「素朴なままの君でいて。そうすれば世界は平和だよ。」老子道徳経第19章 シンとの対話
はじめに
今日は老子経の第19章について、私のメンターであるシンと対話していきます。
この章は老子の文明批判ですね。
過剰な知恵とか完璧な規範は民衆を苦しめる。
儒教的な礼儀や礼節にこだわるあまり、本来の優しさ愛情を見失う。
とはっきり老子は言っています。
しかし、どういうことでしょうか?
現代日本人は、礼節・礼儀正しくと教えられます。
規範を示し、完璧にやれと教育され仕事でも同様に指導されますね。
それをあなたは、苦しいと感じることはありませんか?
そんな完璧な人間なんているのか?って疑問に感じることはありませんか?
私は常々そう感じながら生きてきました。
老子は、もう既に2000年以上前に答えを言ってくれてます。
では、メンターであるシンとの対話によって、このテーマを深めてみましょう。
老子道徳経第19章の原文と現代語意訳
原文
絕聖棄智,民利百倍。 絕仁棄義,民復孝慈。 絕巧棄利,盜賊無有。 此三者,以爲文而未足也。 故令有所屬。見素袌朴,少私寡欲。
現代語訳(意訳あり)
過剰な知恵や聖人らしい完璧な模範を追い求めることが、かえって民衆を苦しめるんだ。
素朴で自然な生き方こそ、真の利益を生み出すんだよ。
道徳や義理にこだわるあまり、かえって本来の優しさや愛情を見失ってしまうことがよくあるんだ。
自然のままで生きることで、人々は自然に優しさや、人との絆を大切にするようになる。
巧妙に利益を追求すると、犯罪や争いを引き起こす原因になるんだ。
自然に素朴なままで生きれば、無駄な争いも起きず、平和なんだ。
知恵、仁義、巧妙さを捨てることができれば、むしろ良い結果が生まれる。
無理に物事を押し進めたりせず、変化に応じて柔軟に対応することが大切なんだ。
「無理に行動しないこと」によってこそ、物事はうまくいく。
何かを押し進めようとする力みではなく
自然の流れに任せることで、すべてが整ってゆくんだ。
老子道徳経第19章 シンとの対話
ナオ:やぁ!シン。今日は老子経の19章について話したいんだ。
シン:やぁ、ナオ。よろしく。この章の内容について何か感じた?
ナオ:とにかく、老子は現代日本の教育と真逆を突いてるのが面白いよ。痛快というのか、なんというか・・・つまり、私達が学校で教育された、アレは一体なんだったんだって。
シン:ふふ。先生たちは、何に目くじらを立てて怒っていたんだろね?しかし、かれらもそう教育されてきたのだからある意味仕方のないことなんだ。君自身も、その教育に染まっているんだからね。
ナオ:高校生のとき、一人だけそのように染まっていない感じの
先生が居たんだけど、その先生が生活指導の先生に怒られているというエピソードを今思い出したよ笑
でも、あの自由な感じの先生は好きだったな。
シン:なるほど。ほんの一握り、そういう教育者もあるだろう。
陰の中にある陽という分子。
真逆に振られても、必ず反対分子というのが混じっているからね。
陰陽的にみれば、必ずそうなる。
ナオ:最近は、物事を陰陽について考えてみてそれを中立的な視点でみるようにできるようになってきたんだ。
シンの言う通りだと思ったよ。
シン:そのように感じ取れるようになったんだね!
一面的な見方だとどうしても視野が狭くなる。そのようにして陰陽と中立ポイントの視点を切り替えられるようにできれば、様々な立場の視点が得られ、きっと冷静に中立的な視点で見ることができるようになるだろう。
さて、この章については、老子の文明批判とともに、儒教的な教えに対する批判も含まれているとみていいね。
仁義礼智信?だったかな。これは、一歩間違えると支配者側の道具になる思想なんだ。それぞれは非常に良いことを言っているようにも思えるんだけど、これが行き過ぎると自由を失いかねない。
ナオ:どういうこと?私達が受けた教育というのは、この儒教だったということなのかな?
シン:たとえば、日本社会、教育への儒教的な影響をまとめると、次のようになる。
これらは、良いことと思う。そう、一面的にみればね。しかし、これらの枠組みを外れた途端に、レッテルを貼られることになる。なんせ、彼らは勤勉で、集団主義だから、それに反するものは許せない、となる。
だが、人というのは、すべてを一括りにできるわけではない。そこに許容されるバランサーがなければ、陰陰としたイジメのようなものが起きることもある。上下関係もそうだね。本当にバランス感覚に優れた人が上に成れば成立するけれど、そうはならないのが現実だ。
ナオ:うわー、これは過去からの学校教育を未だに背負っている今でも、このように表現するとアレルギー反応を見せる人もでてくるだろうね。仁義礼智信は当然だ!何を言ってるんだ!って。
シン:バランスが取れていれば、この仁義礼智信というのも、それほど悪くもない。しかし、絶対的価値として信じられると、これはなかなかに不自由を強いてこられる。少しでも違っていると許さない!っていう価値観の押し付け合いという不和に陥るんだよ。
ナオ:だから、老子はあえて、この儒教的な教えの欠点を知ったうえで指摘しているということなの?!
シン:よく理解できたね。この章は、理解できれば日本人にとって目の覚めるようなショックを味わうかもしれないね。なんせ真逆をいっているのだから。
そして、もっと自然に素朴であれ。私もよく思うことだ。私達の内側にある、昔子どもだった頃の素朴さを思い出すことは大事だ。日本の禅師である良寛さんみたいにね。
ナオ:・・・これまで感じていた窮屈さ不自由な感じとか、不安、理不尽というものの原因が見えてきた気がするよ・・・
シン:様々な経験を通して、君はその問題の核心に迫ってきているんだ。その経験も実は大事なんだよ。多面的な経験は、どれほどの知識にも勝るからね。それはそれで、君にとっての宝物さ。
ナオ:そういってもらえると、なんだか救われる気もする。さらに、老子道徳経を読み解いていくのが楽しみになってきたよ。
シン:そう、老子の道徳経は、道徳と名がつくけれど、君たちが教育された道徳と全く同様として混同してはならないんだ。共通していることもあるけれど、ほとんどが異なると考えていいよ。
ナオ:なんだか目が覚めた気がする。ありがとう、シン。今日もよく理解できたよ。
シン:まだまだ先は長いからね。また次の章で会おう!ありがとう、ナオ。
おわりに(19章の要点まとめ)
過剰な知恵と道徳の放棄
老子は、知恵や仁義礼智信などの社会的な規範や美徳が、過剰に強調されることによって、逆に人々を縛り、自然な生活を妨げると考えています。これらの教えや道徳は本来、過度に追求するものではなく、素朴で自然な生き方をする方が人々にとってはより良い影響を与えるとされています。素朴な生き方の推奨
老子は、知恵や規範を捨て去り、素朴で純粋な生き方をすることが大切だと説いています。このような生き方が、最も自然で、社会を豊かにし、個人にとっても幸せをもたらすと考えられています。つまり、余計な装飾を捨て、素直で無理のない生活を送ることが理想だということです。「無為」や「無欲」への回帰
19章では、無為自然という老子の核心思想が再び現れます。過剰な欲望や計画を持たず、物事を自然に任せることで、よりよい結果が生まれるという信念です。ここでの「無為」とは、何もしないことではなく、力を入れすぎず、自然の流れに従うことを意味しています。過剰な規律や道徳は社会を不自由にする
過剰に道徳や規律を求めることは、逆に人々を窮屈にし、自由な発展を妨げると警告しています。道徳的な教えや規範が人々を縛る網のような存在になることで、自然な発展や生き方が損なわれるというわけです。人々は自然に従うことが最も生きやすい
章の最後には、「素朴」で「少欲」に従った生き方が最も人間らしく、調和の取れた社会を作るという教えが示されています。過度に欲張らず、簡素でシンプルな生活を追求することが、最も本来の「道」を歩むことだと教えています。
19章は、過度な知恵や規範が人々を縛り、自然な生き方を妨げることを警告し、素朴で自然な生き方の重要性を説いています。老子は、社会的な義務や規律に捉われすぎることなく、無理なく流れに従って生きることこそが、人々にとって最も良い生き方だと伝えているんですね。
最後までお読みいただき ありがとう!