(六十九)智月尼は芭蕉とよい仲であった
元禄二(1689)年、芭蕉が45歳、智月尼56歳の時、芭蕉は大津の智月尼を尋ねている。その時の歌を紹介する。
・大津にて智月という老尼の住処を尋ねて、おのが音(ね)少将とかや、老いの後、此の辺り近くかくれ侍 りしというを
少将のあまの咄や志賀の雪
この句について、完訳日本の古典54芭蕉句集から、その脚注を引用する。
鎌倉時代初期の女流歌人。後堀河帝の中宮竴子(しゅんし)すなわち藻壁門院に仕えたので藻壁門 院少将と呼ばれた。
老後、出家して京の法勝寺旧跡に住む。琵琶湖岸坂本の仰木に隠れ住んだのは妹の弁内侍で(井蛙抄、弁の内侍日記)。この前書きには両者の混同がある。
智月が間違って話したのを、芭蕉はそのまま受けとったのであろう。歌は「おのが音につらき別れはありとだに思いも知らで鳥や鳴くらむ(新勅撰・恋)。
元禄二(1689)年、芭蕉が45歳、智月尼56歳の時、芭蕉は大津の智月尼を尋ねている。その時の歌を紹介する。
・大津にて智月という老尼の住処を尋ねて、おのが音(ね)少将とかや、老 いの後、此の辺り近くかくれ侍 りしというを
少将のあまの咄や志賀の雪
この句について、完訳日本の古典54芭蕉句集から、その脚注を引用する。
鎌倉時代初期の女流歌人。後堀河帝の中宮竴子(しゅんし)すなわち 藻壁門院に仕えたので藻壁門院少将と呼ばれた。
老後、出家して京の法勝寺旧跡に住む。琵琶湖岸坂本の仰木に隠れ住ん だのは妹の弁内侍で(井蛙抄、弁の内侍日記)。この前書きには両者の混 同がある。
智月が間違って話したのを、芭蕉はそのまま受けとったのであろう。歌は「おのが音につらき別れはありとだに思いも知らで鳥や鳴くらむ(新勅撰・恋)。
芭蕉は智月尼をおのが音少将に擬えている。二人は句会で心を寄せあったのかも知れない。雪の降る二人だけの部屋で、好きな俳句の事などについて、静かに話をするのは格別に楽しい時間であったろう。そこで泊まるが、また旅立たなくてはならない。暫くはここで楽しい時間を過ごそうという芭蕉の気持が現れている。
二葉亭餓鬼録によると、この話には続きの句がある。次にそれを記載する。
少将のあまの咄や志賀の雪(芭蕉)
あなたは真砂爰(ここ)はこがらし(智月)
(あちらの方は、真砂のように美しい方。こちらは木枯らしの婆さん ですよ)
草箒かばかり老の家の雪(智月)
火桶をつゝむ墨染のきぬ(芭蕉)
(草箒しかない老女の家にも雪が積もり、部屋の中は寒いでしょう)
(私の墨染めの着物で用意して頂いた火桶を包んでいるので寒くあり ません)
芭蕉のガールフレンド。――智月さんとの恋。
https://ameblo.jp/tta33cc/entry-11173555640.html
このやり取りを見ると、二人はかなり仲が良かったものと推察する。