見出し画像

『"絶対"なんて、ないんだよ』老子道徳経第20章 シンとの対話


はじめに

老子。老子(ラオツー)は、紀元前6世紀頃に生まれたとされる古代中国の思想家です。
『老子道徳経』という81章から成る書物を通じて「道(タオ)」の本質と自然の法則に従った生き方を説きました。
老子経は81章からなり、シンプルに抽象化されています。
そのため、その意味は様々な解釈が可能な奥深いものとなっています。
その道徳経を読み解くことで、老子のいうとおり私達の生きる道が自然と整っていき、自由な私達へと成長できるよう導かれること。その試みが、当NOTEの一つの目的でもあります。

シンとの対話(老子経 第20章)

さて、今回は「道徳経 第20章」について、私のメンターであるシンとの対話を通じて理解を深めていきたいと思います。

◯ ナオ:それでは、シン、よろしくお願いします!

⚫️ シン:やぁ、ナオ。よろしくね。ようやく第20章へたどり着いたね。ではまず、この章の原文と現代人に向けた日本語訳について。

原文(老子経・第20章)

絕學無憂。
唯之與阿,相去幾何
善之與惡,相去若何
人之所畏,不可不畏。
荒兮,其未央哉衆人熙熙,如享太牢,如春登臺。
我獨泊兮,其未兆,
如嬰兒之未咳,儽儽兮,若無所歸。衆人衆人皆有餘,我獨若遺。
我愚人之心也哉
俗人昭昭,我獨昏昏
俗人察察,我獨悶悶。若海澹兮其若海,飂兮若無止。
衆人皆有以,我獨頑且鄙。
我獨異於人,而貴食母。

現代訳(老子経・第20章)

学問や知識を追い求めなければ、悩みは減ることだろうね。
「これが正しい」と「それが正しい」の違いは
実際にはどれほどの違うのだろうか?
「善い」と「悪い」の違いも、どれほど大きいの?
私は世間の価値観や恐れに対して無関心なのではないけれど
世の中の混乱や無秩序をみて感じて、その終わりが見えないんだよ。
多くの人は楽しげで
豊かなごちそうを味わい
春の高台に上るように喜んでいる。
だけど、わたしはただ一人
静かに佇み
まだ何も始まっていないような気持ちでいる。
まるで赤ん坊が泣き出す前のように純粋で
帰る場所もなく漂っているかのようだ。
他の人々は余るほど、たくさん持っているけれど
わたしは何も持たない。
わたしの心は愚か者のようにみえるだろうね。
世の人々は明るく賢く見えるけれど
わたしは暗くぼんやりしていることだろう。
世の人々は細かく考えるけれど
わたしはのんびりしている。
わたしの心は静かで広い海のようで
風に吹かれて漂うだけだ。
世の人々は明確な目的を持っているけれど
わたしは素朴で未熟に見えるだろう。
それでも、わたしは他の人々とは違って
「道(タオ)」という母なる根源を大切に抱いているんだよ。

⚫️シン:この章は、詩的な感じのリズムで構成されているね。老子は、直に表現していないが、この詩の中の私=老子だろう。

◯ナオ:老子は、自分のありかたを世間と対比させて、何が最も大事なのかということを浮かび上がらせていると感じたよ。でも、なぜそのようにしたのだろう?

⚫️シン:なるほど、そのように構成されているね。
まずは老子は冒頭で、学問や知識を追い求めることが混乱の原因だとしている。これは、現代人にとっては疑問なのではないかな?しかし老子の巨視的な見解では学問や知識が揉め事、摩擦の元になっているという指摘なんだ。
それで、老子は巨大な視点から、いうんだ。
『これが正しい、いや、こっちが正しい、と言い、いがみあっているけどさ
それ、お互い言っていることは、それほど大きな違いがあるのかいな?』
と。
良し悪しだって、そう。それほど違うんかいな?と。
何が「本当の正しさ」なのかな?何が「本当の良し悪し」なのかな?と問うんだ。
そういった争いや摩擦は、果てしなく続き終わることがないってことに
老子は「ため息」を漏らしているんだよ。

◯ナオ:そういうことなのか。
なんだか、狭い価値観の中で、アレコレいがみ合っている感じ?

⚫️シン:そうだね。老子は中国の戦国時代の最中の様子や価値観を憂いていたのだともいえる。
きっと狭い価値観の相違の中で争いが生じていたことを目の当たりにしたのだろう。もしかしたら罪のない子どもや弱者が犠牲になっているのを体験したのかもしれない。

そして老子は、「世間の価値観に対して、君たちが混沌とした無秩序にあること、それを恐れている事を理解している」とした上で話を進めるんだ。
そう、
「あなたがた世間の主張する絶対的価値観(支配者・勝者の価値観)というのは、こういうもの」
だろうけど
「私(老子)はこんな感じだよ」
と対比して違いを浮かび上がらせている。

◯ナオ:老子の中にある世間の価値観に対しての批判まではいかなくとも、アドヴァイスにも聞こえる。「私、老子は世間からみると、随分と孤独で、何も持たず、暗くてボンヤリとしていると見えるだろう」という風に世間の価値観とはまるで違った老子の姿を強調しているんだけど、老子は大丈夫だろうか・・・。

⚫️シン:うんうん、老子は世間との価値観を対比させることによって、何かを訴えようとしているんだ。何を言いたいのだろう、なんだろうね?

◯ナオ:・・・世間の絶対的と信じられている価値観は実は嘘だということだろうか?時の支配者や勝者が創り出した価値観だということ?

⚫️シン:そう。絶対的な価値観を否定しているんだ。老子は絶対は無い、といっているんだ。

◯ナオ:絶対的ということは、唯一コレというものはなくて、
見方を変えれば全く変わってしまう価値観のことだろうか?

⚫️シン:その通りだね、ナオ。老子の考え方の中心には、「絶対的な正しさ」や「固定的な答え」というものは存在しないんだ。すべては相対的なものであり、視点や立場を変えることで、物事の見え方が変わるという考え方が根本にあるんだよ。

老子が言いたいのは、どんな物事にも二面性があるということ。たとえば、成功と失敗、善と悪、光と闇、こういったものは一見対立しているように見えるけれど、実際には互いに依存し合っているんだよね。これが「道」の本質であり、どちらか一方に固執するのではなく、相対的に物事を捉えることが大切だと老子は教えているんだ。

だから、「正しさ」と「間違い」も、実は絶対的な基準ではなく、それぞれの状況や立場に応じて変わっていくものだということを、老子は伝えているんだよ。争うことなく、柔軟な心で受け入れ、流れに身を任せることが最も自然な生き方だとね。ナオ、相対的な見方をすることで、どんな気づきが得られそうだと思う?

◯ナオ:世間一般の価値ばかりに囚われることなかれ!?

⚫️シン:うん、まさにそうだね、ナオ。「世間一般の価値に囚われることなかれ」というのは、老子の教えの大切な部分だよ。

世の中には「これが成功だ」とか「これが幸せだ」とか、いろんな「価値」があふれているけれど、それらは誰かが作ったものであって、必ずしも普遍的なものではないんだ。老子は、そういった「作られた価値観」に縛られることで、人が本来の自由や自然な生き方を見失ってしまうことを憂いているんだよ。

老子が目指しているのは、「道」に従う生き方。つまり、世の中の基準や価値観に振り回されるのではなく、自分自身が自然に感じること、調和の中で生きることを大切にするということなんだ。「道」に従えば、無理に競争したり、誰かと比較したりする必要もなくなる。そうすれば、心の中に静けさが訪れるんだ。

◯ナオ:だから、老子は、世間から老子をみれば、「私、老子は世間からみると、随分と孤独で、何も持たず、暗くてボンヤリとしていると見えるだろう」と、けっこうネガティブな感じで表現していたけど、それは世間の価値観だから、関係ないんだよ私にとっては!と一蹴している感じかな?

⚫️シン:一蹴してる感じ(笑 老子の考えはこんな感じだ。「何もわかってないね、君たち。私はタオという母なる根源に抱かれていて、いつでも最高に幸せなんだよ!」コレは何をいみするかといえば、老子は世間の価値観に囚われること無く自分軸の中で自然に喜びの中に生きているんだということだよ。しかし世間体なんて、よくいわれるけど、アレだれが決めてるんだろうねぇ。。。

◯ナオ:!!!

おわりに


この章のポイントを簡潔に箇条書きでまとめてみます。

  1. 学問や知識の追求が混乱を生む

    • 人々が「これが正しい」と主張し合い、争いが生じる。良し悪しも、相対的なもので絶対的ではない。

  2. 世間の価値観に流されない生き方

    • 世間の人々が何を喜び、恐れているかに共感はするが、それに縛られずに自然体で生きることを選ぶ。

  3. 自分と他人との違いを認める

    • 老子は自分を他の人々と比較し、「わたしは彼らと違う」と感じつつも、それを否定的に捉えず、自らの道を歩む。

  4. 母なる根源(道)に生かされている感謝

    • 老子は、世間の価値観や競争を超越し、「道」という根源的な存在に抱かれて生きることを大切にしている。

  5. 自然の調和の中での生き方

    • 混沌や変化をそのまま受け入れ、無理に解決しようとせず、自然の流れに従って生きる姿勢。


最後までお読みいただき ありがとう!



いいなと思ったら応援しよう!