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召し解任による「燃え尽き症候群」をどう防ぐ?

以前にも書きましたが、筆者の所属する末日聖徒イエス・キリスト教会には専任の聖職者はおらず、すべての役職が一般会員によるボランティアによって運営されています。

そして、教会では神様から導きを受けて様々な役職、責任(“召し”とも言います)に会員を任命して、働いてもらいます。責任の種類や任期などはすべて、その地区の教会(ワードと言います)の「ビショップ」が導きを受けて決められていきます。

そして、神様の導きがあれば、今の責任を解任になり、また新たに別の責任を受け、そこで奉仕することになるのです。

さて、ここで1つの問題があります。それは個人的にもう少しその責任を続けたいと思っている時に解任されると、「燃え尽きてしまう」ことがあるということです。

それは一種の「燃え尽き症候群(バーンアウト)」であり、その責任を一生懸命にやればやるほど、いざ解任の際に燃え尽きてしまう危険性が高くなります。
燃え尽きないにしても、解任の際には非情に大きな寂しさを感じます。

今回は、責任の解任の際に、どうすれば「燃え尽き」ずに新しい責任を受け入れることができるのか、それについて考えてみたいと思います。


責任を過度に「がんばり過ぎない」

燃え尽き症候群の原因は、「がんばり過ぎ」てしまうことにあります。一つのことに集中して、度を越して自分の限界以上にがんばり過ぎてしまうと、ある日ポキリと心が折れてしまうのです。それが、解任のタイミングで起きると、信仰を揺らがせることになったりもします。

がんばることは大切ですが、自分の力、限界以上にがんばらないように、モルモン書では次のように諌められています。

……自分の持っている分に応じて,それぞれ持ち物を貧しい人に分け与えるようにしてほしい。例えば,飢えている人に食べさせ,着る物のない人に着せ,病人を見舞い,各々の入り用に応じて霊的にも物質的にも助けを与えることである。
これらのことはすべて,賢明に秩序正しく行うようにしなさい。人が自分の力以上に速く走ることは要求されてはいないからである。しかしまた,賞を得るために勤勉に励むのは必要なことである。したがって,何事も秩序正しく行うようにしなさい。

モルモン書 モーサヤ書4章26-27節

私たちは自分の持っている分に応じて、自分の力以上に速く走ることは求められてはいませんし、賞を得るためにがんばることはあっても、自分の力以上の限界を超えたことをやるべきではありません。

教義と聖約の書で主は、預言者ジョセフ・スミスにこう述べておられます。

あなたは翻訳できるように与えられた力と手段以上に急いだり,それ以上に働いたりすることのないようにしなさい。しかし,最後まで励みなさい。

教義と聖約10章4節

要は、がんばるところとセーブする部分と、バランスが大事だということです。そのバランス、度合いは人によって異なります。能力や生活状況など人は様々な違いがあるので、共通の基準はありません。自分の力、できることをよく見極める力を養いながら、それでもバランスよく最善を尽くすことが大切です。

適度な「休息」を取る

私たち人間は、この地上で「不完全な肉体」に宿って生活しています。怪我もするし病気にもなります。そして、疲れもし、睡眠も必要で、適度な休息を取らなければ心身の健康を害してしまうでしょう。

教会の責任といえども、休息は絶対に必要です。
どんな世界のプロでも、自身の最大のパフォーマンスを維持するためには、休むことをおろそかにはしません。良い仕事をするには、適度に休みを取ることが不可欠なのです。

先に引用した2つの聖句からも、神様は私たちが休みを取らずに限界を超えてがんばることは求めてはおられないのです。
フルタイムの宣教師であっても、休みの日があるのを忘れないようにしましょう。

消耗が続く時は、誰かに相談し、解任をお願いすることもできる!

誰が最初に言ったか分かりませんが、よく「責任は断らない」をモットーにしている人がいます。それは良いことかと思いますが、それが度を越してしまうと、「自分が壊れるまで働く」ことを美徳とするような、自分から解任の相談をすることに大きな罪悪感を感じるようになってしまいます。

バーンアウト(燃え尽き)が起こるのは、そうした著しい消耗に対する相談が誰にもできないことも原因の1つとして挙げられます。
そういう時は、ミニスタリングブラザー&シスターや教会の指導者、扶助協会の会長や長老定員会の会長、ビショップに相談してください。とくに責任に関して限界を迎えている場合は、遠慮することなくビショップかビショップリックの顧問に相談すべきです。彼らは親身になって、相談に乗ってくれ、必要な助け、対応を取ってくれると思います。

新しい責任には必ず「神様の御心」がある!

もう少しその責任を続けたいのに新しい責任に召されてしまうことは、往々にしてあります。がんばって責任を果たしているほど、解任は辛いことが多いです。

しかし、ここで声を大にして言いたいのは、「新しい責任への任命には、必ず主の御心がある」ということです。

筆者がビショップリックの顧問として奉仕していた際、誰をどの責任に召すかは、すべて十分な検討と深い祈りによって決められていました。3人で祈り、全員が一致しないと決めることはありませんでした。どんな責任でも、必ず祈りによって召しています。

もし、望んでいるものと異なるような新しい責任に召された場合は、そのことを思い出して、神様の御心に委ねてみてください。そうすれば、新しい責任は、祝福をもたらすものになると思います。

筆者は、そんな経験があります。ある責任で消耗して、メンタルのバランスを崩してビショップに相談して解任してもらい、別の責任に召されました。その責任は、後に筆者自身にとって祝福と成長の機会を与えるものとなりました。
神様の御心が、そこに必ずあるのです。

奉仕の焦点をイエス・キリストに当て直す

2024年10月の総大会の中で、十二使徒のウークトドルフ長老は、こう述べています。

教会の召しに燃え尽きてしまったと感じたり,大きな負担に感じたりすることがあるなら,奉仕の焦点をイエス・キリストに当て直し,奉仕を主への愛の表現としてください。

『根に養いを与えれば,枝は生長します』ディーター・F・ウークトドルフ長老

私たちが奉仕をするのは、主のためです。主を愛しているからこそ、人のために奉仕をします。

どの責任で働く場合も、それは主のために召しを果たしているのです。新しい責任は、望むような責任ではないかもしれませんが、その責任は、以前の責任と同じく主のために働く機会なのです。

ジョイ・D・ジョーンズ姉妹は、こうおっしゃっています。

わたしたちは,この家族とビショップに仕えようと誠実に努力していたものの,ほんとうに主への愛ゆえに仕えているかどうかを自問する必要があることに気づきました。ベニヤミン王は次のように述べた際に,この違いを明らかにしています。「見よ,わたしはあなたがたに言う。わたしは自分の生涯をあなたがたのための務めに費やしてきたと言ったが,それは自慢したくて言ったのではない。わたしは神のために務めてきたにすぎないからである。」
では,ベニヤミン王が実際に仕えていたのはだれだったのでしょうか。天の御父と救い主です。だれに,なぜ,奉仕するのかを知ることで,愛の最大の表現が神への献身であることが分かるようになります。

『主のために』ジョイ・D・ジョーンズ

主はあなたを次の場所で働くように望まれておられるから、そこに召されるのです。それは、救い主と神に仕える場所となります。
だから安心して、次の責任を果たしてみてください。

また、今責任で限界以上に無理をして消耗に悩んでおられる方は、ぜひビショップに相談してみてください。それは罪悪ではありません。ビショップはその情報を得て、きっと祈って対処してくれると思います。


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