(六十六)斯波園女の句を味わおう

江戸時代初期の俳人、斯波園女(しばそのめ)の略歴を示す。
1664年(寛文4年)伊勢山田(現在の三重県伊勢市)に神官秦師貞の娘として生まれる。
同郷の医師・斯波一有(別号、渭川(いせん))に嫁ぐ。
1689年(元禄2年)芭蕉門に入る。
1692年(元禄5年)夫と共に大坂に移住する。
剃髪後は智鏡と称す。
1726年5月21日 (享保11年4月20日)63歳で死去。
 
さて、それでは、彼女の秀作を見ていこう。連句から始める。
〇1694年(元禄7年)9月27日、園女の自宅にて。
園女は折から大坂を訪れていた芭蕉を自宅に招き、九吟歌仙興行を催した。
  芭蕉:白菊の目に立ててみる塵もなし
  園女:紅葉に水を流がす朝月
 
芭蕉は白菊の清雅な美しさを詠んだが、この発句は園女の自宅が塵も見えない程、掃除が行き届いているとも読める。つまり、園女の綺麗好きを褒めた句と言える。
これに対して、園女は朝月の下の紅葉を詠む。朝月はどんな月であろう。この日は旧暦の8月6日であるが、この日の月を述べているとは限らない。この月は皓皓とした月ではあるまい。
 園女の自宅に対して塵もなしと過分の評価を貰い、恥じ入った。我が家にも塵がありますと言うべく、紅葉の塵を水で洗い流したと表現した。実に、女性らしい受け方と言える。同時に、薄明かりの月が差している美しい光景をも詠んだのである。秋の白菊・紅葉の色の対比が美しさを強調していて、また紅葉の使い方が新鮮である。
 
〇夜あらしや太閤様の桜狩(『俳家奇人談』)
太閤秀吉は花見を2回催している。これらの花見の前後の出来事を簡単に書く。
・1591年 秀吉が天下を統一
・1592年 文禄の役始まる(朝鮮への出兵命令)
・1593年 文禄の役休戦となる
・1594年4月14日(文禄3年2月27日)
  吉野の花見(京都吉水院に本陣を置く)催す
・1597年8月27日 慶長の役始まる(約14万の軍勢を朝鮮に出兵)
・1598年4月22日(慶長3年3月15日)
  醍醐の花見(醍醐寺三宝院山麓)催す
 
「夜嵐」があったと思われるのは吉野の花見の方である。5日間催したが秀吉一行が到着から3日間は雨が降っていたので、秀吉が、「雨を止ませなければ全山に火をかけて下山する」と怒ったため、僧侶たちが慌てて晴天祈願をしたところ、翌日雨が止み、無事に花見が行われたとの逸話が残っている。
従って、「太閤様の桜狩」とは「吉野の花見」を指していると考えられる。つまり、文禄の役が休戦となり慶長の役として再開される間に、この花見を催したのである。徳川家康、伊達政宗、前田利家、宇喜多秀家等武将や茶人、連歌師総勢5千人が参加した大規模の桜見であったが、最高権力者でも天候は鴨川の水同様、思いのままにならない事を述べている。
 この句を雄渾な句とみる人もいるが、この句は太閤の桜狩りの華やかであったあちこちの風景が、嵐によりどれも台無しになった事を述べている。
秀吉が武将等と共に談笑しているところ、女性達が桜の下で食べているところなど、それぞれの風景が嵐のあとは皆無残となっていることを述べた句であると解釈する。「太閤様の桜狩」と言っているが、「吉野の山」の風景については述べてはいない。従って、雄渾な風景とみるのは誤った解釈と考える。
 
〇山吹や川よりあがる雫かな
 山吹は山の中腹に咲いていたり、川辺に咲いていたりする。この句の山吹は川辺に咲いているのであろう。風が吹いたのか、魚が川面に出て来たのか、或いはその他の理由か分からないが、川の水が跳ねて、山吹の花に掛かったのである。この川の水は綺麗であったため、この跳ね水を雫と表現したのであろう。
 園女はこのような見過ごされがちな小さな出来事に注目して句にした。
 
〇竹の内に越えて吉野に詣づるとて三句
   鼻紙の間(あい)にしをるるすみれかな
 吉野に詣でて、路傍の菫を見てそれを取って鼻紙の間に挟んだ。再び開いてみたら、既に菫は萎れていたというのが句意である。
 形が崩れないようにと願って、鼻紙で包んだのであるが、再び開いてみたら期待の外で、萎れてしまっていた。園女の行為や可哀そうという気持ちは少女の様な可愛さである。
 
〇春雨やされども笠に花すみれ
 春雨が降って来た。笠を差しているから頭などは濡れないが、着物の袖などには雨が掛かってくる。しかし、菫の花にとっては恵の雨と思うと、歩いていても気持ちが軽くなる。
いかにも、女性ならではの句であり、詠んでいるこちらまで、気持ちが軽くなってくる秀句だ。
 
〇同じ野中より駕籠にかき乗せられて
   手を延べて折行く春の草木哉
 この句は夫と大和路を旅したときに詠んだものらしい。その夫が園女を駕籠に乗せた。籠は左右に揺られて進んで行く。
 春は草の葉が伸び、花が咲く時期であるが、籠の中からでは、春の景色を十分に味わうことができないので、せめて手を伸ばして草を手折り、花に触れてみたいとの気持ちを表した句である。これも女性らしい句と言える。

〇みどり子を頭巾でだかん花の春
 花の春とは、色々な花が咲き誇る仲春の頃である。生まれたばかりの赤子を素手ではなく頭巾でくるんでから抱いた。そして、この春の景色を見せてあげたいという気持ちが働いている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?