自己愛人間 / 美醜
自分の好きなところは?と訊かれたら、
「顔と体」と心の中で答える。
ひゃー、ナルシスティック!(震え)
実際はそんなこと言えないから、「う〜ん、なんだろね(笑)」と笑ってごまかしちゃうだろうな。
性格的な面で肯定的に評価できる部分がない。
いや無くはないと思いたいんだけど、「人を傷つけないようにしてる」とか言ったら、「それは偽善だ!無意識に傷つけているだろう!」と、もう一人の自分批判が入るし。。
自信をもって好きと言える部分が、自分の見た目くらいなんですね。
自慢に聞こえたらスミマセン^_^; としか言いようがないが、本当にそれだけが救いだった。
神さまはわたしの頼りない自我をどうにかこうにか安定させるために、勢い余って死んじゃわないようにとりあえず、「アンタちょっと可愛くしたる。」ってやってくれたにちがいない(?)
小さい頃、母とスーパーに買い物に行くと、商品よりも店に点在する鏡ばかりに目がいく子どもだった。
鏡に映る自分の姿を眺めるのがなによりも好きだった。
小学校の時は体操を習っていて、体操教室には必ず大きな鏡があるから、そこでもやっぱり自分の姿をよ〜く見ていた気がする。
もし自分が最低最悪な人間だと感じてしまっても、鏡を見れば大好きな自分の顔が映っている。
「まだ大丈夫。」
鏡を見ることは、生き延びるための魔法であり、現実的な処方箋だった。
そのせいか、子どもの頃はテレビでよくやっていた整形番組をつねに恐れていた。世界仰天ニュースとか、ビューティーコロシアムとかね。
とくにビューティーコロシアムはゼッタイ子どもにトラウマ植え付けるだろ!!!と感じざるを得ない演出で大嫌い。おどろおどろしい音楽を垂れ流しながら、現実でみたこともない女の人が「ブサイク」認定されていた。そして「幸運にも」整形に成功した姿がスタジオで披露されると、皆んな「すごーい!」「綺麗になった!」と拍手するのだ。
こっっっわ。( ˙-˙ )
当時わたしはあまりにもその番組を恐れていたものだから、思わずクリスマスの前日に欲しいものと一緒に「ビューティーコロシアムを無くしてください」と決死の思いでサンタさんに手紙を書いたのであった(笑)
サンタさんは欲しいものをくれる存在であるだけでなく、要らないものを消し去ってくれる存在でもある、と信じていたんだね、( ´_ゝ`) 我ながら欲張りな子どもだったなあ(笑)
親はあれを読んだのかしら。未だに謎のまま…
それはそうと、当時JCの私は「自分は可愛い」ということが絶対的なアイデンティティだったので(悲しい哉いまでも変わってない)、その唯一安定した信念が整形番組の宣伝する「矯正することで得られる美」によって脅かされている!と震えていたのでは、と今振り返ることができる。
「自分もいつかはこの人たち(番組に出演していた女性たち)みたいにブサイクになっていじめられるんだ」
「自分も矯正させられるんだ」
…いまからすると語弊を招く言葉遣いですが、当時の私の言葉そのままで言うとまったくこのように考えていました。
だからこそ、今でも化粧したり外見に気を使っても、どこか「自分は変なのではないか」「笑われていないだろうか」と心配しているのかもしれない。幼少期のトラウマは根強いですね、、。
それから「自己愛人間」について。
前に一瞬だけ関係のあった男性が、全きナルシスト、自己愛人間の権化!みたいな人でした。
「ぼくの手に触られたら気持ちいいだろうね」
「ぼくの顔を拝めていいね」
のようなトンデモ発言をシラフで吐く鬼のような人。
それでも憐れにも本気で其奴に入れ込んでいたワタシ。。
どこかで、同じ匂いを嗅ぎつけていた。
限りなくゼロに近いかマイナスに振り切った自己肯定感の低さを、過剰な自己愛でくるんで固めて、なんとか自分を保っている弱い人間。
弱いからこそ、私がいてあげなければこの人は孤独になってしまう、と要らぬ責任感をかんじて傍にいようとした。
本当は私の人生に侵入してくる悪魔だったのかもしれない。
同じ要素を持っていたから、仲間だと思いたくなってしまった。助けてあげなければ、と思い上がっていた。
案の定、私の人生には必要のない存在だったようで、数週間の付き合いの後にあっさりその人は去って行った。
なんだったんだ、アレは、、。(汗)
嵐は過ぎ去ったが、きっとまだ手放せない自己愛の片鱗が私の中から顔を出しそうになるのを時々かんじる。
自己愛は、多分なさすぎてもダメなんです。
こちらも気づかぬうちに自発的に膨大する自己愛を飼い慣らしたい。
自分はちっぽけなフツーの人間で、でも私にとってワタシはちょっととくべつ♪ くらいの気持ちで。
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