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趣味の先

大人になって会話の相手に趣味を聞いても、「特にない」って答えられることが多い気がします。
職場の休憩時間で会話を余儀なくされるとき(ちょっと語弊あるかもしれませんがお互いよく知らないときって何話したらいいかわからないっていう人も多いと思うんです)なんて、やっぱり趣味の話は鉄板なんじゃないかと思うわけです。

そんな鉄板ネタは、当然私にも向かってきます。
そして私ももれなく、胸を張って「これです」って答えられない側でした。


私が思う「趣味」は「”好き”をどこまで追求してるか」「長く続いてないと趣味とは言えないんじゃないか」みたいな考え方をしてしまっていて、好きなんだけど私よりもっと好きな人がいるしな~とか、興味はあるけどずっとしてるわけでもないしな~って勝手に線を引いたりして、結果「特にないかも」という答え方になっていました。

「特にない」と答える相手もたいていそういう考え方をしてたので、それが正しいみたいに思ってしまってたんですね。


趣味、だいじ。


前々からそう思ってはいましたし、趣味探ししたこともあります。
でも「これどうだろう」と検討しても何か釈然としないといいますか、きっと長続きしないな~ってどこか直感が働くんですよね。
そういう意味では私はわたしをよく理解してると自負しております。


それでも「これ趣味なんです」って言える側になりたくて、趣味を求めて三千里を歩かなければだめかと思っていた矢先、noteに出会いました。

機能とか、使い方とか、趣味でnoteを始めようとか、趣味としてだけじゃなくて明確な意思を持って書こうとかいったことは全部後々のことで、「ここを私は使うべきだ」と思わせてくれた不思議な出会いでした。





授業でノートをとることは大好きでしたが、文字でなにかを表現するというより、徐々に漫画家に憧れたりするくらいには絵を描くことのほうが好きで、趣味でした。


幼少のころ、祖父母の家に行ったら必ず絵を描いて過ごす時間があるため、ある時から紙がなくなるからっておばあちゃんが裏の白いチラシをとっておいてくれるようになりました。
子供心ながらにいっぱい紙を使ってたことが申し訳ない気持ちだったので、これなら思う存分描きまくれる!と、有難く裏白のチラシに描きまくっていたのは今でも覚えてます。


インドアというプールに両足浸けて日々過ごしている私を見かねて、”たまには外出ないとだめだから”という理由で母に連れていかれるお出かけでは、興味のないイベント(母は夢中!)で、ただ座ってるだけの時間が苦痛でしたが、だからといって近くをうろうろしてくるといった冒険心のない私。
それを察して(駄々も捏ねたからからですが)母が「絵でも描いてたら?」と、手帳の要らないページを差し出してくれました。

数時間(もしかしたら90分くらいとかなのかもしれませんが)をやり過ごすため、ひたすら小さな紙の上に絵を描き続け、描いてる間は何の退屈もありませんでした。


中高生あたりではかなり漫画家への興味が強くなって、クラブ活動でイラストを描いたり、マニアックな友達の作る同人誌を手伝ったのをきっかけに1作描いたりみたいなこともしました。
体力も有り余ってて徹夜の作業も楽しんでできたくらい描くことに没頭してたと思います。


それが大学生になってからは、漫画を読むことのほうが俄然増えて、絵を”好きで”描くことはほぼなくなっていきました。

社会人になるとますます”好きで絵を描く”ことから離れていきました。



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学校の授業では国語が好きで得意科目でした。
朗読もなぜか好きで、人前で発表することと無縁でいたいと思ってた内気な性格なのに教科書の朗読にあたったときだけはうれしく思っていました。


絵を描くことが好きだから選択科目を美術にしました。
今思うと、そこで絵を離れるきっかけが芽生えたと思います。

人生で初めて油絵を模写で描くというときに選んだ題材を顧問の先生に否定的に捉えられ、私にはセンスがないのかとショックを受けたのだと思います。
その先生は現役で絵を描いてる方で、『芸術家なのにほかの人の作品を否定するんだ』とも思ってしまいました。

あの頃よりは大人の今、芸術家だからこそストイックに意見を宣告してくれただけだと思えるのですが。


昔ほどではないけれど絵を描きたいと思うことはあります。
ただ明らかに下手になっている(昔は上手かったという意味ではなく情熱の問題といいますか)ので、もう漫画家に憧れることはないと思います。

そして、だから、”文字で表現”することに惹かれたのかもしれません。
”かく+あらわす”という共通点がありますから。

私にとってnoteで書くことは、文字を”書く”というより”描く”というイメージです。
音にしたら”かく”なので何の変りもないんですけど、ちょっとした拘りを持つのが私っぽいなと思ったりします。

でもなにより単純に、純粋に、書きたいと思えているから描いていて、それがモチベーションならそれもそれでよくて、のんびりだけど続けていけるのなら万々歳でしょ、と思って今描いてます。



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趣味として描いてるnoteはとても楽しめてます。


ですが、このままでいるのも違う気がするとも思ってます。


noteには、記事の下書き保存はあっても非公開はないんですよね。
それは公開ありきってことで、じゃあなんでだろうって考えてみたら、そもそも”クリエイター”は見えないものを形にして世に送り出すまでが前提なんじゃないでしょうか。

え、そんなの当たり前じゃん、ってほとんどの人が言うかもしれません。
非公開がいいならオフラインで日記書くだけでいいでしょ、って。


私という人間は、好奇心があって探求心があって調べることは好きなのに調べたことをちゃんと理解してないという性質で非効率な怠け者です。

実際にやってから気づいたり考えたり学習したりの繰り返しです。

視野が狭いとはこういうことかと実感の日々です。

まだほんの庭先程度にnote内を散策して、ほかの人の思い・想い、考え、思想、才能、他のいろいろに出会えて、自分以外の内側を知れて、少しずつですが視野が広がってることを感じてて、それならもっともっと遠くまで足を運べばもっと視野が広がるってことで、それを自宅でできてしまう今の時代はとても恵まれていると思います。


貰ったものをお返し出来たら。

お返しできるものは持ち合わせてないかもしれないけれど、何がお返しになるかは自分で決めることじゃなかった。


そういう思いがこのままではだめだと思わせてくれてる気がします。

そんなの、書く前に気づいててよ、って話なんですが。


ほんのちょっとネガティブなことを言うと、私からはすごい芸術家のようなオリジナリティは出てこない気がします。
私が知りたいことや調べたいことはネットで検索すればほぼ詳しいことがわかりますし、私が思ってたり思いついたことなんて少しのnote散策でこれでもかっていうほど目にしてますから。


だから、じゃあそこからどうするかっていうポジティブ変換。

どうやら私はこのポジ変換は得意みたいです。



踏切の前にいる感じです。

遮断機が上がったら、進むことは決めてます。


こう思えるのは趣味であるnoteのおかげなんです。


趣味、だいじです。

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三日月
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