渡辺一夫と葛原妙子
仏文学者の渡辺一夫(1901~75)が私の祖母(葛原妙子)について文章を書いている、ということは、歌人の松村由利子さんに教えていただいた。「え?あの渡辺一夫が?」と思った。渡辺一夫といえば、私の大の愛読書、岩波文庫版『完訳 千一夜物語』(全13冊)の翻訳者である。数あるアラビアン・ナイトの中でも最も文学的香気ゆたかなマルドリュス版を、流れるように美しい日本語に翻訳したこの本は、私の人生の宝物であり、20代の頃からもう何度読んだかわからない。その著者と自分の祖母に接点があった、とは知らなかった。
渡辺一夫の文章は、祖母が参加していた短歌結社の雑誌『潮音』の第37巻第5号(1951年)に掲載されていた。タイトルは「「橙黄」によせての告白」。どうも祖母は第一歌集『橙黄』(1950年)を彼に献呈したらしいのである。それを読んでの感想が、2ページにわたって記されていた。
内容はまず、渡辺一夫が少年時代から青年時代にかけて、短歌に魅せられていたことから始まる。
しかしその後、彼は短歌に対して疑問をもつようになる。理由はいくつかあるが、特に重要なのは、外国文学、中でもフランスの近代文学にふれるようになり、それらと比べて和歌の「狭さ」が気になるようになった、ということだった。その頃の文学観を、渡辺一夫はこんな風に語っている。
外国文学に比べて和歌は「人間を狭い世界へ逃避させる」ものだ…そう考えていた渡辺一夫に歌集を贈ったのが祖母だった。渡辺一夫はこれを読み、今までと違った考えで和歌を眺められるようになったという。一つは祖母の歌に「細かい、或時には人工的とも思われるほどに行き届いた心理的な措辞(前掲書p.30) 」が見てとれたこと。このくだりを読んだ時は何だか嬉しかった。というのも、当時、祖母をはじめ一部の女性歌人たちは歌壇の男性たちから攻撃されていて、「知性がない」と言われることもままあったからである。『橙黄』出版の数年後になるが、歌壇の長老、尾山篤二郎(1889~1963)の、
という言葉にもそれが現れている。しかし、渡辺一夫には祖母の作歌における緻密な操作がわかったのだ。そしてそれはたゆまぬ努力と知性に裏打ちされたものであることも、おそらく感じてくれたのだ。
もう一つ、渡辺一夫は祖母の歌集を一つの叙事詩だと思ったという。これも読んでいてとても嬉しかった。短歌は一つ一つが小さな詩だが、私自身、祖母の歌が例えば四つ並んでいる時、何だかペルシャの四行詩(ルバーイー)みたいだなあ、と感じることが多かったからだ。
一つ一つは小さな歌であっても、まとまれば叙事詩的な形態にもなり得る。一冊の歌集が、一つの時代、この場合は戦中戦後の時代だが、それを生きた作者の心で貫かれた叙事詩になることに気づいたと、渡辺一夫は述べている。そしてそのように開眼させてくれたことへの感謝の念が、この雑文を綴らせたという告白で、彼の文章は締めくくられていた。
いやはや、あの渡辺一夫がこんな風に書いていてくれたとは…読んでいて本当に感慨深かった。やはり、フランス文学という、日本語とは全く異なる言語による文学を知っている人は、日本文学しか知らない人とは目のつけどころが違うのかもしれない。どういういきさつだったのかわからないが、こんな素敵な文章を書いてもらえるなんて、渡辺一夫に第一歌集を献呈して本当に良かったなあと、祖母のために素直に喜んでしまった。
ちなみに渡辺一夫は東大仏文科で学んでいた私の舅(夫の父)の恩師であった。『橙黄』を読んでこの文章を書いていた時、将来、自分の教え子の息子が、歌集の作者の孫娘と結婚することになるなど、全く想像すらしなかっただろう。世界は思わぬ奇跡に満ちている。そう思いつつ、古い『潮音』のコピーを手に、一人で自然に口元がほころんでしまう私だった。
追記①:渡辺一夫のこの文章については、川野里子『幻想の重量 葛原妙子』(書肆侃侃房)にも言及がある
追記②:フランスに留学経験がある小説家の芹沢光治良も、祖母の歌について「表現の技術、言葉はフランスの象徴派の詩人のようなけんらんさをもって、抽象派のように知的な厳格な操作をしている」(『女人短歌』13(43))と述べている。