桜庭由紀子『落語速記はいかに文学を変えたか』
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— 儒烏風亭らでん🐚ReGLOSS (@juufuuteiraden) August 9, 2024
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自分の場合、最初に落語に触れたのは活字から。
小学生の頃、クラスのお楽しみ会だの、お昼の放送だので落語をやっていた事を思い出す。もちろん、実際に実際に寄席に行った事も、生の高座を見た事もなかった。今でもない。行きたいとは思っているんだけど。
もちろん『笑点』は見てたから、それで落語家という存在は知っていたし、何ならTVの落語も聞いてたはずだけど、意識していなかったと思う。
意識して落語を鑑賞したのは、図書室の落語全集を読んだのが最初だ。お昼の放送で先輩がたどたどしく読んでいたのを聞いて、自分の方がうまくできるぞ、と思って読みだしたのだった。国語の授業で、割と朗読は褒められる方だったからイケると思ってやってみたら、コレがソコソコ好評で、そのあと五回、七回くらいやったかな?
当時あこがれていたクラスの可愛い子にも受けが良くて、学年行事のクラス代表に選ばれたまでは良かったものの、彼女にイイとこ見せようと浮かれた結果、大失敗。
それ以来、落語がトラウマになってしまった。そんな自分がまさか、落語大好きどころかもうじき前座です、などというVtuberを推す事になるとは。
まあそんな自分語りはともかく。
落語というものに最初に触れる……というか、その存在を認識したのは寄席が最初、なんて人は、もうほぼいないんじゃないかしら。
あなたの落語はどこから? 『笑点』とか『日本の話芸』といったTV、最近では『昭和元禄落語心中』や『あかね噺』等の漫画もあるんだろうなあ。
リアルライブからメディアへ移るとは?
というわけで、この本は落語に関する本であるだけでなく、娯楽について、演者を生で見る時代から、メディアを介して楽しむ時代への変化の始まりについて書かれた本でもあると思う。
演者を招いて、速記記者がそれを記録する様子が活写されているのだけど、なんだかラジオの収録でもしているみたいな雰囲気だ。
その一方で、文章には乗り得ない、演者の声の調子や表情、それらが作る雰囲気について、筆記者たちが悪戦苦闘する様子もうかがえる。そんな試行錯誤が、口語文による文学表現にどれほど貢献したか。
またそういった大衆芸能から文学への流れによって、小説が庶民の心情を描くものになっていく。
この文学のボトムアップ感というのは、イギリスの文学が、大衆演劇だったシェイクスピアに拠るようなものなのかな? シェイクスピアの戯曲が、英国近代文学を生んだように、三遊亭圓朝の高座が、日本の近代文学を生んだ? だとすると日本の近代小説の祖が、シェイクスピアを学んだ江戸っ子の夏目漱石なのも、なるほどと思う。
抜け落ちるものに鈍感になっていないか。
速記者から口語文学の開拓者まで、この本には悪戦苦闘する人々がたくさん出てくるけれど、何にそんな悪戦苦闘しているかというと、ライブからメディアに移す時に、拾い得ないものが山のようにある、という事だ。
そりゃそうだ、名跡の芸なんて、一対一で教えられ、場数を踏んで何年かかるか、なんてものを、文章だけではどうしようもない。今では、文章どころか、録画録音、最近ではバーチャルリアリティなんてものまで出て来ているわけで。それはつまり、ライブをどれだけメディアに乗せられるか、という技術開拓でもあったのだけど。
そして今の私たちは、娯楽だけではなく、元来は自分の目で見て、自分の耳で聞いて、その場で受け止めていたあらゆるものを、ことごとくメディアを介して得るようになった。
しかし、いくら技術が進んでも、ライブとメディアは違う。
そこにはどうしても、取りこぼすものが出てくる。
文字しかなかった頃は、それが明確だった。
だからメディアを作る側も悪戦苦闘し、受け手もそれを自覚していた……しかし今の自分たちは、どれだけそこに自覚的であるだろうか?
抜け落ちたものを無意識に補完する私たち。
ネットを介してモニター画面やゴーグルを見ていても、そこに映し出されるものについて、ここに至るまでに、どれほどのものが抜け落ちているか。それがどれほど膨大か、重要なものであるか、知る事すらできない。
これはとんでもなく恐ろしい事じゃないか。
さらに恐ろしいのは、抜け落ちている事に気づかないという事は、自分でその部分を補完しているという事だ。おそらくは、本来と違う形で。直接に接したら違ったかもしれない形で。思い込みと偏見で。自分の願望や欲求に従う形で。
そして、実際にそうであると思い込んでいる。
もちろん、メディアの送り手は、受け手に補完させる事を前提として、創作なり演出なり編集なりするんだけど……いや、送り手も、最近はそのへん自覚していないヒト多いかな?
文字のみのメディアであれば、抜け落ちたところが膨大であること、それを自分が自分勝手に補完していることは、言われるまでもないんだけど……なぜか最近は、140文字を読んだだけで、相手の事を全て分かった気になって、怒ったり暴れたりする人が増えていますね……怖い怖い。
実際の寄席に行く理由がまたひとつ。
私も他人の事は言えないのです。だって、実際の寄席と文字に起こされた落語の違いについて書かれたこの本について、こんなにああだこうだ言いながら、実際に寄席に行った事がないんだから。肝心の経験が抜け落ちている。
ライブがメディアに、さらにはバーチャルにまで移行しようとしている今、確かにこの本は読んでおいた方が良い一冊。それを推薦してきたのがVtuberでありながら、実際の寄席に足を運んでほしいと常日頃語っている儒烏風亭らでんさんであるというのが、また何重にも面白いところ。
こうなると、もう、実際に寄席に行ってみない事にはねえ、という気持ちになるのです。幸い、愛知県は芸処。落語会は季節の折々に行われているし、定席もあります。行こうと思えばいつでも行ける。
……ただその前に、ひとつ大きな問題が。
いたいけな小学生だった頃、学年全員の前で、赤っ恥かいたあのトラウマを、どう克服したらいいんでしょう?
現状報告(主に #note の更新)及び
— レオナール・フグ田🐚 (@LeonardFouguta) January 5, 2025
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