「この割れ切った世界の片隅で」感想
記事を見た。当たり前の子供が、当たり前の人生を生きて間違いに気付く話を。
美談だった。世の関心を向けるには絶妙な文章で、共感を得れて、文もよく書かれていた。客観的な事実を調べ上げて、子供の妄言だとは言わせない。そんな文章だった。
私はそれが直視できなかった。
ただただ、ひたすらに羨ましいと思う。憎いとも、悔しいとも思う。同じような年でなぜ自分が書けないのかと、嘆くばかりだ。
故に、自分の考えを残そうと思う。これを誰かが見なくても構わない。
かなりヘイトが高めで、不快にさせる文章だとも思う。読むのならば自衛してほしい。まともに読めていないから、解釈違いがあったらすまない。存分に叩いてくれ。
今まで生きてきて、その記事を読んで、一つ思った事は、結局何も理解されないんだなということだった。育ちが良く裕福であった家庭も、貧困家庭で満足に生活できない家庭も、その子供が最終的に行き着くのは孤独だ。理解者がいない。大多数の「普通」というコミュニティから外されて、新たにコミュニティを形成できるほどの数がいない。特に学校という場では母数が圧倒的に足りない。それから裕福な家庭でも虐待や、満足に学校に通わせて貰えない場合も存在する。教育を強要されている家庭もある。
その記事は下の人間を憐れむような書き方をしていた。上と、下と、「普通」。その三種類に分かれていると話していた。
違う。世の中にあるのは二種類だ。マジョリティとマイノリティ。ただそのマイノリティの中に裕福と貧困がいるだけだ。
正確に言うと、「普通」というマジョリティには裕福な人間もいるし、貧困な人間もいる。ただ、かの人が言う圧倒的上位存在。あるいは、想像のつかないくらいの下位存在は「普通」というマジョリティに属することはできない。
人間は体験した事しか。想像できない。じゃあ、ファンタジー作家は魔法でも使ったことがあるのか?ないだろうと言う人もいるだろう。だが、体験が体で味わった事だと誰が言った。本で読むのもまた体験だ。映像や他の創作物を鑑賞し、想像を種をもらう事も出来る。
故に「普通」の人々は体験したことのない、そう思えてしまう人々の事を「現実に存在している」と認識できないのだ。空想で得たものは空想のものだとしか認識できない。例え、LGBTという存在を幾ら寛容に見ようと、虐待の事例を聞こうと「現実」であると認識してくれないのだ。だから容認しているなどと言える。変えようと軽々しく言える。
実際に友人に裕福な人間、教育を強要されている人間、裕福で虐待されている人間、貧困でいじめられた経験のある人間、まともに教育というものを受けたことがない人間を持ってみればどうだ。あるいはLGBTの兄弟を持つ友人や、障がい者と言われる兄弟を持つ友人ならどうだ。そして、妄信され、蔑まれ、疎まれた経験のある人間が本人ならどうだ。
軽々しく分断されている。貧困は可哀そうだと言うだけなら安いのだ。例えどれだけ言ったところで、何も変えてくれない。ならば君たち「普通」の人間は私たちの異端を受け入れてくれるのか。くれないだろう。可哀そうだからといって、その人間をどうにかしようとも思わないのだろう。あくまで集合体として貧困だから、変人だからとレッテルを張るのだろう。だから救うのだと、まるで君が上位存在になったつもりで言っているのだろう。
幸せに生きて欲しいなんて願いは一切ないのだろう。
悔しい。悔しくて仕方がない。それでもやっぱり社会を作るのはマジョリティだから、そういう世論で事が運んでいくんだ。
君たちマジョリティは見えないのかもしれない。けれどもマイノリティはマイノリティに気付く。同じような人間に安心するからだ。「普通」に入れなかった人々が集まるからだ。マイノリティの周りにはたくさんのマイノリティが集まる。
その人の言う優秀な人間が何かは知らない。けれども、そんな人間が上位という冠を持ったマイノリティだと思わない事だ。それはこっちにとって一切普通じゃない。
綺麗ごとで事が運ぶなんて思うな。君が全てだと思うな。
私は恐らくマイノリティは気付いた時には愕然とした。普通だと思ってたんだ。周りにマイノリティしかいなかっただけだった。
普通と書く人間が「普通」という確証はない。けれども、文章を読めば読むほど、普通に生きて苦悶も幸せもあって生きている「普通」の人なのだろうと知った。正直、学校に毎日通えている時点で私には理解できない。
どうか本人に知ってほしい。君が啓蒙した事は正しいのかもしれない。きっと「普通」の人がそこまで知るのは大変な努力を要したのだろう。それでも、君の、「普通」の人々以外には周知の事実かもしれないのだ。
レッテルを張るのはよくない。理解できる。けれど、申し訳ないが吐き出させて欲しかった。
醜い文を見せてしまった。不快にさせたかもしれない。心の底から謝罪する。すまない。