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【闘志溢れる勝負師】フェルナンド・アロンソ解体新書(前編)

フェルナンド・アロンソ。F1参戦20年で今年42歳を迎えるF1の歴史に名を残し続けている選手だ。F1界最年長でありながらも、現在のF1ドライバーでも闘志みなぎる走りを見せてくれる。技の引き出しの多さは年を取るほど多くなっていく。その走りに魅せられ、多くのファンを虜にしている。まさに「真のファイター」である。

しかし、そんな彼は素晴らしい才能を持ちながらもタイトル獲得回数は2回に留まっている。彼のタイトルの行く手を阻んだライバルとエピソードからフェルナンド・アロンソを解説していこうと思う。



エピソード1:栄光を

1981年7月29日に生まれたアロンソは3歳からカートを乗りはじめ、2000年に参戦した国際F3000での好成績を評価された。そして、後に共にチャンピオンを獲得するチーム代表、ブラビオ・ブリアトーレとマネージャー契約を結び、2001年にミナルディ―(現角田選手が所属するVCARB)からF1デビュー。19歳の頃だった。

当時のミナルディ―は資金難から弱小チームとして知られていたもののアロンソが駆るマシンは驚異的だった。中堅チームであるBAR、ベネトンにも食らいつきアロンソは急激に評価を上げて行く。そして、ブラビオ・ブリアトーレがルノーのチーム代表に就任したのをきっかけに2002年に強豪ルノーと契約。1年のテストドライバーの期間を経て、2003年から強豪ルノーF1チームからキャリアを再出発させた。


画像:F1公式より

皇帝と若武者

 ただ当時は「皇帝・ミハエル・シューマッハ」率いるフェラーリの黄金期の真っ最中であった。アロンソがルノーに乗る前の1999年から連続でコンストラクターズ・ドライバーズチャンピオンを獲得しており、正に敵なし状態であった。
 ブリアトーレ率いるルノーは2003年、2004年と着々とマシンは良くなっていき、来たる2005年。

RenaultR25 出典:F1公式

 ルノーR25(2005年のルノーのマシン名)の仕上がりが素晴らしく、シューマッハとシーズンを通じて火花を散らしていく。2005年の日本GPでは130Rでシューマッハを外側から豪快なオーバーテイクを見せ、まるでシューマッハからアロンソへ世代交代を表すようなシーンを作りだした。

 2005年のブラジルGPでチャンピオンを決定させ、翌2006年もシューマッハに打ち勝ち二年連続でチャンピオンを獲得した。 また、2006年シーズンでシューマッハはF1から引退(2010年~2012年にもう一度帰ってくるが)一つの時代が終わりを告げた。これから先、アロンソはF1界を代表するとんでもないドライバーになると当時は思われていた。セナ、シューマッハと繋がれた「時代を代表するチャンピオン」のバトンはアロンソに任された。

様に思われた・・・・

エピソード2:暴れん坊将軍

2年連続でタイトルを獲得したルノーを離れ、2007年にアロンソは同じく強豪マクラーレンに移籍。
2007年。もう一人の偉大なドライバーとなる大物ルーキーがチームメイトに指名された。その名は「ルイス・ハミルトン」だ。

出典:FLASHSCOREより

マクラーレン時代

マクラーレンの秘蔵っ子としてデビューしデビュー戦で表彰台を獲得する非凡な才能を残す。それもそのはずだ。何せ、彼は将来的に8連覇を果たすドライバーになるからだ。

当時からこの二人は対極のドライバーであった。

アロンソにとって、ハミルトンは厄介で邪魔な存在であったはずだ。ルノーを離れたのはマクラーレンでタイトルを何度も取る目論見があったはずだ。 
 しかし、想像以上に手強かったハミルトン。2007年シーズンのアロンソとハミルトンは歴史に残る壮絶で生々しいチーム内争いが繰り広げられる。

 当然、マクラーレンという強豪チームは良いマシンを作り、実績十分のチャンピオンと超新星のルーキーという強力なラインナップはタイトル争いを演じた。

 しかし、チームは最悪のシーズンを送ることになる

出典:F1 Gate

 シーズンが進むにつれて二人の関係は悪化していく。徐々にハミルトンが実力を上げ始め、チーム内の自分の地位が落ちていくアロンソはハンガリーGPでハミルトンの予選を妨害。
さらにタイトル争いをしていたのにも関わらず、2007年のドライバーズチャンピオンをキミ・ライコネンに奪われてしまい、チームとしても悔やまれるシーズンになった。

 まだある。F1界に衝撃を与えた「スパイゲート事件」にも関与し、事件を重く見たFIAはマクラーレンに一億ドルの罰金と2007年シーズンから除外の処置を行った。
 そして、当時のマクラーレン代表「ロン・デニス」との確執が明らかになりアロンソはマクラーレンの二年契約を破棄。結果的にチームを荒らしに荒らし回してマクラーレンを一年で去っていった。

現在はベテランとして互いにリスペクトし合っている
出典:Auto sport Web

勝利の遠い2年間

2008年。マクラーレン離脱後はルノーに出戻りをした。しかし、当時のルノーに2連覇をもたらした時の勢いはなかった。
 マシン開発はうまくいかず、更に「クラッシュゲート事件」(説明すると長くなるので説明は割愛)でブラビオ・ブリアトーレ代表がF1界を無期限の関与禁止が出された。
2009年もマシンの戦闘力は上がらず、アロンソが
乗ってきたF1史上最悪の車
と評し、低迷のシーズンを過ごした。

2010年にはフェラーリへ移籍を決めて赤いレーシングスーツを着て新天地に挑む。
しかし、そこでもアロンソのタイトル獲得を阻むドイツ人がいた。
続きは後編で、、、

前編まとめ

 久しぶりの投稿がサクトピではないという、、、(笑)
心機一転ドライバーにフォーカスを当てて徹底解説してみました。アロンソ物語どうでしょうか??

なんというか振り返ると色々な意味ですごい人物っていうのが伝わりますね(笑)
頑張って後編も書くので、フォロー、いいねやコメントをして頂くとモチベーションが保てます!

それでは次回会いましょう!

~日常にレーシングを!~


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