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人間の欲望に見る技術

技術とは誰のために存在するのか.technologyは人間が生きていく上で分離することのできない概念だ.その語源はラテン語のtekhnologiaのtekhne(技術)とlogia(知識)の合成による単語と言われている.

現代社会に存在する技術は果たして誰のために存在するのか、そこに雲がかかってしまっているように感じる.本当に技術は人間のために存在していると断言できるのか?技術は何のために存在するべきであるのか?といった哲学的であり普遍的でもある思想は現代社会において重要な問いになるはずである.

人間にとっての最初の技術は間違いなく“火”を発見したときだ.火を見つけたことにより魚を燃やす、獲物を燃やすといった消毒的な役割を担い寿命を伸ばすことを可能にした.

その後、日本で言えば縄文時代には石器が生み出され狩猟民族として“ゾク”を作り集団での行動が行われた.弥生時代に突入すると大陸から稲作の技術が入り、人々は集団での生活と安定的な食糧の獲得に成功した.そのときに気候に適した住居や豊作を祈るための文化的なものが確立され技術と共に人々の思想が形成されていった.ここまでは正に生きるための技術だったに違いない.

生きるための技術とは人類が後世に子孫を安定的に残すために必要なのは技術である.安定的な食料や土地などは生物の存続に大きな影響を与える.

先ほど思想について少し触れたが、この時に世界各地で思想が形成され、それは今も続く全く違った価値観を作り出した.例えば中国的に言えば人間中心主義で自然は人間によってコントロール可能な思想が強まり,日本では全てのモノに神が宿っているとする八百万の神的な理解によって自然は人間のコントロールできないモノだとされた.

これには中国は安定的な大陸で人民を統制するために必要な思想だったに違いない.しかし日本は地震大国とも言われ、島国という地政学的に特殊な環境にいた.それにより自然に対する意識が全く違うのだろう.

話を戻すと生きるための技術が必要とされたが、近代化によってそれは人間の内に秘められていた欲望が顕在化してしまった.もっと美味しいものを食べたい、速い移動手段が欲しい、美しくなりたい、自慢したい.....それが欲望として近代社会を作り出した.それに応えるために車を作り出し、もっと美しくなるために整形を行い、あらゆるものを便利にするために自動化を行なってきた.私はこれに対する批判はするつもりはないが、この技術は人間のために存在するのではなくなってしまったことへの不安を感じる.

社会のヒエラルキーを考えてみると人間が頂点に立っているはずだが、実際はそうではないのではないだろうか.車を動かすために整備を行い、洗車を行い、保険に入る.回転寿司(今は多くの店舗で寿司が回転することは無くなってしまった)に行けば大部分が自動化されている.寿司のシャリを作るためにマシーンが自動で行なっている.自動化によって便利になったと感じるかもしれない.しかし視点を変えてみると、それは技術を支えるために存在している人間の存在というわけである.回転寿司を作るためにネタとシャリを合わせてレーンに運ぶのは人間である.車の例であれば車を動かすために支える人間の存在.それはテクノロジーが社会を形成していると言っても過言ではないだろう.

人間はテクノロジーが存在しないと生きていけない.そしてテクノロジーは我々の手に負えないフェーズで存在している.

今からデジタルデトックスを唱えてスマホから離れた場所で生活すると言っても仕事も人間関係も全てはスマホの中にある.我々にとってのテクノロジーは人間のために存在するのではなく、テクノロジーのために人間が存在している方が納得できる部分が多い.私は今のテクノロジー社会を悲観的に見ているが私自身もテクノロジー社会から隔離されることは不可能である.

自然破壊を無視した経済成長は誰にも止められなくなっている.それは正にテクノロジーを支えるために人間が存在し人間の欲望を顕著に現しているからだ.

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