「繋驢結」と「一滴の水」
「繋驢結」と「一滴の水」
さて、以前、雲外蒼天①」の日記にて、障碍等を持たれた方でも、別の戦い方があるというお話をしました。
あくまでも、私が実践した方法ですので、御参考程度に読んで頂けると嬉しいです。
以前、「道徳」と「人間性」の日記では、思想(考え方)は人生を航海に例えると羅針盤になるお話をしました。
人生は穏やかな海ばかりじゃない。
荒波を超えていかなければ、なりません。
健康な人であれば、その荒波を真正面から一気に乗り越えてしまった方が良い訳です。
船が斜めを向いていれば、ひっくり返る様に、中途半端だと失敗したり、あきらめてしまったり、うまくいかなかったりする。
だけど、例えば精神障碍者の方の様に、健常者と同じ事を求められても、その時は良くても反動が来て、ストレスサインに悩まされたり、後で頑張った分だけ具合を悪くしてしまいます。
では、そのメンタルや体調の波を穏やかにし、一定にするには、どうすれば良いのか?
それは、人それぞれだと思うので、私の実践方法の一例です。
私は御釈迦様の教えを信じている訳ではありませんが、御釈迦様の教えに良いものがあるので、ご紹介します。
先ず、寝たきりの方には「禅」の教えから来る森田療法の中に、「繋驢結(けろけつ)」という考え方があります。
個人的には森田療法が良いとは思っていませんが、ただ、臨機応変に使うと良いと考えています。
どういった事かと言いますと…。
縄で繋がれたロバは、自由に動きたくとも行動範囲が決められていて動けない訳です。
自由を求めて足掻いても、かえって縄が雁字搦めに絡みついて、身動きが取れなくなる訳です。
縄で繋がれていたとしても、草を喰む事は出来る訳です。
精神を患われた人や簡単には治らない病気をされた方には、それが当てはまる訳です。
私も5年ほど、うつ病に良い事を一生懸命学んで、試行錯誤して色々試しましたが、治りませんでした。
あきらめて、寝たきりになり天井を眺める日々が続きました。
ただ、どうせ天井を眺めるのなら、音楽を聴いたり、フレグランスで匂いを楽しんだり、音楽や雨音を楽しんでみました。
そうすると治そう治そうと頑張ってた時より、あきらめて出来る事をして脳を休めたら、一度、うつ病が治ったのか?身体が滅茶苦茶軽くなり、スーパーマンの様に感じ、普通に治ったんだと思いました。
あれこれ頑張るより、脳を休めた方が良かったんだなぁとその時は思いました。
もし、寝たきりで苦しまれている方が居ましたら、冬休みだと思って、出来る事で思いっきり楽しんで見てください。
鬱にドーパミンは良くて、それで治すという団体もありました。
どうせ同じ時間を過ごすなら、「繋驢結」という考え方は、寝たきりの方には良いんじゃないかと想います。
ただ、障碍者の友達が増えた事で引っ張られて、再発してしまいましたが、それは仕方ないですね。
相手も悪気はありませんから。
次に、酷い状態から抜けて少し動ける様になった方の為に、御釈迦様の教えに『水が一滴ずつでも滴り落ちるならば、水瓶でも満たすことが出来るのである』というものがあります。
この教えは良い行いと悪い行いで、悪い行いを少しずつであっても、していけば、やがて大きな悪に繋がるというものですが、その教えを良い方を捉え、応用をしました。
先程の海の波の話を思い出してください。
波がハードルだとします。
健常者であれば、高い波を超えても大丈夫ですが、障碍を持たれた方であれば、ハードルが高いと乗り越えられないと自己肯定感が下がり、自信喪失や乗り越えたとしても、メンタルや体調の波があるので、具合を大きく崩してしまいがちです。
急がば回れで小さなハードルをいくつも超える方が自己肯定感が上がり、遠回りをしている様で近道だと私は思います。
私はそうやって病気に纏わる壁を沢山乗り越えてまいりました。
地獄を味わえば、それ以上の地獄はなかなか次、味わう事も無いし、深い自信に繋がっていく時が必ずきます。
水前寺清子さんの365歩のマーチ、七頃び八起きで、駄目な事があったとしても、決してあきらめない心を必ず作っていけると私は想います。
童謡で言えば、「兎と亀」のお話ですかね。
誰しも「蘇生」の力は必ず備わっているものです。
もう数え切れないほど、駄目だとか死にたいと悲しい想いをされた人もいらっしゃるかと想います。
その涙は決して無駄にならないし、春が来ない冬はないから、そんな気持ちが出てきた時は、どうかやり過ごして欲しいと願うばかりです。
必ず貴方の苦しみをわかってくれる人は、この世に居るものです。
明日からお仕事の方もいらっしゃるかも知れません。
そうでない方も良い一日をお過ごしくださいね。
では、またのお越しをお待ちしております。