。
「最近、ちまたでは刀剣男子というものが流行っているではござらんか」
フォントにたとえると淡古印っぽい低くしわがれた声音だった。そして親しい友人と茶店でダベるようなノリの謎の話題。
いやそれはどうでもよくて、いま刀剣男士って流行っとるのか?
何年かまえに同僚の子がハマってた気がする。わりと仲がよかったその女の子は、あたしより二つ歳下で仕事の要領が悪くて、オタクだけども可愛げもあり男ウケがよく、あっさり歳下の男(大手商社勤め)をつかまえて寿退社した。それ以来まったく連絡とってないけど、彼女、今ごろどうしてるんだろう。
きっとキラッキラしてるんだろーな。いやしらんけど。
しらんけれども、きっとあたしなんかよりは素敵にきらきらした人生送ってる間違いない。少なくとも平日の深夜にストゼロかっくらった挙げ句に落ち武者の幻覚なんて見てないと思う。
あたしの心中を察するふうもなく落ち武者は言葉をつづけた。
「だから拙者は思うのでござる。これに対抗して、そろそろモーニングスター女子の時代が来てもいいと」
「いやいやいや」
あ、ようやく声が出た。
珍妙な時代の到来を反射的に否定したあたしに対し、さも心外といった表情を浮かべる落ち武者。少しイラッとしてあたしは質問してやった。詰問になっていたかも。
「……あんた、いったい突然なんなの。落ち武者っぽい風体のくせに、なにモーニングスターて。関係性?っていうか、いまいち世界観がわかんないんだけど」
「前者の質問については、そう、拙者は守護霊ゆえ……お主の生命エネルギー……いや生命エナジーが著しく低下したので心配になり枕元に参上した次第」
「どうしてエナジーって言い直した?」
われながらどうでもいいことを聞いてしまった。
どうでもいい人間は、どうでもいい質問しかできないんだよな。ぼんやりしていた頭の中が、いっそう暗く、よどんでいく気がした。あー、なんなの……。
おそらくひっどい顔をしているであろうあたしにかまわず、落ち武者はとうとうと語りつづけた。
「そして後者の質問……拙者とモーニングスターとの関係。それは一言で言い表すことはでき申さぬ。それをあまさず語るには相当の時を要するでござる。それこそ夜明けの星が見える刻限にまで及ぶでござろう……モーニングスターだけに」
ほんとうに心が疲れているとき、この手の「うまいこと言ってやった」系の言葉は本当に頭にくる。
「……と、そういうわけでですね、えー、そう、今日したいのがモーニングスター女子のね、話なんですけれどもね」
身も蓋もなく武士口調をかなぐり捨てながら、落ち武者は強引に話題を戻した。どうあってもモーニングスター女子とやらの話をしたいらしい。
なかばやけっぱちになって、あたしは言った。
「わかったわかった。で、具体的にはどういうものなの、そのモーニングスター女子ってのは」
「えっ? えーと、あの……なんだろう……とりあえず常にモーニングスターを装備している……でござる」
「……それ以外には? 性格とか見た目とか」
「うーんと……こう、いつもトゲトゲしくてドSっぽい女子、とか……さわるとチクチクしてる女子……とか……」
あたしはキレた。
「勢いよく語りだしたわりに、さっぱり具体性がないじゃん!」
「仕方なかろう! モーニングスターはウィキペディアにもたいした情報がないのでござる! エクスカリバーみたいないわくつきのモーニングスターもなさげだし!」
生意気にも落ち武者はキレ返してきた。くそっ、こいつかなり面倒くさい。
なにが守護霊だ。なにがウィキペディアだ。
仮にも霊を名乗るのなら、もう少し現実味をもたせてほしい。……けど、なんかこの非現実感がほんのちょっぴり心地良いかも……などとどこかで感じてしまっていた。きっと脳内にまだストゼロが残っているせいだ。
「どだい無理なのよ、モーニングスターが主役になるなんて。いかにも雑魚敵がもってそうっていうか……見た目が凶悪でカリスマ性とか皆無だし」
「むう……オンリーワンになれないのならば……ナンバーワンになるしかないでござるな」
したり顔で落ち武者は言ったが、意味はわからなかった。
「しかし実際のところ、剣や刀は使うのに高度な技術が必要でござる。すぐに刃こぼれしたり折れたりと信頼性もいまいちでござる。しかしモーニンスターであれば、相手を思い切りぶっ叩くだけでいいのでござる。それでトゲがうまいこと甲冑とかを突き破って致命傷をたやすく与えられるのでござる。ぶっちゃけ刀剣とか超いらね」
「……ほんとあんた、なんで武士の姿で出てきたの?」
言語の乱れが甚だしい。JKなのかもしれない。
「もし拙者が生前にモーニングスターを手にしていたなら、今もまだ鎌倉幕府がつづいていたでござろうて……」
「どんだけモーニングスターの力を信じてるの? ていうかあんたって、そんな昔の時代の人間なの? まあ、もうこいつの中ではそういう設定なんだろうなってこっちで勝手に納得しとくけど……」
「……そんなこと言うなよ……!」
なぜか落ち武者が苦しげな裏声で叫んだ。もちろん、まったく意味がわからない。
「別れ際に”設定”なんて……そんな悲しいこと言うなよ……!」
また、喉の奥から絞り出すような裏声。
「……」
「……」
かなりの間があってから、あたしはそれが碇シンジ(CV:緒方恵美)のモノマネなんだとようやく気づいた。
てかなんでエヴァ? 「そんなこと言うなよ」ってそれマジでこっちのセリフなんだが?
「……そんなこと言うなよ!」
「しつこいわ! それ、おそろしくわかりづらいし、さっぱり似てないし唐突っていうかもうなんなの……って……”別れ際”って言った今?」
「さようでござる。名残惜しけれども、訪れたる別離の時……」
まったく名残惜しくはなかった。
「けっきょくあんたって、なにがしたかったの……」
疲れていてつい漏れてしまったあたしの問いに、落ち武者は最初に出していた淡古印っぽい渋い声で答えた。微妙すぎるモノマネ芸を披露したあとでは、もう今さらどう取り繕っても遅かったけど。
「決まっているでござる。来るべきモーニングスター時代の到来に備え、守護霊としてお主に忠告するために現われたのでござるよ」
「百歩譲ってそういう意図で出てきたとして、最初モーニングスター女子とか、ありえない話をしてた意味がわからないんだけど……」
「……そんな悲しいこと言うなよ!」
地味に気に入っているのか、勢いだけあってそれほど似てないモノマネをさらに繰り返して、落ち武者は消えた。
それに呼応するように、いつしかあたしの意識も遠くなっていった。
◆
目覚まし用にセットしていたスマホのアラームが鳴り、あたしはしぶしぶマットレスから起きあがった。
頭がいたい。身体もだるい。肌もがさがさ。
朝日が憎い。今日という日が怖い。繰り返される毎日に嫌気がさす。
かつてないほど心身が疲弊しているのがわかった。
あの落ち武者(?)との会話は夢だったのだろう。たぶん疲れていたから、あんなおかしな夢を見たんだろうな……。
だけど夢オチじゃなかった。
あたしの部屋の中には一振りのモーニングスターが残されていた。
長さ1メートルほどの棍棒状の武器。
握り部分には滑りどめの革が巻かれていて、その先端は球状に膨らんでおり、鋭い金属製のトゲが何本も放射状に突き出していた。
映画かゲームの世界から抜け出してきたようなモーニングスターが、無造作にマットレスのすぐそばに置かれていた。
よく見ると自重で床のフローリングに棘が突き刺さってて、マジで人を殺すことができる本物のウェポン感(?)みたいな、重苦しいオーラじみたものを醸し出していた。
「ええぇー……」
あたしは腹の底から脱力した声を漏らし、しばし呆然とした。
ワンチャンそれが目の前から消え去ってくれるんじゃないかと期待して。
でも、ひょっとしたら心のどこかで「消えないで」って願っていたかも。
ややあってから、その武器におそるおそる手を伸ばし、持ち手とおぼしき部分を握り、ぐっと持ち上げてみた。
「まったく……なんなの、これ……」
モーニングスターは想像していたよりも重くはなかった。
いや、たぶん3~4キログラムぐらいはあり、それなりに重いんだけど、バランスがいいのかあまり気にならない。
ためしに下から上に振ってみた。先端が重いので、振りはじめに若干ぐらつく感じはあったけど、何度か振るうちにコツが分かり、スピーディーに勢いよく振れるようになった。
そこであたしはふと我に返り、悠長にモーニングスターをスイングしている場合ではないことに気づいた。今日も会社があるのだ。
終電の時間まで働き、場合によっては泊まり込み、まるで明けない夜のような果てしない暗黒に包まれた仕事の一日がはじまるのだ。
あたしは憂鬱さを少しでも晴らすために部屋の窓を開けた。賃貸マンションの三階の角部屋なので、ちょっとだけ眺めがいいのが慰めなのだが……。
眼下からいきなり怒号が響いてきた。
男たちが発する野太い怒鳴り声と、短い悲鳴。少し遅れて長い悲鳴……おそらくは断末魔の声が。
路上で男たちが戦っていた。
歩道の上で、スーツ姿の中年とパーカーを着た若者が対峙していた。さらに道のあちこちには何人かの人が、身体のあちこちから大量の血を流してアスファルトの上に倒れていた。
向かい合う中年と若者は、それぞれが示し合わせたように棒状の武器をかまえていた。球形の先端に棘状の突起。
見間違いようもない、それはモーニングスターだった。
少し離れたところには、主婦とおぼしき女性が犬の散歩をしていた。右手には犬のリード、左手にはモーニングスター。
その横をランドセルを背負った小学生の男女が駆け抜けていく。ランドセルの側面からは、リコーダーではなくモーニングスターの柄が飛び出ていた。
「マジか」
あたしはつぶやいた。
そんな口にしてもなんにもならないことを、ついつぶやいてしまった。
そのとき部屋の玄関のほうから、ものすごい打撃音が聞こえた。
何度も何度も、まるで手荒すぎるノックのように。
”運命(機会)が二度、きみのドアをノックすると思うな”
どこかの漫画か小説で読んだ、だれかの言葉が脳裏をよぎった。
でも、そうじゃなかった。
あたしの運命は、強引に激しく何度も何度もドアをノックする。
玄関からさらなる轟音。
思わずびくっとなって動けずにいると、アルミ製の扉を突き破って星状の鋭い突起物が飛び出してきた。
あたしはさっきから手にしたままだったモーニングスターの柄を、知らないうちにいっそう強く握りしめていた。
昨晩寝っ転がってスマホを握りしめていたときとは比べものにならないほどの力をこめて。
うつろな霞がかかっていたような頭の中が不思議なほどにクリアになって、あたしの中でずっと眠っていたものが覚醒していくのを感じた。
きっと、これがあたしにとっての夜明け。
あるいは本当の朝であり、目覚めのときだった。
病的に入り組んだ迷宮みたいな夜の終わりを告げる、いびつな光。視界が真っ白でなんにも見えないぐらいにまばゆい、それは輝ける明星だった。