記事を見た。当たり前の子供が、当たり前の人生を生きて間違いに気付く話を。 美談だった。世の関心を向けるには絶妙な文章で、共感を得れて、文もよく書かれていた。客観的な事実を調べ上げて、子供の妄言だとは言わせない。そんな文章だった。 私はそれが直視できなかった。 ただただ、ひたすらに羨ましいと思う。憎いとも、悔しいとも思う。同じような年でなぜ自分が書けないのかと、嘆くばかりだ。 故に、自分の考えを残そうと思う。これを誰かが見なくても構わない。 かなりヘイトが高めで、不快
この日記ををここに残すことに価値があるかと言えば、きっと己にしか価値のないものだろう。ではなぜわざわざ残すかと問われれば、ちんけな承認欲求に過ぎない。数多体験したことのないような人数が見て、認めてくれれば全く天国が見れるに違いない。恥ずかしくて消す未来もあるかもしれないが。 一つ。歳を重ねるにつれ幸せを認められなくなった。正確にそう言えるわけではなく、明日の私が同じことを思っているかは全く判断しかねる。今日機嫌が悪いだけなのかもしれない。しかし、やはり経験を積み多くの感情を
最初に、この文章は思い付いた事を、感情のままに殴り書きしている。そのため稚拙で分かりづらい文章であったなら酷く申し訳ない。不快と思われる方もいらっしゃるだろう。そういう時は見ないでいただきたい。 最近ツイッターでは誹謗中傷の話が表に出ていて、もう一度インターネットというものについて見返そうとする運動が起こっていたりする。そもそも人命がかからなければ動くことさえ出来ない現状に失望しざるおえない、という話は置いておく。 この文章で話題にしたいのは、誹謗中傷の中身のことだ。空前