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他人に貼られたラベルを剥がせるかどうかは自分次第。

小説は、読むことで元気になる小説と、読むことでエネルギーを奪われる小説がある。ただ、読むことでエネルギーが奪われたとしても、その後、不思議と前向きになることがある。
寺地はるなという小説家が書く小説は、読むことでエネルギーを奪われ、その日はもう何もしたくなくなるけれど、でも、前向きになる作品だ。

寺地はるな『水を縫う』を読んだ。
同じ作者の作品である『カレーの時間』が非常に面白かったことと、タイトルと表紙の美しさで購入を決めた。

この小説は、「〇〇だから、こうあるべき」「△△だから、そんなことするなんておかしい」といった、他人から貼られるラベルに苦しむとある家族の物語だ。
『カレーの時間』もそうだったが、この作者はそういった「普通」「一般的」からほんの少しずれている人物の描き方が非常にうまい。私もどちらかといえば、「普通」「一般的」からずれている人間のため、だから読んでて苦しくなるのかもしれない。そして、そもそも「普通」って何?誰が決めたの?そこからずれることで他人に迷惑がかかるの?というメッセージを発信することで、そのずれている人たちに寄り添ってくれている、むしろ守ってくれているように感じる。だからこそ、この小説を読んだ後、私は疲れを感じながらも、前向きになれたのだろう。

まず、あらすじから。
高校生の清澄は、手芸好きをからかわれたことで、周囲から浮いている。清澄の姉・美青(みお)が結婚することになるのだが、美青は可愛いものや煌びやかなものが苦手なため、ウェディングドレス探しに難航する。清澄はそんな姉のためにウェディングドレスを手作りすると宣言するのだが、母・さつ子は猛反対。それには、離婚した父・全(ぜん)のことだったり、祖母の良い言い方をすれば「子どもの決めたことを尊重する」、悪い言い方をすれば「放任主義」な育て方に対する反発心のようなものが理由と思いきや、曽祖父、曽祖母、そして亡くなった祖父が祖母に「〇〇だから、こうあるべき」「△△だから、そうしてはいけない」という「普通」を押し付けてきたことが根底にあった。そして、家族はその貼り付けられたラベルをどうすれば乗り越えられるのか、どうすれば共存していけるのかを考えることを通じて、人として、家族として成長していく物語である。

この小説には、大きく分けて3パターンの登場人物がいる。
一つ目は、「他人から貼られたラベルは気にしない。私は私の好きなように生きていく」タイプ。清澄の幼馴染のくるみや、清澄の父がこのタイプだ。くるみは、石が好きで数学が得意な女の子として描かれている。世間一般的な基準で言えば、変わっているとされるステータスで、周りから遠巻きにされているが、全く気にしない。そして、清澄の父はお金の使い方が分からなかったり、妻が家事をしている間、子どもの面倒を見ているよう言われたのにも関わらず、良いデザインが頭に浮かんだら、周りが見えなくなる「父親」としては未熟な人物として描かれる。彼に対する描写はそこまで多くはないので、私の捉え方が間違っているのかもしれないが、そのことを自覚して妻や子どもたちに申し訳ないとは思いながらも、自分を曲げることはしない。自分はこうやってしか生きられないのだと腹を括っているのだ。
二つ目は、「他人に貼られたラベルを剥がしたいとは思いつつ、そのラベルに囚われている」タイプ。清澄と、彼の祖母がそれに当てはまる。清澄は、手芸、特に刺繍が好きで、いつかドレスを作ってみたいと強い憧れを持った少年だ。そのことで、周囲から浮いてしまい、小学校と中学校ではいじめられはしなかったにせよ、友達はいなかったようだ。そのため、高校ではそれを隠して生活しようとするも、くるみや級友の宮多の存在もあり、そのラベルを剥がそうともがいている。祖母は、自身の父親から「女の幸せは結婚して、家庭に入って、子どもを育てることだ」と言われながら育ち、夫からは外で働くことを許してもらえなかった。また、孫を連れてプールに遊びに行った時、自分も水着を着てプールに入ろうと思ったら、夫に「みっともない」と言われたことをずっと根に持っている。自身が昔からの凝り固まった価値観により苦しんだからこそ、娘のさつ子や孫たちにはそういった価値観に囚われず、好きなことを好きなように好きなだけやって欲しいと思っている。ただ、それが娘のさつ子からは放任主義、自分に興味がないと誤解されてしまうのだけど。
そして、最後の三つ目は、「他人から貼られたラベルの上に、更に自分でもラベルを貼ってしまい、苦しんでいる」タイプ。これは、母のさつ子と姉の美青が当てはまる。母のさつ子は、頭では「"〇〇だからこうあるべき"といった考えは時代錯誤」と理解しながらも、その実、作中で誰よりもその考え方に囚われている人物として描かれていた。母親として、美青と清澄には幸せになって欲しいと純粋に思っているが、それがエスカレートして、だからこそ過干渉になってしまったり、子どもたちにラベルを貼ろうとしてくる。そして、子どもがそれを拒否すると、「子どもを思ってこそのことなのに…」と苛立ちを感じる。時代錯誤だと自分でも感じている考え方を持った自分がいることを自覚できていない。恐らく、作中でこの考えに一番振り回されている。また、姉の美青は「女の子だから、可愛かったり、煌びやかなものが好きだろう」と思われ、それが強制されるような世界に窮屈さを感じている。その原因となったのは、幼い頃に遭った性的いやがらせと、その後に受けたセカンドレイプだった。そんな自分を受け止めてくれる素敵な婚約者と出会えた、そこまでは良かったのだが、向こうの両親の希望もあり、結婚式を挙げることになった。そこで、ウェディングドレス探しに苦戦する。個人的には、着物にするという選択肢は無かったのだろうか?と思ったが、それだと物語が始まらないので割愛する。

レースはダメ、リボンは嫌い、肌はなるべく出したくない、体のラインが出ると落ち着かない、丈は短すぎず長すぎずがいい等、姉の希望を全て叶えると割烹着になってしまい、清澄を散々悩ませる。ウェディングドレスとはこうあるべきものという固定観念と、こういうドレスを作りたいという希望があり、清澄は自分が作るべき姉のウェディングドレスの原型を失っていく。そこで手を差し伸べるのが、清澄の父である全、そして家族に拒絶された全の生活全般の面倒を見ている全の友人の黒田である。
この黒田という男の存在が、この物語を普通の小説とはまた違う作品にしていると、私は思う。黒田については、他人から貼られたラベルについてどういう考えを持っているのか、彼はそれに苦しんでいるのか、それとも開き直っているのか、正直分からない。
そもそも、この黒田という男がこの家族にとってどういう存在なのかを説明すること自体が難解である。さつ子と美青に拒絶されたことで心が折れてしまった全の代わりに、毎月全の給料から天引きした金額を持参し、全に見せるために子ども(主に清澄)の写真を撮影する父の友人。ただ、この作品を最後まで読み終わった後、もしかしたらそうやって黒田の存在が何であるかを定義づけることもまた、他人がラベルを貼る行為なのかも知れない。そう考えると、彼もまた、他人が貼り付けてくるラベルに苦悩しているのかも知れない。
実際、彼は一見、この家族とは一線を引いた上で付き合っているように見える。恐らく、本人もそのつもりだろう。しかし、実際には一線を越えてしまっている部分もある。撮り溜めたスマホに保存してある清澄たちの写真を見て、涙ぐむなど、親と同調しているとしか思えない。でも、それでも黒田は自分が清澄たちの親になれないと思っている。しかし、清澄は彼をもう一人の父として慕っているのだ。血縁もないし、黒田と母の間に夫婦関係になろうとする意思は全くないものの、それでも清澄にとっては父親と等しい存在なのである。これもまた、黒田は他人から貼られたラベルに囚われていると言えるかもしれない。

そして、家族はそれぞれ人との出会いや、人間関係や取り巻く環境の変化から、自分が囚われているラベルを乗り越えたり、共存する方法を見つけた結果が、美青のウェディングドレスである。
結局、美青の希望を全て叶えたデザインを作れないと、清澄は黒田を通して全に助けを求める。最初は渋っていた全も、いざ美青の希望を直接聞くと、あっという間にドレスを作り上げた。
これはもちろん全のデザイナーとしての経験、プライド、元々のセンス等があってこそできたことだろうが、私はもう一つ、清澄にあって全にないものが、ドレスの完成に繋がったと思う。それが何かというと、「美青に対する固定観念」である。清澄も全も美青が可愛いだとか、煌びやかなものへの苦手意識を持っていることには気付いていたのだろう。それに対して清澄は、そうは言っても心の底では憧れがあるに違いない、きっと想像以上のものを提示したら、美青も苦手意識を無くしてくれるに違いないと考えていた。それは美青を思ってのことではなく、自分の願望であることに、彼は幼さゆえに気付いていなかった。対して全は、それならそれでいい、ただ美青が着て幸せな気持ちになるものを着せたいというシンプルな理由しかなかったからこそ、美青のドレスを仕上げることができたのだと思う。
結局、自分ドレスを作ることができなかったと落ち込む清澄だが、黒田のアドバイスで、全が作ったドレスに刺繍をすることになった。派手なものを嫌う美青のために、白い糸で刺繍をするホワイトワークという技法ですることは決めたのだが、デザインをなかなか決めることができない。そんな清澄だったが、さつ子が夜中に肺炎で倒れ、病院に運ばれた翌日の早朝、駆けつけた黒田の一言であることを思い出す。それは、美青と清澄の名前の由来。名前に託した全の願いと溢れんばかりの愛情。そして、清澄はウェディングドレスに「流れる川」の刺繍を施す。タイムリミットの前日、一日かけて完成した刺繍。それを早朝に見に来た誰かを、清澄が玄関まで迎えに行き、扉を開けたところで物語は幕を下ろす。

正に、清澄がウェディングドレスに施した刺繍と同様、「流れる川」のような一冊だった。
「個性」「多様性」が叫ばれる昨今だが、未だにこの国ではそれらを受け入れられる器を持った人間がいないように感じる。実際、私の職場は職種的には圧倒的に男社会だ。そのため、「女だから〜」「女のくせに〜」という言葉を聞かない日はない。また、一時期営業部署にいた時、先輩のアカウント企業に引継の挨拶に行ったところ、「次の担当に若い女性を連れてくるとは、我が社も舐められたものですね」と担当者を怒らせ、危うく契約打ち切りになりそうな事態を招いたこともある。そんな会社が問題だろうと思う人もいるかも知れない。しかし、驚くべきことにそれが一社ではなかった。また、その多くが全国展開している、謂わば一流企業と呼ばれる会社だった。そんな会社ですら、そうやって他人に貼られたラベルでしか人を図れない人間しかいないのだ。

いつか全ての人が、他人から貼られたラベルではなく、自分で貼ったラベルで堂々と街を歩き、人生を送れるような世の中になるように、私も何か行動しないといけないと思わせてくれた小説だった。

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