天亮

秋月亮風です。「論語独り言」(税込み1,650円)を出版しました。ご希望の方は下のメー…

天亮

秋月亮風です。「論語独り言」(税込み1,650円)を出版しました。ご希望の方は下のメールにてご連絡下さい。郵送代をご負担ください。メールアドレス:leongfung1@yahoo.co.jp 著作に「自閉症児を育てることは楽しい」「蓮台蛙集」「孔子家語註解」有り 。

最近の記事

(2)君臣の義とは、君主と臣下の間の1対1の契約を意味した

義の字は、我の上に羊が置かれている。羊は神の代理人なので、これを神と看做すと、「己より神を優先する」を意味する。実際、義には、義務、約束、契約、道理という意味が付加されている。別な言葉で言うと、義務、約束、契約、道理は、どれも、自分のしたい事より優先すべき事柄である。  古代中国では、君臣の義が強調されているが、この言葉の本来の意味は君主と臣下が1対1の君臣の関係を結ぶ契約という意味である。それでは、君臣の契約とはどのような契約であろう。春秋時代、仕官する際に、君侯と臣下が雇

    • (1)孔子が愛を仁と翻訳した

      仁の字は甲骨文にはない字である。漢許慎の【説文】では、仁について次の様に説明している。   親也。従人,従二。臣鉉等曰:「仁者兼愛,故従二。」   「兼愛」とは「愛人」(人を愛す)という意味であり、現代語では「博愛」という。しかし、「故に二に従う」とはどういう意味であろう。 孔子は「仁」の「二」を天地の神と解釈し、人の右に神がいるという構造は、神と共に生きる事を意味し、それがすなわち人を愛すという意味になるのと解釈したと考える。老子も「一は二を生じ、二は三を生ず」として、造物

      • (百)楊万里の代表作「月下傳觴」を読む

        「月」は詩詞の最も重要なテーマの一つである。月の歌と言えば、先ず李白の「月下獨酌」を思い出す。 月下獨酌 花間一壼酒,独酌無相親。 挙杯邀明月,対影成三人。 月既不解飲,影徒随我身。 暫伴月将影,行楽須及春。 我歌月徘徊,我舞影零乱。 醒時同交歓,酔後各分散。 永結無情遊,相期邈雲漢。   北宋の文人蘇軾はこれを受けて、次の詞を作った。 念奴嬌(中秋) 憑高眺遠,見長空萬里,雲無留跡。 桂魄飛來,光射處,冷浸一天秋碧。 玉宇瓊樓,乘鸞來去,人在清涼國。 江山如畫,望中煙樹歴歴

        • (九十九)梅を題材にして小唄「鷓鴣天」を作る

          詩歌の分野では、梅は最も陳腐なテーマの一つである。何故なら、梅を題材にした詩詞はあり過ぎるからである。このため、どの様に描いても古人の真似になってしまいがちだ。 梅を詠んだ有名な詩詞をいくつか紹介しておく。まずは、梅を詠んだ詩で、「千古の絶調」と定評のある、有名な「暗香浮動月黄昏」の詩から紹介しよう。北宋銭塘(現浙江省杭州市)の人、林逋が詠んだ「山園小梅」を次に掲載する。 山園小梅 衆芳揺落獨嬋妍,占盡風情向小園。 疎影横斜水清淺,暗香浮動月黄昏。 霜禽欲下先偸眼,粉蝶如知合

        (2)君臣の義とは、君主と臣下の間の1対1の契約を意味した

          (九十八)晏幾道が作詞した「鷓鴣天」を紹介する

          男女の情を巧みに詞に表現したのは、北宋臨川人(現江西省南昌市進賢縣)の人、晏幾道である。彼の父親は首相でもあり、詞人もあった晏珠である。その七番目の息子ではあったが、官人として栄達できなかった。 彼の詞は父親と同じく、感情表現において巧みであり、共に「婉約詞派」(婉曲詞派)と呼ばれている。晏珠の詞が上品で迫らないのに対して、息子の詞は、繊細で美しい。 漢語は、細かく感情表現するには難がある言語であるが、彼の素晴らしい表現力は驚嘆に値する。晏幾道は、「鷓鴣天」の曲で優れた作品を

          (九十八)晏幾道が作詞した「鷓鴣天」を紹介する

          (九十七)小唄「鷓鴣天」に関する故事を紹介する

          『鷓鴣天』という曲はテレサテンが【淡淡幽情】というアルバムの中で、『有誰知我此時情』という題で歌ったことで広く知られるようになった。彼女の歌った詞は、首都で有名な聶勝瓊という遊女(歌妓)が書いたものである。     鷓鴣天(寄李之問) 玉慘花愁出鳳城,蓮花樓下柳青青。 尊前一唱陽關曲,別個人人第五程。 尋好夢,夢難成。有誰知我此時情。 枕前淚共階前雨,隔個窗兒滴到明。 <意訳> あなたが鳳城を離れるとき、玉の飾りの艶も消え失せ、咲く花も悲しげであり、樓下の青々とした柳の木も活

          (九十七)小唄「鷓鴣天」に関する故事を紹介する

          (九十六)蘇州拙政園にて小唄「鵲橋仙」を作る

          蘇州へ行ったときに、拙政園を見学したことがある。拙政園は蘇州四大庭園の一つで、太湖の石を多く用いているので有名だ。 林語堂がその著書【人生をいかに生きるか】第十章「自然の楽しみ」で、次の様に述べている。  家や庭園の石の効用を徹底的に鑑賞しようと思えば、中国書道にまで遡らなねばならない。けだし書道は抽象世界のリズムと、線と構成の研究にほかならない。  真の良石は、荘重と超脱を連想せしめるものでなければならないが、それより大切なことは線が正しいということである。線と言っても、直

          (九十六)蘇州拙政園にて小唄「鵲橋仙」を作る

          (九十六)蘇州拙政園にて小唄「鵲橋仙」を作る

          蘇州へ行ったときに、拙政園を見学したことがある。拙政園は蘇州四大庭園の一つで、太湖の石を多く用いているので有名だ。   林語堂がその著書か【人生をいかに生きるか】第十章「自然の楽しみ」で、次の様に述べている。  家や庭園の石の効用を徹底的に鑑賞しようと思えば、中国書道にまで遡ら  なねばならない。けだし書道は抽象世界のリズムと、線と構成の研究にほかならない。  真の良石は、荘重と超脱を連想せしめるものでなければならないが、それより大切なことは線が正しいということである。線と言

          (九十六)蘇州拙政園にて小唄「鵲橋仙」を作る

          (九十五)天亮先生、天啓により李白と交流する詞を作る

          李白(出身地不明)はいうまでもなく、中国第一の詩人である。彼の詩は豪放、明快、生き生きとしていると評されているが、その一方で、(六十八)で示したように緻密で繊細な詩も作っている。  若いころの事である。私はぼおっとして、香港の歌『夜雨聲』を聞いていた。この歌が好きで、同じ歌を繰り返し聞いていた。李白の詩などことが思い出していたが、何回か聞いたあと、突然、眼前に文字が浮かんできた。そこで、急いで鉛筆を以って、その文字を書き取った。その時の詞を示す。ちゃんとした詞にするため、少し

          (九十五)天亮先生、天啓により李白と交流する詞を作る

          (九十四)実家に戻った妻のため小唄「滿江紅」を作る

          結婚して、まだ1,2年も経たぬころ、妻が実家に戻った。彼女が実家に居る間、一人、歌などを吟じたり、本を読んだりしていた。夜、ベランダから空を見上げると満月が掛っている。これに興を得て小唄を作った。   滿江紅(千里共嬋娟,寄於余妻) 滿里青天,放眼處,三分春色。 朝暉裡,有呼吸聲,無言佇立。 人生路途遇見你;百年合好由天訣。 幸同卿,琴瑟已相合,今暫別。   傾城女,本難得;興家婦,更難得。 祈賢妻有才,婦人之德。 往日猶如有情話;而今無奈無人説。 但試問,誰能解憂悶,人間月

          (九十四)実家に戻った妻のため小唄「滿江紅」を作る

          (九十三)妻を慰めんが為、小唄「踏莎行」を作る

          彼女のおばあちゃんが亡くなった。冬の事であった。実家に戻った彼女を慰めるため、小唄を作ろうと思った。 先ず、頭に浮かんだのは、北宋揚州高郵(現江蘇省揚州市高郵)の人、秦觀が作った踏莎行(郴州旅舍)であった。この詞牌で作ろうと考えた。それを次に示す。 踏莎行(郴州旅舍) 霧失樓臺,月迷津渡。桃源望斷無尋處。 可堪孤館閉春寒,杜鵑聲裏斜陽暮。  驛寄梅花,魚傳尺素。砌成此恨無重數。 郴江幸自繞郴山,為誰流下瀟湘去。 郴 (ちん)江:湖南省の南端、郴州を流れて、湘江に合流する川。

          (九十三)妻を慰めんが為、小唄「踏莎行」を作る

          (九十二)天亮先生、新婚旅行にて小唄『鵲橋仙』を作る

          30年も昔の話である。当方も人並みに結婚して、新婚旅行に行った。行先は台湾の南端部に位置する『墾丁国家公園』である。ここは常夏の楽園だ。中でも、屏東県の『佳楽水』は有名な景勝地で、素晴らしい景色を堪能することができる。太平洋に面した海岸沿いに奇妙な岩が2.5kmも続く。現地の人の話では、一枚の花崗岩で出来ているらしい。 『佳楽水』は「高落水」という言葉から来ているらしい。付近にある滝の水が、高い所から落ちて来ることを「高落水」と書き、それが「佳楽水」に変化したらしい。台湾音で

          (九十二)天亮先生、新婚旅行にて小唄『鵲橋仙』を作る

          (九十一)宋代の小唄「滿江紅」「念奴嬌」を作る

          滿江紅は「豪放詞派」(豪快詞派)がよく作る詞である。この詞の特徴は、前半次第に盛り上がって行き、後半の対句の後から段々その勢いが弱まって行く。 この詞を好んで作っていたのが、中国第一の詞人、南宋歴城(現山東省済南市歴城区)の人、辛棄疾である。辛棄疾は金の占領下に育ち、成人して武装蜂起に参加し、南宋に帰順した。その後、建康通判、滁州知州などを歴任したので、揚子江下流一帯を見て回ったことがあり、その時のことを詞にしている。その中で、当方が気に入っているのを一首だけ挙げておこう。

          (九十一)宋代の小唄「滿江紅」「念奴嬌」を作る

          (九十)宋代の小唄「清平樂」を作る

          清平樂は宋代に大陸で流行った小唄の一つで、多くの詞人が作っている。中でも、北宋臨川人(現江西省南昌市進賢縣)の人、晏幾道がこの曲ですぐれた詞を残している。 清平樂(留人不住) 留人不住,醉解蘭舟去。 一棹碧濤春水路,過盡曉鶯啼處。 頭楊柳青青,枝枝葉葉離情。 此後錦書休寄,畫樓雲雨無憑。  <大意> 引き留めるも留め得ず、 彼の女(ひと)は酔いてもやいを解き行かん。 暁に棹させば春の揚子江に波が立ち、 鶯が鳴く処を過ぎ行かん。 渡しの枝垂れ柳は青々として、 枝枝の葉に別れの表

          (九十)宋代の小唄「清平樂」を作る

          (八十九)中村汀女の句を味わおう

          中村汀女の略歴を先ず示しておこう。 1900(明治33)年、熊本市画図町に生まれた。 1920(大正9)年,20歳、大蔵省官僚の中村重喜と結婚。 1932(昭和7)年,32歳、ホトトギス同人となる。  大正9年に小倉在住の久女を知り、結婚後、東京に引っ越して来て、かな女と知り合った。 1944(昭和19)年,44歳、汀女句抄発刊。 1988(昭和63)年,88歳、没。   彼女は明治生まれであるが、30歳過ぎてから同人になって活躍したことを考えると、昭和に活躍した俳人と言って

          (八十九)中村汀女の句を味わおう

          (八十八)『今様狂歌つくし集』の狂歌を紹介する

          香鳴俊成(かなりのとしなりと読む)なる人物が世に問うている標記の本がある。この名前は藤原俊成のもじりであることがすぐわかる。もし、かの人物が生きていたなら、かなりの歳であろう。このペンネームからして、狂歌のセンスが高い人物と推測される。  この書物は前書きがなく、いきなり撰定した歌の紹介から始まる挑戦的な書である。  百首ある本歌取り狂歌の中、ここでは当方が気に入ったのを紹介する。 ・胸先につかえる芋を憎くあらば        味よきゆゑにわれ食いひめやも 杭地(くいじの)春

          (八十八)『今様狂歌つくし集』の狂歌を紹介する