『奥深い知恵とは?』老子道徳経 第27章

はじめに
老子道徳経と老子について
老子は紀元前6世紀頃の思想家で、彼の著作『老子道徳経』は『道(タオ)』と自然に従った生き方を説いています。簡潔な言葉で書かれた道徳経は、多様な解釈が可能で奥深く、自然と調和した豊かな人生の指針を得られます。このNOTEでは、メンターのシンと私ナオとの対話を通じて道徳経の理解を深め、新たな気づきを提供することを目指しています。



老子経第27章 シンとの対話。



◯ナオ:
シン、今年もよろしくね。年も開けて2025年。寒い日が続いているよ。

⚫️シン:
ナオ元気かい?よろしくね。風邪なんかひいていないかい?首を温め、加湿と栄養と睡眠をバランスよくね!

◯ナオ:
なんとか大丈夫だよ、ありがとう!今日は老子道徳経の27章について、教えてもらいたいんだ。

⚫️シン:
なるほど、27章についてだね。まずは原文と日本語訳をみてみようか。

原文(老子道徳経 第27章)
善行无辙迹,善言无瑕谪; 善数不用筹策,善闭无关楗而不可开, 善结无绳约而不可解。 是以圣人常善救人,故无弃人; 常善救物,故无弃物。 是谓袭明。 故善人者,不善人之师; 不善人者,善人之资。 不贵其师,不爱其资,虽智大迷,是谓要妙。

日本語訳
上手に行動する者は、後に轍(わだち)を残さない。
上手く話す者は、欠点や非難されるところがない。
上手く計算する者は、計算の道具を使わない。
上手く戸を閉じる者は、かんぬきを使わなくても開けられない。
上手く結び目を作る者は、縄を使わなくても解けない。
だから、聖人はいつも人々を救うことを善しとするので、
見捨てる人はいない。
いつも物を大切にするので、無駄にする物はない。
これを「奥深い知恵」と言うんだ。

だから、善人は不善人の教師であり、
不善人は善人の糧(かて)なんだ。
その教師を敬わず、その糧を大切にしないならば、
知恵があっても大いに迷うことになるんだよ。
これを最も重要な奥義と言うんだ。

◯ナオ:
「上手く」というのは、あたかも計算されたような感じではなくって、自然と調和した感じをいうのかな?

⚫️シン:
そうだね、自分の浅はかな知識や知恵を意識しすぎても、上手くはいかないという感じだよ。次に、もう少しわかりやすく意訳してみようか。

意訳

  • 「善い行いをする人は跡を残さない」
    本当に良い行いというのは、目立たず、あとに何も残さないものだ。自己顕示や見返りを求めない、自然で流れるような行動を指しているんだよ。

  • 「善い言葉を使う人は人を傷つけない」
    言葉上手な人は、相手を批判したり傷つけたりしない。むしろ、言葉を通じて相手を癒やし、心を整えるんだ。

  • 「善い計算をする人は道具を必要としない」
    本当に優れた計算や判断ができる人は、外部の道具に頼らない。直感や深い理解で物事を正確に見通す力を持っているということだね。

  • 「善い閉じ方をする人は鍵を使わず開かない」
    しっかりと閉めるべきところを閉じる人は、物理的な鍵に頼らなくても誰にも開けられないようにする。つまり、自然なやり方で守るべきものを守るということだろう。

  • 「善い結び方をする人は縄を使わず解けない」
    本当に強い結びつきは、人工的な手段を使わなくても解けない。信頼や絆は、人の心の中で自然に育つものだからね。

  • 「聖人は人や物を捨てない」
    聖人と呼ばれる人は、どんな人も簡単に見限ったりしないし、どんな物も無駄にはしない。すべてに価値を見出し、大切にするんだ。

  • 「善人は不善人の師であり、不善人は善人の学びの材料となる」
    善人は不善人にとって手本となる存在であり、不善人は善人にとって、教えることで自らを成長させる機会を与える存在だ。つまり、善人と不善人はお互いに必要とし合っているんだね。

  • 「師を尊ばず、資を愛さないなら、それは大きな迷いだ」
    人が学び合い、支え合う関係を尊重しなければ、どれだけ賢い人でも道を見失ってしまう。これが、この章の核心であり、とても大事な教えなんだ。

◯ナオ:
なかなか、これは深い感じがする。善人と不善人との関係性は、普通に考えれば、善人であることが正しい感じがするんだけど。

⚫️シン:
お互いが必要な関係性をもっているんだ。真逆な関係性で補完されることになるのが老子のいうところなんだ。片方では存在しえない。相互に学び合うことでお互いが成長し相乗効果になると伝えているんだね。

◯ナオ:
だから、自分にとって不都合に思える人が出てくるんだね。環境が変わっても、何処へ行っても、必ず対極にある人というのが出現してくる、
という経験があるよ。不思議だったけど、そういうタオの働きがあるんだ・・・。でも相互に学び取るようになり、学びが完了すれば、自然とそういう人は自分の周りにいなく成っていくんだよね・・・それの繰り返し。

ここから深めていこう:具体的な問いを立ててみる

⚫️シン:
さて、ナオ。ここまでが意訳だよ。でも、これを「理解した」と言い切るのはまだ早い。いくつか問いを立てながらもう少し考えてみよう。


問い1:善い行いとは、なぜ跡を残さないべきなのか?

⚫️シン:
ナオ、君が何かをするとき、つい「これを見てほしい」とか「誰かに褒められたい」と思ったことはないかい?それ自体は人間らしいことだし悪いことじゃない。でも、老子が言う「善い行い」はそれとは違う。
跡を残さない行いというのは、自然に、流れるように、必要なことを必要なだけ行うということだ。たとえば、風が木の葉を揺らすようなものかもしれないね。風はその働きを自慢したりしないし、木もそれに感謝する必要はない。ただ、それが自然な流れだからなんだ。

◯ナオ:
お互いが今その時点ですべきことに無意識にフォーカスすることで、特に何かをしたとも思わずに、相互に協力できれば、とても自然だね。わざわざ、何かを顕示しているほうが、思考やエネルギーを無駄に使っている気もする。日本の神道の宮司さんの話で、善行を誰もみていない所でやったほうがいいと説いていたね。すべて陰徳となるよって。自分の深いところでは、それをちゃんと知っているから大丈夫だとも。


問い2:「善人」と「不善人」は、どうしてお互いに必要なのか?

⚫️シン:
善人と不善人、つまり良い人と悪い人。ナオ、君は「善人の方が偉い」と思うかい?普通はそう考えがちだよね。でも老子はそうは言っていない。善人は不善人に教えることで、自分自身の善を深め、成長する。不善人は、善人を通じて自分を改めるきっかけを得る。
つまり、善人と不善人は独立しているわけじゃなくて、お互いに補い合う存在なんだよ。たとえば、夜があるからこそ昼の明るさがわかるようなものだね。

◯ナオ:これがこの章で一番深くささるね。殆どの人は、善人を意識するし、悪人というのは、駄目だという価値観だろうから。でも、たしかに、超絶な俯瞰的思考というか、まるで神的な価値観からいえば、陰陽が必要であり、それが自然なバランス。これは、善悪互いに問題が起き、相互に気づきが訪れたときに解決することが多いんだよね。バランスがとれると、解決に向かう。だから、中庸が大事だともされるんだ。


問い3:すべてを「捨てない」というのは、どういう意味だろう?

⚫️シン:
「人を捨てず、物を捨てない」というのは、単にケチになれという意味ではないよ。ナオ、君がたとえば壊れたおもちゃを持っていたとしよう。それがただのゴミだと思えば捨てればいい。でも、もしそのおもちゃに何か思い出があったり、それを修理してまた使えるとしたらどうだい?
老子は、どんな人や物にも価値があると考えるべきだと言っているんだ。それが小さなものであっても、もしかしたら君にとって、あるいは誰かにとって、とても大切なものになるかもしれないからね。

◯ナオ:
無駄なものがない、という究極の考え方だと想う。絶対的な価値観にしばられないようにしないと・・・。


少しまとめてみよう

⚫️シン:
ナオ、どうだい?老子の言葉は一見すると抽象的だけど、こうやって少しずつ考えていくと、現代の君の生活にもつながる部分がたくさんあるだろう?この第27章が伝えたいことを簡単にまとめると、次のようなものだよ:

  • 自然に、必要なことを必要なだけ行い、執着を手放すこと。

  • 善悪の区別を超えて、すべての人や物に価値を見出すこと。

  • 人と人との関係を大切にし、学び合うこと

◯ナオ:深く学べる章だったよ。シンありがとう。

⚫️シン:それはよかった。それでは、またね!


おわりに

2025年最初の対話となりました。老子は、何度読んでも新たな発見がある非常に俯瞰的(全宇宙を眺めている・宇宙のてっぺんのような)意識の塊です。あらためてこの章を読んで感じたところです。今年も引き続き、老子道徳経をシンとの対話によって学んできたいと思います。2025年も、是非みなさんも、老子を手にとってみてくださいね。

お読みいただき ありがとう!


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