悟りや覚醒はsmall of giant steps
アシュタールさんでさえ、自分たちが覚醒したとは思っていないようである。
ブッタやイエスやその他の偉大な先人達が、悟る瞬間や覚醒する時があったようだが、人が考える達成する瞬間とは誤解かもしれない。
覚醒とは境目があって、覚醒じゃないのと覚醒するという明確な違いがあると誤認していると考えられる。
高次元の存在レベルになると、人の言う悟りレベルはステップバイステップであり、覚醒という自覚とは異なっている気もする。
人が高まるのは、改めて考えたり、理解して自分が変わったりと、小さなステップを踏んでいる日々があり、それが小さな覚醒と変わらないような気もする。
先人の偉人たちも、悟りや覚醒とかじゃなくて、ちょっと大きめなステップを感じたくらいのことかとも思う。
以前に自分で書いた、先人の悟りの経験とは、私たちの気づきの延長線である大きいバージョンに過ぎないのかもしれない。
アシュタールさんはこうも教えてくれる。
「覚醒の道は個人的なものであるべきです。それは個人の旅ですから個人のペースで行われたほうが良いと思います。」
つまり方法論なんてなくて、共通する覚醒や悟りなどなく、人それぞれの今までの自分を乗り越えた考えや、経験から得た気づきや、心に触れて知った自分のこと、そういう積み重ねが境目のない無限のグラデーションの悟りであろう。
(コルトレーンの“ジャイアントステップ”は、自分自身のスタイル変化を現しているように)、個人個人が自分を乗り越えていく、大きくて小さなステップを、実に個人的な自覚を感じることかもしれない。
だから悟りであって悟りでない、無限に精妙になる周波数の違いなのであろう。
これは人の数だけアセンションがあるのと同じようなことかもしれない。
考えてみれば、絶対無限の存在から個人にわざわざ分かれたのは、それぞれの経験からくる考えの高まりのためであろう。
なのに共通の悟りや覚醒があれば、それが無駄になる。
バラバラに無限の小さな悟りを繰り返すことが、大いなる共有意識につながっていくのだろう。
私の細かな考えの高まりに、全員が一致して賛同するわけでは無いように、同時に自分と違う経験をしてるものに共感して感動したりするわけだろう。
共有できる宇宙の法則は、原理は共通しながら、通る道は全員違うからこそがワンネスと言えるのかもしれない。